雄三
地面に転がった美作はすぐに痙攣し始めた。胸に被弾したのか、どくどくと血が流れ出している。
身体が動いた。ほとんど無意識だった。草むらを飛び出した雄三は、まっすぐ美作に駆け寄るとその身体に覆いかぶさった。
なぜ?
なぜ俺はこんな事をしてる。
「美作、大丈夫かっ」
答えの出る前に、叫んでいた。美作はもう虫の息だった。血が出ているというより、血そのもののように見えた。だがふっと目が動き、雄三に気付くと、その肩を抱き寄せた。
「な、なんだ? 美作、なんだ」
その口が、すまなかった、と動いた気がした。
「美作っ、おい、美作」
次の瞬間、雄三の目の前で、美作の頭が破裂した。
脳漿が飛び散り、スイッチが切れるように眼球から光が消えた。空気が振動する。誰かの悲鳴。視線を上げると、顔半分の皮膚を失った明日葉が、金切り声をあげていた。狂った叫び。
「殺った! 美作加州雄を、殺ったぞ」
その首筋には血液とも肉片とも言えないものが垂れている。目は見開かれ、口は大きく歪み、唇の一部を失ったせいかヨダレがだらだらと垂れている。その顔は人間のものではなかった。
化物――
雄三は思った。
美作じゃなかった。
本当の化物は――こいつだ。
「さあ、次は坊っちゃんの番だ。あんたにも、死んでもらわんと」
拳銃が構えられる。いよいよ死ぬのだ、という感覚があった。
その時に雄三に訪れたのは、恐怖ではなかった。奇妙な感覚が、雄三を満たしていく。
なんだ、この感じ――
雄三は立ち上がった。恐怖が消えたわけではない。だが、それより優先すべき事があった。明日葉の顔を見つめ、自ら進み出た。銃口がほんの数十センチの距離にある。
「坊っちゃん……何の真似です」
「さあな。だが、もう逃げるのはゴメンだ」
「なんですって?」
「もうゴメンだって言ったんだ。今までみたいな、逃げまわる人生は」
明日葉の笑みが引きつり、やがて下劣な表情になる。
「おい、調子に乗るんじゃねえぞ。強がっても許しゃしませんよ」
「強がってなんてねえ。ただ、逃げたくねえんだ」
いよいよ明日葉は顔を歪めた。このガキ、と唾を吐き出して叫ぶ。
「親の傘の下で、粋がったガキが! 勝手して、暴れまわって、でかい面をして……いいか、お前が頼った親父の力は、俺が与えてやったものだ。全ては、俺の力なのだ。お前のようなガキに、何ができる」
雄三は目を閉じた。明日葉の言う通りだと思った。自分はずっと、甘えてきたのだ。自分では何もできやしない。周りの人間に助けられながら、その相手に暴言を吐き続けた。
後悔があった。大きな、後悔だった。
父や、仲間や、そして沙織に対して、自分を助け、殺された美作に対して、自分はもっと違った接し方ができたはずだった。
死ぬ間際になってそれに気付くなんて、情けない。だが、死ぬ前に気付けてよかった、とも思った。次に生まれてくる事があれば、もっと違った生き方をしたい。
「死ね!」
明日葉が叫んだ。
その時――
ガガガガと空気を切り裂くような音がした。続いて、閉じた瞼の裏側が真っ赤に染まるほどの光。ハッとして目を開けた。巨大な光が破裂した。目が眩んで何も見えない。
「そこまでだ! 全員銃を捨てろ!」
「クソっ、誰だ」
明日葉が叫ぶ。
「動くな、銃を捨てろ、全員逮捕する!」
徐々に目が慣れてくる。光の中を、大勢の影が動いている。
……警察? 男たちは警察の制服を着ていた。明日葉の連れてきた警官たちか。いや、違う。警官が警官に銃を向けていた。明日葉の部下達は呆然と、自分たちを取り囲んでいる、同じ制服を着た警官たちを見ている。
「銃を捨てろ!」
拡声器の声が響き、明日葉の部下達はそれに従った。地面に銃が置かれる。
「よし、速やかに確保、怪我人は病院に連れて行け!」
