雄三
一瞬のうちに黒い塊が現れ、眼前で爆発するように一気に展開した。
体全体が揺さぶられる強烈な衝撃。雄三は声をあげる間もなく小屋の壁にふっとばされた。
「ぐっ……」
暗闇の中で視界はスローモーションになった。自分の身体が宙に浮いていた。
壁に弾かれ、机の上で転がり、床に落下する。痛みよりも先に恐怖が襲った。口の中に生暖かい血が溢れた。それからやっと痛みが来る。身体がバラバラに割れたような痛みだ。まともな思考を取り戻す前に黒い塊が見えた。
動物? 一瞬そう思った。
熊か、巨大な猪か……いや……
それは地面に這いつくばり、唸っていた。背後からの微かな光で輪郭が顕になる。
なんだ……こいつ……なんだ……
人間? まさか……
そう考えた時、黒い塊の向こうに人影が現れた。石神だ。特殊警棒を振り上げ、黒い塊に向かって振り下ろす――
次の瞬間、黒い塊が巨大化した。――立ち上がったのだ。
そのあまりの大きさに、雄三は息を飲んだ。尾藤どころではない。まるで巨人のようだ。
石神の警棒が振り下ろす前に、その巨大な男は身体を回転させて物凄い蹴りを放った。石神の身体は紙人形のように一瞬でひしゃげ、特殊警棒は空を切った。
声も出せずにのたうつ石神に、男は続けて前蹴りを放った。それは的確に腹をとらえ、石神の身体は、命綱を失った宇宙飛行士のように、小屋の外へと飛び出していき、見えなくなった。
影がこちらを向き直った。巨大だった。目が慣れてきてその全貌が見えた。身長は雄三よりも二十センチは大きかった。そして、どれだけのトレーニングを積めばそうなるのか、恐ろしい筋肉の鎧をまとっている。肩まで伸びたボサボサの髪。真っ黒に汚れた顔の中で、目だけが丸く光っている。原人のような風貌。
間違いない。こいつは、こいつは――
「美作……」
思わず呟いた。
男は顎を上げ、首を傾げた。
「だれだ……おまえ……」
嗄れた声。久々に話したのかもしれない。確信があった。こいつが美作だ。美作、加州雄。本当に生きていた。かつて獣と呼ばれた、町一番のヤクザ者。
既に震えが来ていた。気絶しそうなほど怖い。今にもあの太い腕で首を折られるかもしれない。皮膚をえぐられ、肉を切り裂かれるかもしれない。この男になら簡単にできるだろう。あの清掃員のように。そう、あの清掃員のように。
「俺は……俺は……俺は金井雄三だ、金井建設の……社長の……息子」
声は震えていた。こう言えば多くの者が恐れをなした。金井雄三の名を知らない者はいなかった。ほとんど無意識に漏れた自己防衛の言葉。
「金井だと?」
美作が興味を示した事で、微かな希望が芽生えた。
「俺は話をしにきた、話を聞け」
「金井……金井……」
美作はブツブツと繰り返していたが、次の瞬間、ものすごい速さで飛びかかってきた。
大きな手に喉を掴まれた。美作の顔が目の前にあった。まさに獣の迫力。汗なのか垢なのか、強烈な臭いがした。あの時と同じ臭いだ。清掃員が襲われた現場で嗅いだ臭い。だが、臭気はあの時よりもずっと強く、生々しい。
間違いない。こいつが、美作が犯人だ。だが、声が出ない。出たところで意味がない。いくら喧嘩が強くても、普通の人間がこんな化物にかなうはずがない。恐ろしくて足の感覚が遠ざかる。膝から崩れ落ちてしまいそうだ。美作の大きな手が万力のように締めあげてくる。苦しい。息ができない。このまま死んでしまった方が楽なのかもしれない。
――ダメだ。
――諦めるな。
尻ポケットに手を入れた。指先に固いものが触れた。引っ張りだした。小さな薄いノート。美作の視界に入るよう掲げて見せた。
美作の目がノートを見る。やがて雄三の喉を掴んでいた手から、微かに力が抜ける。
見覚えがあるのだろうか。力が緩んだおかげで声が出た。
「佐宗正太郎の……日記だ」
「……日記?」
美作は反対の手をゆっくりとノートに近づけていく。
「佐宗正太郎、知ってるだろ」
美作の手がノートに触れ、その縁を摘むようにして持った時、雄三を掴んでいた手が完全に離れた。雄三は床に崩れ落ち、美作から少しでも離れようと、尻を引きずって壁際まで後退した。美作は雄三の動きには目もくれず、手の平に収まる小さなノートを不器用な手つきでめくった。雄三は必死に息を整え、言った。
「美作……今回の事件、あんたが犯人だってのはもうわかってる。だけどな、別に俺はお前を捕まえにきたわけじゃねえ。俺は警察でも探偵でもねえ。いいか、ここに来たのは、聞きたい事があるからだ。あんたに、聞きたいことがあるんだよ」
美作はノートから視線を上げると、上目遣いに雄三を見た。
「なんだ」
「最後のページを見ろ、ノートの最後のページじゃないぞ、文字が書かれてる最後のページだ」
美作は迷った様子を見せながらも、その太い指でノートをめくった。やがて雄三の指示したページを見つけたのだろう、手を止め、どこか不安げに雄三とノートを見比べる。奇妙な反応だった。そこに書かれてあることが理解できれば、違った反応が見えるはずだった。
雄三はハッとした。
「読めねえのか…」
雄三の言葉に、美作は無言だった。じっと雄三の顔を見つめる。雄三はその視線を受け止めた。それからゆっくりと手を伸ばした。美作もまた視線を外さないまま、ノートを差し出した。
「九月二九日、明日葉さんより話、カズオ君、午前二時、高校のプール」
