第11話 ‘We’から‘I’へ

ロンドンの冬は雨っぽく

晴れ渡る日は殆ど無い


1554年2月1日も

やはり冷たい雨がシトシトと降りしきる


しかしトマス・ワイアット軍1万の兵は

寒気を感じるどころか

身体から湯気が立ち上る程に熱気を帯び

意気揚々とロンドンに向けて行軍を続けている


何故ならワイアット軍は

英国南東の港町ケント州から出発し

30kmあまりなんの抵抗も無く


いや、それどころか、

途中メアリー女王が差し向けた

討伐軍に出会うも寝返って

ワイアット軍に参加すると言う

敵軍からの思わぬ援軍が加わり

否が応でも兵士達は盛り上がっていた


「野蛮なカトリック女王メアリーを

引き摺り下ろせ!」

「エリザベス様を女王に!」


ワイアットは勝利を確信する


・・ロンドン市民も

きっと我らに呼応して蜂起し

簡単にロンドンを制圧できるだろう・・


風は間違いなく

この若き将ワイアットに吹いているのだ!


「Ohhhhhhh Sir! Ohhhhhhh・・」


ロンドンに到着した兵士達は気勢を上げ唸り声を響かせる


到着場所はサザック地区

テムズ川を渡れば


・・一気にホワイトホール宮殿へ

雪崩れ込むぞ・・


はやる心を抑えてテムズ川を臨むと


なんと橋は跳ね上げられ、

大砲がこちらに向けられているではないか


・・どうしたものか?しかも

川向こうに人の気配が感じられない・・


トマス・ワイアットは立ち止まった

・・これは罠かもしれぬ・・


ワイアット軍にとって

橋をかけ直すのは造作もないこと

しかし不気味な予感がし突撃を躊躇した。


ロンドン市内には

ワイアットに同調している者が

少なからず居る。

ならば

・・橋が跳ね上げられているのは怪しい・・


この橋を渡ればホワイトホール宮殿は

目と鼻の先なのだが、


ワイアットは罠だと確信し

作戦を変更した


「皆の者!キングストンに向かうぞ!」


キングストン橋はサザックから

15㎞上流(西)にある

ワイアットは安全の為、西に迂回し

ホワイトホール宮殿に向かう事とした

大回りだが安全に安全を見たのだ


さあ、キングストンに向かう事に変更した

ワイアットに風が吹いているのか?

・・

さてその頃、

ロンドン市民はどうしていたのか?


実は

ワイアット軍が睨んでいたサザックの橋から

徒歩10分足らずにあるギルド・ホールに

メアリー女王の呼びかけで

集まっていた。


ホール内は騒然としている

「ワイアットに従うべきなのか?」

「メアリー女王様は正当なチューダー家だぞ」

「罰が当たるぞ!カトリックなぞ!」

「ワイアットはダドリーと同じ糞だろ!」

「女王がスペインと結婚したら?」

「スペイン人の奴隷になるのは嫌だ」


メアリー女王か?ワイアットか?

市民達はかなり混乱している


そこに突然、ワイアット軍の物凄い雄たけびが、ここギルドホールにも届いた


「Ohhhhhhh Sir! Ohhhhhhh・・」


市民は動揺し口々に叫ぶ

「殺されるぞ!」

「メアリー女王を捕えろ!」

「神はワイアット“様”を祝福しているんだ」


その時、


ギー、バタン!


