雄三

 時間がない。どうする。どうする。だが雄三にはどうしても確かめておきたい事があった。


「お前、俺の女を襲ったか?」


 今聞かなければ、二度と聞くチャンスはないと思った。


「女?」


「園田沙織って女だ。五分くらい降りた所の平屋に住んでる。黒髪で、色が白くて……」


「その話はこの間も!……」


 美作が叫び、途中でハッとして止めた。


「この間? おい、何を言ってる」


 美作は首を振った。雄三は目を見開いた。


「明日葉と話したのか。沙織について、話を……」


「俺は女など襲っていない、そんな指示は受けていない」


 美作は独り事のように呟いた。それから顔を上げ、口調を荒らげた。


「あいつも、明日葉も疑ってやがった。お前がやったんだろうと」


 頭の中で、記憶のパズルが噛み合っていく。明日葉が病室で見せたあの妙な態度。ハイスピードで坂を下っていく車内で、ひとり喚き散らしていた異常な様子。


「あいつは納得しなかった。俺の事を、信じなかった」


 美作は掠れた声で言った。雄三は頷いて見せた。こいつは多分、嘘をついていない。確信があった。沙織を襲ったのは、こいつじゃない。だが、それでは沙織の供述と食い違う。美作と同じような強い体臭の男が別に存在するのだろうか。


 とにかく、時間がない。パトカーの音は徐々に大きくなっている。


「美作、お前は明日葉に踊らされてるんだ。利用されているだけなんだ」


 美作は顔を上げ、手にした佐宗正太郎のノートを大きく振る。


「違う。俺と明日葉は仲間だ。一緒に金井建設を倒して、佐宗商事を取り戻す」


「佐宗商事? なんだそれ」


「金井建設は、佐宗商事を乗っ取った。正太郎は、佐宗商事の社長だった」


「ちょっと待て、そんな話、聞いた事がねえぞ」


 恐怖とは別の感情が、動悸を強くした。だが、いよいよパートカーのサイレン音は明瞭になっていく。もう数分で警察が到着してしまう。


「パトカーの行き先は多分ここだ。明日葉が仲間なら、なんで警察がここに来るんだ」


「明日葉は……何をしに来るんだ」


「分からねえか、俺たちを逮捕しに来るんだよ! お前はもう、用済みなんだ」


 驚いた表情のまま硬直する美作に、こいつも被害者なのだという考えが浮かんだ。犯罪者には違いない。だが、その裏で糸を引いていたのは明日葉だ。ずっと前から。


「おい、逃げるぞ。このまま捕まったら、明日葉の思う壺だ」


 恐怖はなかった。美作の横を通りぬけ、開いたままの扉を抜ける。そういえば石神は大丈夫だったのだろうか、と考える。美作の蹴りで吹き飛ばされてから、姿が見えない。そもそも、尾藤やその他の仲間は何をしている? そう考えた時、坂を降りた先の空き地の真ん中に、尾藤とメンバー二人らしきシルエットが見えた。