その声に、聞き覚えがあった。
やがて光の中から、スーツ姿の男が現れた。顔を合わせるのは数日ぶりなのに、ひどく久しぶりな感じがする。
「無事ですか、雄三さん!」
「お前……なんで……」
本宮は一度重々しく頷くと、すぐに明日葉の方を向いた。怒りが顔に滲んでいる。腰に手をやると、ホルスターからを抜き出して明日葉に向けた。ガチリ、と撃鉄を下ろす。
「おい、本宮、やめろ!」
思わず言った。本当に撃ちそうな表情だった。だが明日葉は、皮が剥がれて肉が顕になった頬を歪め、不敵に笑った。
「殺すのか、お前が、俺を? ふふ、笑い話だ」
本宮の頬がピクリと動き、眉間にシワが寄る。
「笑い話? これのどこが、笑い話なんです」
「お前が拳銃を向けているのが誰か、わかっているのか。五葉署の刑事課長、明日葉忠男だぞ。お前のような小物が銃を向けていい相手じゃない」
本宮の顔に、微かな迷いの色が浮かんだ。その瞬間、明日葉は目を見開いて叫んだ。
「自惚れるな! この町を作ったのは俺だ。これまでずっと、俺がこの町を治めてきた! そしてこれからも俺が治めるのだ! お前なんかにできるものか。おい、考えてみろ! お前に、俺の代わりが務まるのか? 本気でそう思っているのか?」
「だ、黙れ……この悪党め……」
本宮は言ったが、言葉に力がなかった。明日葉はそこにつけこむように、続ける。
「悪党? 結構じゃないか。善悪など町の繁栄の前では取るに足らん問題だ。見よ、今や五葉町は県内でも有数の観光地となりつつある。お前が後を継げるのか? 双名商店街を? 大正市場を? 金井建設にはもはや、先行き短い廃人と、頭が空っぽなドラ息子しかおらん。おい、お前はそこまで考えて、こんな事をしているんだろうな!」
本宮は雄三を見た。その顔には強烈な不安が浮かんでいる。首を振るり、「うるさい、黙れ」と強がる。顔が紅潮し、目にうっすらと涙が浮かんでいる。本宮は揺らいでいた。
明日葉は頬から体液をドロドロと流しながら、痛がる様子も見せず、絶対的優位の本宮や警官たちを前に、堂々と持論を語っている。その圧倒的な姿に、場の空気が飲まれていくのが分かった。
雄三の中で、何かが起こった。
――ここで何もできなきゃ、俺はただの馬鹿だ。
雄三は顔を上げ、明日葉の前に進み出た。萎縮し始めた本宮を怒鳴り続けている明日葉の前に。気配を感じた明日葉が、鬼の形相をこちらに向けた。
「何だ、貴様」
そう言われた瞬間、固く握った拳を肉の露わになった明日葉の頬に叩き込んだ。反動を利用して二発目、そしてさらに、渾身の右ストレートを鼻っ柱に炸裂させた。
明日葉は砂利の上に仰向けに転がった。気を失ったのか、口をぽかんと開いて動かない。本宮が驚いた顔で雄三と明日葉を見比べる。
「雄三さん……どうして……」
雄三は肩をすくめて見せた。
「こいつは、俺が殴んなきゃいけないような気がしたんだ」
「雄三さん……」
やがて本宮は、思い出したように部下の一人に指示を出した。警官の一人が明日葉に駆け寄り、手錠をかける。見れば他の者たちは既に逮捕され、並んで坂を降り始めていた。
明日葉が連れて行かれてしまうと、雄三は本宮に言った。
「捜査から外されたんじゃなかったのか?」
本宮はいつもの真顔で、返す。
「どうしても諦められなくて……別ルートで動いてたんです」
「そうだったのか」
その時、「雄三さん、大丈夫か!」と声が聞こえた。
「大丈夫か、撃たれたりしてねえよな」
顔を青く腫らした石神が、よろけながら近づいてきた。
「平気だ。それよりお前は大丈夫なのかよ、あの尾藤に思い切り殴られたんだぞ」
石神は沈んだ表情になった。
「雄三さん……訳が分からねえよ、なんだって尾藤は……」
「もういいんだ、石神。それより――」