重々しいドアが開かれた


コツ コツ コツ コツ


足音がホール内に響き渡る。


枢密院・大法官を後ろに従えて入城したのは

メアリー女王だ


市民は固唾を飲み女王の歩みに

釘付けとなる


女王の身長は高くない。しかしオーラが、大勢の市民達を圧倒した


女王はゆっくり歩き

落ち着いて壇上に上がった


「皆さん、ご存知の通り、ケントの謀反者がロンドンに近づいてます。」


女王はこう言い終わると

下を向き、

眼を閉じ、

右手で胸のロザリオを握りしめた


この瞬間もワイアット軍の唸り声は続いている


女王は不安であった

このワイアットの反乱軍に勝利するには

目の前の聴衆者を味方にする事が絶対条件


さもなくば、この場で自分は

市民達にひっ捕えられて

ロンドン塔で斬首されるであろう。


前女王ジェン・グレイのように


・・神よ、母よ、どうか御加護を!・・


そして女王は

胸のロザリオから手を放し、

眼をカッと開き、

顔を上げて、

ゆっくりと語り出した


「朕は、父ヘンリー8世の娘であり、紛うことなきチューダー家の血統をひいています」


そう言い終わると女王は左手人差し指を立て、天を指すように左手を掲げた。


戴冠式典で嵌めた王の象徴である指輪を

皆に示したのだ


「この指輪を、これまでも、そして、これからも外す事はありません。朕は王国と法に嫁いだからです」


聴衆は息を呑んだ。唐突な自己主張であるが傲慢さは感じない。心良い誠意が聴衆者の胸に響く。


女王はその空気を感じ取った


「皆様は父に忠誠を尽くしてくださいました。同じように皆様は朕にも忠誠を尽くして下さると信じて疑いません」


女王は一瞬天を見上げ、

そして落ち着いて言葉を続ける


「“私”は母になった経験はございません。

しかし、皆様。。。皆様は

"私"にとって大事な子供でございます」


女王はここから

‘朕(We)’ではなく‘私(I)’と表現した

女王ではなく、1人の女性メアリーとして

聴衆に身を寄せたのだ


「母が子を愛するように、自然の情として、

私は、、、私は、

皆様を愛します。

皆様を守ります。

何故なら、皆様は私にとって、大事なかけがえのない子供なのですから」


途中から、メアリーは

威厳を保ちながらも

昂る気持ちを言葉に乗せた。


聴衆の中にはすすり泣く者も。

この瞬間、市民の不安な心を

メアリーは捉えた


「そして皆様が心配なさっている事をきちっとお話します。

私はこの大法官と枢密院の許可もなく外国の者と結婚する事はありません。皆様から祝福されない結婚はすべきでないと思ってるからです。」


この時、奇跡が起こった

ワイアット軍のうねり声が

ぱたりと止んだのだ。

ワイアット軍が、この時、サザックを背にし

西へ迂回したからだ


市民は互いに顔を見合わせ

拍手をし口々に叫んだ

「メアリー女王、万歳!万歳!」


勝った

‘We’から‘I’へ

風はメアリー女王に吹いたのだ。


しかし、このメアリーの演説は全て嘘だ。

もう既にスペイン王太子と結婚予定ではないか!

・・

ワイアットからメアリー女王を守る為

ロンドン市民義勇兵が2万5千人も集結。


トマス・ワイアット軍は完全に出遅れた

ロンドン市内に到着したのは

既に6日も経過した2月7日だ


その日は珍しくポカポカ陽気の晴天であったが


トマス・ワイアット軍は

ガタガタ震えながら両手を頭に跪く。


もし西に迂回せず、間髪入れず突入すれば、

勝利の風はワイアットに吹いたであろう

しかし躊躇ったが故に

英雄から反乱者の汚名を被り罪人に堕ちた


そしてメアリー女王は嘘八百を並べて

間一髪で風を手繰り寄せ勝利し

女王の座を確固たるものにしたのだ

・・

そして更に5日後の2月12日 

仮病でホワイトホール宮殿行きを遅らせていたエリザベスがようやくロンドンに到着する


エリザベスは純白のドレスで馬に騎乗し、

後ろにはヴェルヴェットで縁取った紅緋色の縁取りをした100名の騎馬隊を従えた


しかし、エリザベスは青ざめる。

メアリー女王からの痛烈な歓迎を受けたからだ


傍らに大勢の反乱兵の遺体が放置され

そしてその先には


・・ああ、愛するトマス・ワイアットの首が

槍に突き刺さっているではないか!・・


・・しまった、しくじった・・


しかしエリザベスは覚悟を決める。

悲しみと恐怖を堪え


ゆっくりと、歩みを進め

ワイアットの首に一瞥もせずに通り過ぎた

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