「おお、お前ら無事だったか」


 言葉の途中で異変に気付いた。仲間の足元に、大きな芋虫のような物が転がっている。よく見ればそれは、手と足を縛られて身動きがとれなくなっている石神だった。


 思わず坂を駆け下りた。月明かりの具合で、さっきよりも皆の様子がよく見える。それは間違いなく石神だった。だが、尾藤たちは、ニヤニヤしたまま突っ立っている。


「尾藤……お前何やって……」


「雄三さん、逃げろ!」


 雄三に気付いた石神が叫んだ。


「警察が来る、あんた、殺されるぞ」


 必死に叫ぶ石神の後ろで、無表情の尾藤がしゃがみこみ、腕を高く掲げた。


「おい……まさか……」


 思わず呟く中、尾藤は石神の顔に向けて、ハンマーのような拳を振り下ろした。


「尾藤!」


 雄三は叫んだが、拳は二度、三度と容赦なく続いた。石神はぐったりとして動かない。


「余計な事言うなよな」


 尾藤が不貞腐れたように言う。


「尾藤、てめえ……」


 尾藤は雄三を見て、苦笑いを浮かべた。


「雄三さん、まあ、なんつうか、すんません」


 あとの二人も尾藤を守るように立っている。


「お前ら、まさか……」


「明日葉さんには連絡したよ。もう逃げらんねえ……ほら、ご到着だ」


 尾藤が後ろを振り返った時、紺色の森にパトカーが発する赤い回転灯が反射した。道路からの坂道を登ってパトカーが一台、二台、三台。それで空き地はいっぱいになったが、坂にはさらに後続車が連なっていた。間もなく、中から警官達が降りてくる。その数、十、いや、二十。


 ガガガガ……ガガガ…という耳障りなノイズがどこからか聞こえた。続けて、ハウリング音が耳を突き刺す。やがてノイズは聞き覚えのある声に変化した。


「あー、これは坊っちゃん。こんなところで会うとは、奇遇ですな」


 警察の間を割って、拡声器を持った明日葉が登場した。部下に護衛されながら、こちらに歩いてくる。建設現場で使うような大型の照明が何台か持ち込まれ、あたりを照らす。


 明日葉は尾藤たちの脇を通り抜けると、転がったまま動かなくなっている石神を一瞥し、満足そうに頷いた。そして、尾藤に何かを耳打ちした。明日葉が尾藤の肩を親しげに叩くと、尾藤は嬉しそうに頷いて、二人のメンバーと一緒に坂を降りていった。


 視線を戻すと、警官の一人が石神に手錠をかけようとしていた。


「こら、てめえなにやって――」


 思わず駆け寄ろうとした雄三の腕を、誰かが掴んだ。ハッとして振り向くと、険しい顔付きをした美作だった。


「なんだよ、離せ」


「落ち着け。チャカだ」


 雄三と明日葉の距離は十メートルほど。その背後を扇形に囲んでいる警官たちは、いつの間にか皆拳銃を抜いてこちらを狙っていた。無闇に飛び込めば蜂の巣にされてしまう。そんな緊張感とは裏腹に、明日葉はリラックスした様子で笑い、拡声器を部下に渡した。


「いやはや、これは興味深いツーショットだ」


 サイレンの音がやみ、その声はよく聞こえた。


「お前が黒幕だったんだな、明日葉」


「何の事です、坊ちゃん」


「お前が全部仕切ってたんだ。警察のくせに」


 そう吐き捨てると、明日葉は微かに表情を固くした。


「何を仰ってるのか分かりませんね。捜査の中で容疑者が浮かんだ。その隠れ家が割れた。そこに来てみたらなぜか容疑者と坊ちゃんがいた。ま、その坊っちゃんも容疑者の一人だったわけだから、容疑者二人だ。私が全部仕切っていた、ですって? お言葉をそのまま返しますよ、坊っちゃん。今回の事件、あなたが全部仕組んだんじゃないんですか?」


 明日葉はそう言って笑った。明らかに馬鹿にしている。怒りで脳が痺れる。だが、これだけ拳銃を向けられた状態では何もできない。下手に動けば、本当に殺されてしまう。死人に口なしだ。どうすればいい。


「明日葉!」


 美作が言った。低い声、唸り声のようだ。明日葉の笑い声が止む。


「お前、嘘をついていたな。俺を騙していたな」


 雄三の手にあったノートを奪い取って前に出る。


「こいつを見た。正太郎の日記だ。あの日、正太郎が死んだ日、正太郎はお前に言われてプールに行ったと書いてあったぞ。だが、俺はあいつを呼び出したりなんかしていない。お前にそれを頼んだりもしていない。お前が、嘘をついたんだ」