雄三は本宮の顔を見、それから美作の遺体を見た。
「今回の事件、実行犯は美作加州雄だ。あの小屋の中に、被害者の写真が残ってる」
「ええ、そのようですね」
本宮は幾分落ち着きを取り戻した様子で、頷いた。
「だが、黒幕は明日葉だ、あんたが疑ってた通りな」
「はい。明日葉は、私が思っていた以上の悪党でした。本当に、無事でよかった」
本宮は雄三を見つめた。その目の中に、友情の色を確かに感じた。熱いものが込み上げる。それをごまかすように、美作の遺体のそばに落ちていたノートを拾い、本宮に差し出した。
「これは?」
「親父から受け取ったんだ。佐宗正太郎って男が書いたものだ」
「佐宗正太郎?」
「俺にもよくわからない。でも、その死に明日葉が関わった証拠が最後のページにある。もうかなり昔の話だけどな」
本宮は驚いた顔をしたが、黙って受け取った。近くにいた警官を呼び止め、ノートを手渡す。それからあらためて雄三を見て、照れたように笑った。
「先ほどはありがとうございました。もう少しで、気持ちが折れるところでした」
「別に、あんたの為じゃねえよ」
本宮はふっと笑い、「お送りします。さあこちらに」と坂の方に手をやった。
慌ただしい現場を過ぎ、坂を降りると、林道沿いにさらに十数台の警察車両が並んでいた。その中の一台、紺色のワンボックスカーに近づくと、後部座席のスライドドアが開いた。
「さあ、乗って下さい」
雄三は頷いて車輌に乗りかけたが、ふと足を止めて振り返った。
「そういえば美作は、女は襲っていないって言ってたぜ」
「え?」
「俺は聞いたんだ、女を襲ったかって。だがあいつは、美作は、ムキになって否定した。女なんて襲っていないってな」
本宮は眉間にシワを寄せた。
「雄三さん、美作は凶悪な犯罪者ですよ。そんな男の言う事を信じるんですか」
「俺、沙織を襲ったのはあいつじゃないような気がする」
「しかし、状況証拠がそう言ってる。園田さんの供述からも、美作の犯行である事は間違いない」
「いや、美作は嘘を言ってない。あいつは、嘘なんてつける人間じゃない」
雄三はなおもこだわった。
「ちょっと待ってくださいよ、雄三さん、一体どうしたんですか」
本宮が大げさに驚いた表情を作り、それから笑ってみせる。だが雄三は笑わなかった。本宮は困ったようにため息をつき、まあいずれにせよ、と言った。
「いずれにせよ、取り調べの中で全ては明らかになるでしょう。さあ、急いで」
本宮に促されて、雄三と石神は車に乗った。確かに本宮の言う通り、今後は警察に任せるしかない。座席にもたれかかると、鉛のような疲労が襲ってきた。ドアを閉める前に、本宮に言った。
「今回は、助かったよ。おかげで命拾いした」
本宮は微笑んで頷いた。
「とんでもない。私たちだって、あなたの勇気ある行動により、明日葉を逮捕できたんだ。こちらこそ礼を言いますよ」
「じゃあ、またな」
「雄三さん」
「なんだ」
「これからいろいろ大変でしょうが、踏ん張ってください。五葉町の未来には、あなたの力が必要だ。あなたはこの町を背負っていく人です」
「何を言ってんだよ、オレは単なる、チンピラだ」
「今はそうかもしれない。だけど、いつか必ず、あなたは町を背負う人になる。私には分かるんです。その時まで、どうか負けずに踏ん張ってください」
その時、本宮の後ろから警官が近づいてきて、何かを耳打ちした。本宮は頷いて何事かを指示すると、雄三の方に向き直った。
「じゃあ、私は行きます。現場の処理に戻らねば。落ち着いたら酒でも飲みましょう」
「ああ、そうだな」
「約束ですよ」
本宮は笑って敬礼すると、足早に坂を登っていった。
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