雄三

 SCARSの新たなアジト、廃病院に来て約半日が経った。早朝、闇にまぎれてここに来て、日中を過ごし、いま再び山を闇が覆おうとしている。

 

 病院の外に出てきた雄三は、紺に染まった空を見上げた。微かに夕日の色が残っているが、もう直に夜が来る。


「よし、行くぞ」


 雄三が言うと、尾藤が頷いて黒いワンボックスカーのスライドドアを開ける。車はSCARSのメンバーに用意させたレンタカーだ。警察に追われている状況では、いつものように集団バイクで走るわけにはいかない。


「でも、途中で警察に見つかったらどうすんだよ」


 雄三に続いて車内に乗った石神が言う。


「まあ、そんときゃそんときだ。尾藤がなんとかしてくれる」


 雄三の言葉に、運転席に乗り込んだ尾藤が振り返り、肩をすくめる。


「そんときはほら、トランクからビックリドッキリメカが出ますから」


 尾藤の言っているのは、最後部のトランクスペースに乗っている二人のメンバーの事だ。尾藤に負けず劣らず凶暴で、喧嘩の強い二人だ。SCARS全員を連れて行く訳にはいかないが、かといって雄三と石神だけでは危険過ぎる。そう考えての結果だった。


 とはいえ、雄三が本当に容疑者になっているのかは分からなかった。メンバーに言って調べさせたが、そういった情報を得る事はできなかったらしい。


 だからと言って、呑気に家に戻るつもりはなかった。石神に雄三の居場所を聞く電話があったのは事実なのだ。明日葉がわざと情報を隠し、油断を誘っている可能性もある。


 とにかく、行くしかなかった。自ら近づかなければ、真実を知る事はできない。


「尾藤、出せ」


 雄三が言うと、尾藤は頷いた。


「お前ら、気合入れてけよ」


 石神が言って、雄三以外の四人がウス、と答えた。




 廃病院を出た車は坂を下り、暗い旧市街を抜けた。人通りは皆無で、ポツポツと住宅の灯りが見える程度だ。


 途中ガレージの近くも通ったが、特にいつもと変わりはない。やがて車は交差点に至る。まっすぐ進むのは海沿いを通る国道で、途中に金井建設の館への道があり、それを超えてさらに行けば双名商店街に出る。


「別にそれらしい車はいないっすね」


 尾藤が言いながら、信号を左折する。すぐに上り坂となり、車が山に飲み込まれる。


「ここを道なりに登ってきゃいいんですね」


「ああ、目的地はトンネルのちょっと手前くらいだ。ドライブインも過ぎていい」


 やがて先日明日葉とニアミスしたT字路に差し掛かったが、警察はおろか誰の姿も見えなかった。運転席と助手席の間から身を乗り出すようにして「そのままのスピードで行け」と指示を出す。


 警察が自分を本気で逮捕するつもりなら、検問のひとつやふたつやっているだろう。ここまで何もないという事は、明日葉はまだ、動き出していないのかもしれない。安堵というより小さな希望がわきかけるが、どこかにはやり不安がある。


 その時、尾藤の後頭部が目に入って、ふと違和感を覚えた。今朝まで巻かれていたはずの包帯がない。


「尾藤、お前、包帯がねえじゃねえか」


 思わず言った。尾藤はハンドルを握ったまま軽く振り返り、「ウザいから取っちゃいました」と言った。


「大丈夫なのかよ」


「ただ湿布貼ってるだけだったんで、大して意味ないんすよ」


 尾藤は笑って言ったが、雄三の違和感は大きくなっていた。一時は集中治療室に入るほどの容態だったのだ。だがその坊主頭には何の傷跡も残っていない。


「傷とか、全然ねえじゃねえか」


 微かな緊張を覚えながら言った。だが尾藤はけらけらと笑い出した。


「そうなんすよ、コブだけですんだんすよ。医者にも呆れられました。どんだけ丈夫なんだよって」


「頭にも筋肉が詰まってんじゃねえの」


 後ろで控えていたメンバーがボソリと言って、皆が笑った。


「ま、何にせよ無事でよかったよなあ、雄三さん。尾藤じゃなきゃ、死んでたかも知れねえ」


 石神の言葉に、違和感は押し流された。確かに、その通りだった。メンバーの一人が、死んでもおかしくないような状態からこうして回復したのだ。チームのリーダーとして、まずはそれを喜ぶべきだった。疑心暗鬼になっているのかもしれない。


「ああ、そうだな」


 頷いて、無理やり納得した。




 暗闇に紛れ山中を進む黒いワンボックスは、やがてドライブインの横を通り抜けた。


 まだ営業中のはずだが、相変わらず車は少なく、閑散としている。警察車両や警官の姿もないようだった。だが雄三は安心できなかった。むしろ、嫌な感じが強まっていた。自分の知らないところで何かが進行している感じ。あまりにも、スムーズ過ぎる気がするのだ。


 尾藤は鼻歌を歌いながら運転している。石神は緊張した面持ちだが、後ろにいる二人も普通に談笑し、リラックスした雰囲気だ。彼らにとっては、所詮他人事という事なのだろうか。警察に見つかったら、後ろの二人が暴れて雄三を逃がす算段になっている。だが、本当にこいつらは、そんな覚悟があるのだろうか。


「雄三さん、このままトンネルまで行っちまっていいのか?」


 石神に言われ、我に返る。小さく首を振る。それは質問に対する反応ではなかった。俺は、何を考えてる。こいつらは実際、こうして一緒に来てくれているじゃねえか。俺がこいつらを信じねえで、どうするんだ。