 美作の手にあるノートを、明日葉は目を細めて見た。すぐに笑顔に戻り、首を振る。


「でたらめだ。捏造されたものに決まってる。何年前の事件だと思ってるんだ」


「これは間違いなく正太郎の字だ。このノートにも、覚えがある。おい明日葉、俺がお前と会ったのは正太郎が死んだ後だった。おかしいぞ、明日葉、お前は嘘をついている」


 明日葉はふん、と鼻で笑った。


「そんなふうな論理的な考えもできるんだな。それとも、坊っちゃんの入れ知恵かな」


「明日葉、お前が正太郎を殺したのか? プールに呼び出して、お前が――」


「馬鹿な事を言うな! 私は今まで人を殺した事など一度もない」


 そして明日葉は、歪んだ笑みを顔いっぱいに浮かべた。嬉しくて仕方がない、といった表情で、腰に手を回す。その指先がホルスターのボタンを外す。


「そう、今までは。今日が、初めてさ」


 明日葉は拳銃を抜くと、半身になって狙いを定めた。


「おい……まさか」


 雄三が言う間に、明日葉は躊躇することなく引き金を引いた。


 鋭く固い発砲音が響いた。歯ぎしりのような呻き声と共に、美作の巨体がぐらりと傾く。弾は美作に命中した。明日葉の狂ったような笑い声が聞こえる。


「明日葉……この野郎」


 美作は脇腹を押さえた。下半身が血だらけになっている。


「さあ、殺人犯が暴れ始めるぞ、注意しろ」


「お前、警察だろ、何をしてんだ!」


 雄三は思わず叫んだ。


「甘い、甘いなあ、坊ちゃん。警察だろうが何だろうが、世の中は常に戦いですよ。ま、あんたにゃ分からんだろうがね」


 明日葉は笑いながらまた発砲した。美作の身体がガクンと折れ曲がり、そして地面に崩れ落ちた。


「ああ……クソ……」


 何もできずにいると、明日葉は急に笑うのをやめた。拳銃を下ろし、近づいてくる。うつ伏せに倒れている美作を避け、雄三の目の前に立った。静かな、低い声で言う。


「言う事を聞かないからですよ、坊っちゃん」


 その恐ろしいほどの無表情に、ゾッとした。思わず後ずさる。恐ろしくて、恐ろしくて、雄三はそのまま尻餅をついた。


「ちょろちょろ動いたりしなければ、こんな事にはならなかった」


 そして拳銃を掲げると、その銃口を雄三の眉間に向けた。


「やめろ……」


 明日葉の指が引き金にかかる。その顔に、一切の感情は見当たらない。この男は本当にやるだろうという絶望的な確信があった。事実、既に美作に二発も発砲したのだ。視界の端で、動くものがあった。目だけを動かして見ると、美作が地面に手をつき、上半身を持ち上げていた。まだ死んでいない。二発も撃たれたのに、美作は生きていた。視線に気付いたのか明日葉が振り返る。


「おや、まだ息があったか」


 美作の苦しそうな声が聞こえる。巨大な身体をねじり、明日葉を睨んでいる。痛みのためか、涙が溜まっていた。


「二人で佐宗商事を取り戻す、そう言っていた。あれは、嘘か」


 美作の言葉に、明日葉は心外だと言わんばかりの表情を見せる。


「嘘じゃない。取り戻すさ」


「じゃあ、なぜ」


「嘘じゃないが、少し状況が変わったのさ。もうお前の力は必要ない。私一人で取り戻せる。だから、安心して死んでくれ」


 美作の頬に涙が垂れた。続けて、嗚咽が始まった。


「正太郎は、事故で死んだんだよな、なあ、そうなんだよな」


 悲痛な声。明日葉は嬉しそうに一笑いして、それから内緒話をするように口元に手を当て、小さな声で言った。


「違うんだよ、美作くん。佐宗正太郎は殺されたんだ。金井丈三っていう悪党にね」


 雄三はハッとして明日葉を見た。


「なんだと?」


「おや、知らなかったんですかな。坊っちゃんのお父上は殺人者ですよ」


「そんな……そんな事、あるはずがねえ」


「本当ですよ。佐宗正太郎は金井丈三に殺された。高校のプールに、蹴り落とされてね」


 信じたくはなかったが、一方で、それは真実だろうという確信があった。欠けていたピースがカチリと嵌まる感覚。「これは復讐だ」「今度は俺が殺されるのだ」という言葉の意味するところ。