雄三はそこに書かれてある言葉を読んだ。文章というより、メモ書きのようなものだ。だがそれでも、この日佐宗正太郎が明日葉より話を受け、カズオ君、つまり美作加州雄と午前二時に、高校のプールで会う話をした事は想像がつく。
詳細は分からないが、明日葉という名がここに登場している事自体が、何か重要な意味を示している。そして。
「それだけじゃない。その隣にこんなメモ書きがある。あんまりキレイな字じゃねえから最初は読めなかったけどな、ほら、ここだ」
そして雄三はノートの端に小さく書かれた、イトミミズのような文字列を指さし、美作に見せる。扉から差し込んでくる月明かりのおかげで、ノートの文字は問題なく見えるだろう。
「読むぞ……殺される覚悟で向かう、僕は殺されるべきだ。そう書かれてるんだ。いいか、もう一度言うぞ、九月二九日、明日葉さんより話、カズオ君、午前二時、高校のプール。そして、殺される覚悟で向かう、僕は殺されるべきだ。俺はな、美作、仲間に言って過去の地域新聞を調べてもらったんだ。昔のニュースが載ってる新聞だよ」
美作は聞いている。石神は大丈夫なのだろうか。それに、尾藤や他のメンバーは……。だが今は美作とのやり取りに集中せねばならない。
「そしたらな、見つかったよ。九月三十日、つまり九月二十九日の次の日の号に、伊津高校のプールで佐宗正太郎って男が溺れ死んだって記事が。いいか、ここから想像できるのはこうだ、九月二十九日、いや、午前二時だからもう三十日になってるな、佐宗正太郎は伊津高校のプールに行った、お前に会いに行くためにだ、そして、死んだ。――お前がやったのか、美作。お前が佐宗正太郎を殺したのか?」
美作は驚いたように目を見開き、「そんなはずあるか」と言った。
「正太郎は自殺したんだ。頭がおかしくなって、自殺した」
「お前は佐宗を殺すつもりだったんじゃないのか。それでプールに呼び出した。なんでそれを明日葉に伝えさせたのかは分からねえが、とにかく呼び出した。そうだろ?」
「違う! 俺が明日葉に会ったのは、正太郎が死んだ後だ。俺は正太郎が死んじまったってことを、明日葉から聞いたんだぞ」
やっぱり、と雄三は思った。やはりこいつも、明日葉に騙されているだけなのかもしれない。明日葉が全ての黒幕で、美作は利用されているだけかもしれない、それがノートを読み込んだあとで雄三が辿り着いた仮説だった。
「おい美作、よく考えろよ。もしお前の言ってることが本当なら、おかしいじゃねえか。佐宗正太郎は、明日葉から話を聞いてるんだぞ」
美作の息が荒くなる。そして、同じ話を繰り返した。
「俺は正太郎が死ぬ前に、明日葉に会ってなどいない。俺が奴と話したのは、正太郎が死んだ後の事だ。俺たちは二人で悲しんだ。そして気持ちを共にした」
雄三の中に、確信が生まれつつあった。やはりそうだ、明日葉は何らかの目的で、美作を騙したのだ。雄三は、用意していた疑問を美作にぶつけた。
「……じゃあ、佐宗正太郎はその日、プールで誰に会ったんだ?」
「なに?」
「佐宗正太郎は午前二時、プールで誰に会ったんだ。なんで死ぬことになった」
美作は声を荒げた。
「言っただろ! 正太郎は頭がおかしくなっていた。それで自殺した」
「違う!」
雄三が言い返すと、美作はビクリとして黙った。雄三は手の中のノートをめくる。
「このノートには、お前に対する謝罪の言葉が延々と書かれてる。僕はカズオ君にひどい事をした、会って謝りたい、誤って許しを請いたい、毎日毎日、そんな事ばかりだ。そんな男が、やっとお前と会う約束をしたその日に、なんで自殺するんだよ。やっと謝れるんじゃねえか。やっと願いが叶うんじゃねえか。死んでどうすんだよ」
美作は黙っている。
「考えてみろ、その日のその時間、佐宗正太郎が伊津高校のプールにいる事を知ってる男がいるだろ。佐宗正太郎をそこに呼び出した張本人が」
美作は数秒硬直し、そしてハッとして雄三を見た。
「明日葉……まさか……」
「おい、正直に答えてくれ。今回の事件、黒幕は明日葉か?」
美作は黙った。
「誰々を襲えと、明日葉に全部指示されてるんじゃねえのか?」
無言の美作が、何かに耐えるように目を閉じた。図星なのだ。この巨体の怪物は、嘘がつけない性分らしい。
「クソ、やっぱり」
そして雄三は気付いた。座ったまま今度は前ポケットをまさぐり、丸まった写真を取り出す。この小屋から持ち去った、あの集合写真だ。その中央、顔を含めた上半身がかすれて見えない二人の男。詳細は知れないが、その片方は、もう片方の男よりも随分大きな身体をしている。
「これ、お前か……」
美作が目を開け、驚いた顔をした。瞬時に手が動き、雄三から写真をひったくる。
気が遠くなるような感覚があった。事件は、この事件は、これほど前から始まっていたのか?
その時、何かが聞こえた。
鳥の声や木の葉の擦れる音の向こうから、何かが近づいてくる。
聞き覚えのある音だった。人間の悲鳴にも似た、緊張を強いる独特の音。
「この音……まさか」
美作も振り向いて、空を見上げるような素振りをする。
「パトカーだ! 明日葉の野郎、ここに来る気だ!」
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