「雄三さん?」


 石神が顔を覗きこんでくる。心配そうな顔だ。雄三は大きく息を吸い、吐いた。


「もうしばらく行くと、目立だないが脇道がある。このカーブを曲がって――そう、その右側、落ち葉が盛り上がってるのが見えるだろ、そこに入るんだ」


「ああ、あれですね」


 尾藤はスピードを落とすと、指示通り車を右折させた。沙織の家だ。ここに車を停めておけば、見つかることはないだろう。


「建物の向こう側に回れ、家で車を隠すんだ」

 



 人気のない平屋の裏にワンボックスを停めた。


「よし、ここからは徒歩で登るぞ」


 雄三と石神が前に立ち、その後ろを尾藤と二人のメンバーがついてくる。メンバー二人はいつの間にか鼻から下を黒いバンダナで覆い、手には通販で買ったという特殊警棒を握っている。


「お前ら、喧嘩じゃねえんだからよ」


 石神が呆れたように言う。確かにどこかズレている気もするが、頼もしくもあった。


「よし、騒ぐなよ、静かに行くんだ」


 雄三は低く言い、でこぼこした山肌に沿って登っていく。道路は大きくカーブを描いていて、曲がった先の景色は見えない。嫌でも緊張が高まっていく。皆黙って進んでいったが、ふと光を感じて振り返ると、尾藤は呑気に携帯電話をいじりながら歩いていた。画面の光が、尾藤の顔をぼんやりと照らしている。


「尾藤、てめえ」


 雄三が言う前に、石神がドスの利いた声で言った。


「あ、ああ、すんません」


 尾藤は慌てて画面を閉じると、ポケットにねじ込んだ。


 さらに三分ほど登ると、頭上を覆っていた木々が晴れ、高く浮かんだ月が見えた。月明かりに道路が照らされている。


 先頭の雄三は立ち止まり、数十メートル向こうの地面を指さした。


「あそこ、見てみろよ。砂利が散らばってるとこ。ブレーキ跡が見えるか」


「あ? ああ、あるな。なんだよあれ」


 石神が言う。


「明日葉の車がつけたんだ、すげえ荒い運転しててよ。あの脇に砂利敷の道がある。アジトがあるのはその先だ。こっからは、いつ犯人と鉢合わせするか分からねえ。気をつけろよ」


「案外、明日葉が待ち受けてたりしてな」


 石神なりのジョークだったのだろうが、雄三は笑わずに頷いた。


「いや、それならそれでいい。犯人と一緒のとこを押さえりゃ、あいつが噛んでる証拠になる」


「ああ、それもそうか」


「さあ、行くぞ」


 五人は黙って道路を上り、やがて坂道の入口に立った。月明かりは数メートル先までしか届いていない。その向こうは完全な闇だ。


「なんか、やべえ雰囲気っすね」


 坂道に足を踏み入れると、それまでとは違った足音がした。砂利同士が擦れる。登るに従って森は深くなり、視界を黒く塗りつぶしていく。暗さに慣れた目でも、ほとんど何も見えない状態だ。


「懐中電灯、つけますか」


 尾藤が言ったが、雄三はまだだ、と答えた。アジトまでは、それほど離れていない。やがて暗い景色の中に、周囲と溶け合わない直線的な影が微かに見えた。隣で石神がゴクリと唾を飲み込む音が聞こえる。


「見えるか?」


「ああ……あれか……」


 外から見る限りでは、人のいる気配はない。だが、分からない。犯人は中にいて、息を潜めているのかもしれない。胃のあたりに、重い緊張がある。


「お前らは、ここで待ってろ」


 小さな声で言った。最初からそう決めていた。


「え……何言ってんだよ雄三さん。一人で行くのか? 危ねえよ」


「大丈夫だ。多分俺は、襲われない」


「はあ? なんでだよ」


 雄三は尻に手をやり、ポケットの中に収まったノートを確認した。父親から受け取った、あのノートだ。今朝あの廃病院に到着してからの半日、それを何度も読み返した。字は粗く、時間が経っているからかインクが抜けて薄かった。だがそれを丹念に読み返す中で、雄三は一つの仮説を見つけつつあった。もしも犯人が美作加州雄なら、きっと効果があるだろう。


「俺が呼ぶか、様子がおかしいと思ったら突入してくれ。それまではここで待ってろ。いいな」


「……わかったよ。危険だと思ったら、すぐに大声を出せよ」


「ああ、そうするよ」


 石神が頷くのが見え、その向こうで、尾藤ら三人が、居心地悪そうに顔を見合わせている。小屋を前にして、緊張しているのだろう。無理もなかった。


 雄三はキッと小屋を睨むと、小屋へと続く坂道を這うように登った。


 動悸が激しくなる。振り払うように一気に駆け上がり、ドアノブに手を伸ばす。


 握る。瞬間、雄三は手を引きかける。冷たかった。恐ろしく冷たかった。その冷たさは恐怖を増幅した。このまま、扉を開けずに逃げ帰りたい。


 ダメだ。


 そんなことをすれば、何もかもが終わってしまう。


 ここで勇気を出さなければ、俺は一生、このままだ。


 ……大きく息を吸い込んだ。ゆっくりと回して、押す。


 扉はギイイ、と嫌な音をたてて開いた。中は外よりなお暗い。雄三の背後から、微かな月明かりが、室内へと伸びていく。壁に立てかけられた道具、写真が乗っていた机、光は奥の壁に達し、徐々に上昇していく。息を止め、最後は一気に開けた。


 ……

 ……


「なんだよ……」


 思わず呟いた。そこには、誰もいなかった。


「いねえじゃねえか、なんだよ……」


 頬が緩むのを感じた。安堵して振り返ったのと、「雄三さんっ」という石神の叫び声、そしてヒュン、という風を切る音すべてが同時だった。

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