 でも、なぜ? なぜ父親は、佐宗正太郎を殺さねばならなかったのか。


 雄三はそして、ハッとした。


「お前が……やらせたのか? 親父に、佐宗正太郎を殺すよう、命令したのか」


「そうじゃない」


 苛立ったように明日葉は言った。


「私は命令などしていない。選択肢を与えただけだ。丈三は自分の判断で、佐宗正太郎を殺したのだ。結果、丈三はこの町の王と呼ばれるほどの権力を手に入れた。その後の金井建設の繁栄を見よ。客観的に見ても、あの時の判断は間違っていなかったと思うがね」


「じゃあなぜ、お前は今こんな事をしてるんだ。金井建設を潰すような真似を」


 明日葉は首を振った。俯いて、拳銃を持った手を神経質に揺らす。


「物事はそう単純じゃない。いろんな事情があるんですよ、坊っちゃん。それに何を言っているんですか。今回の事件の犯人は私じゃない。あなたたちの方じゃないですか」


 顔を上げた明日葉の顔は、あのとき見た形相へと変わっていた。あの、セダンの中で喚き散らし、ハンドルを殴りつけていた時の顔。その恐ろしい顔が、目の前にある。


「……黒幕は金井家の一人息子でした。化物、美作加州雄を使って、自らの父に対して下克上を企てたが、あと一歩というところで美作と仲違いして、殺されてしまったのです。どうです、二時間ドラマの脚本くらいにはなりますかね」


「……なんだ、それは。でたらめ言いやがって、俺はそんな事――」


 明日葉の腕がヒュッと動き、拳銃の底で思い切り殴られた。あまりの衝撃に地面に投げ出される。痛みに耐えながら見上げると、目を細めた明日葉が見下ろしていた。


「さあ、もういい加減、私にすべてを与えてくださいや」


 銃口が向けられた。殺される。沙織の顔が浮かんだ。クソ、俺はここで――


 目を閉じた。次の瞬間、強烈な重力を感じた。首が絞まり、身体が浮く。


 ハッとして目を開けた時、雄三は宙を飛んでいた。上下逆さまになった美作と明日葉の姿が一瞬見え、直後、視界が黒いもので遮られる。


 雄三は地面に着地した。世界が振動する。衝撃の痛みに耐えながら慌てて身体を起こす。そこは雑草の中だった。背の高い草木に遮られて、周囲の様子がわからない。


 雄三は混乱を拒絶した。歯を食いしばり、膝を地面について、一気に立ち上がる。草は雄三の胸ほどもあった。その向こう側で、血まみれの美作が明日葉に飛び掛かったのが見えた。明日葉は咄嗟に拳銃を向けて発砲した。パーンという音が響く。だがそれよりも先に美作の手刀が明日葉の首から頬を刃物のように引き裂いた。銃口はあさっての方向を向き、銃弾は空へと放たれる。


 裂けた頬から明日葉の血液が飛び散る。明日葉は顔を押さえながら膝をつき、金切り声で「撃て、撃て」と警官たちに叫んだ。一瞬の間があり、何名かが発砲した。甲高い音が連続して響く。雄三は咄嗟に頭を抱えて草の中に身を隠した。だが、すぐに顔を上げる。


 目を逸らすわけにはいかない。自分は当事者の一人なのだ。足が、踏み出された。なぜ? あんな中に出て行けば命などすぐになくなる。でも。雄三は目を見開いて美作の闘いを見た。一歩一歩、近づいていく。明日葉がやられ、パニックに陥った警官の間を、美作があり得ないスピードで駆け巡っていた。交錯するたびに警官の顔や喉から血しぶきが散った。美作の動きは異常だった。そのスピードや鋭い手刀は本物の獣のようだ。雄三はその動きに思わず見惚れた。


「何をしとるかっ」


 顔の肉を露わにした血まみれの明日葉が鬼の形相で叫び、拳銃を構えた。


「美作ぁぁぁぁ」


 再度発砲音がし、美作が転がるようにして倒れた。

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