明日葉

 満月の夜だった。


 日をまたいだ午前一時四十五分、伊津高等学校の校門に、小さな影が現れた。それは、明るい月光と、切れかかった街灯に照らされ、落ち着きなく動いている。


 影、つまり佐宗正太郎は、校門前で一度立ち止まり、それからゆっくりと校内に入ってきた。その顔が微かにだが判別できる距離まで近づくと、明日葉は助手席に向かって言った。


「間違いない、佐宗正太郎だ」


 助手席に座る金井丈三は、正太郎がなぜこんな場所にいるのか、そもそもなぜ自分は明日葉にこんな所に連れてこられているのか知らない。だが、明日葉の命令は絶対で、断るわけにはいかないのだ。


「明日葉さん……あの野郎、何しに来たんです?」


 本当は不安で仕方ないくせに、丈三はへっへっへと作り笑いをする。嫌な予感を感じているのかもしれない。明日葉はだがなんの返事も与えず、プールの方へと向かって歩いて行く正太郎の影を見守った。


 正太郎の位置からは、明日葉の車が停まっているこの場所は見えない。視界には入っているのだが、照明が全くないせいで見えないのだ。逆に明日葉の方からは、正太郎の動きがよく見えた。


 正太郎はプールの入口に到着すると、金属製の格子扉に手を伸ばした。扉を揺するが、この時期は当然施錠されており、開かない。何度か試すものの、扉が開く様子はない。


 それを見ていた丈三が下卑た笑いを漏らした。


「明日葉さん、オレ昔、あの野郎をあそこで半殺しにしたんですよ」


 ひひひと笑う丈三を睨みつけ、「黙ってろ」と言う。丈蔵はビクリとして口を閉じ、戸惑ったように俯いた。


 正太郎はしばらくそこに留まっていたが、やがて左右を見回すと、先ほど来た道を戻り始めた。だが明日葉の心は揺れなかった。正太郎が、美作都の再会を諦めて帰るなどという選択をするはずがない。


 その通り、正太郎はあるところで足を止め、コンクリ壁の上に連なった金網を見上げた。


「さあ……登れ」


 明日葉は呟いた。


 長く寝たきりだったせいで、筋力は落ちているはずだ。実際、どちらかと言えば小太りといった印象だった正太郎は、今では痩せた小男になっていた。金網をよじ登ってプールの中に入るという事が、どれだけの苦労を強いるかわからない。


 だが、正太郎は登った。必死になって、ゆっくりと、金網を登っていく。遠目からでも手こずっているのが分かる。


 やがて金網の最上部に足をかけると、そこからは転げ落ちるように降りていった。


 プールサイドに降り立った正太郎は、ふらつきながら歩き、やがて明日葉の車から見えない位置へと姿を消した。恐らく、飛び込み台側に回ったのだろう。


 明日葉はふう、と溜息をついた。それから丈三を見て、「さあ、行け」と言った。


 言葉の意味が理解できないのだろう、丈三は口をぽかんと開けたまま目をきょろきょろさせ、かろうじて「え?」と声を出す。


「行くんだ、お前が」


「あの……行くって、どこに?」


「後ろからそっと押すだけでいい。もし登ってきそうなら、蹴落とせ」


「はい?」


 いよいよ意味がわからないといった様子で、丈三は言う。暗がりの中、その顔に怯えの色が浮かんでいるのが分かる。


「音はなるべく立てるな。できるだけ、静かにやるんだ。いいな」


 やっと理解したのか、丈三の口が大きく開いて震えだした。


「ちょ、ちょっと待ってください。あいつを殺すんですか?」


 明日葉はそれには答えず、シャツの首もとを掴んで引き寄せた。耳元に口を近づける。


「あいつが死んだら、佐宗商事を金井建設に吸収合併させる。いいか、佐宗が金井をじゃないぞ、金井が佐宗をだ」


「そんなことが、可能なんですか」


「ああ、私が全面的にバックアップして、金井建設の復権を実現する。再び金井が、佐宗の上に立つ時代を作るのだ。じきに金井建設のトップになるお前はつまり、五葉町のトップとなるのだ」


「俺が……五葉町の……」


「そうだ、お前の親父さんがかつて手にしていた権力を、取り戻すのだ。わかるだろう、佐宗正太郎は、邪魔なんだ」


「でも……殺すだなんて……」


 明日葉は無言で腰に手を回し、ホルスターから拳銃を取り出した。そのまま丈三のこめかみに銃口を当てる。


「さもなきゃ、お前が死ぬ」


「……」


「どうするんだ。五葉町のトップに立つか、ここで死ぬか」




 その日の朝、佐宗正太郎死亡のニュースが町に届けられた。


 真夜中のプールでの溺死という特異なケースだったが、外傷がない事、正太郎が長らくうつ状態にあった事などから、警察は限りなく自殺に近い事故死と断定した。


 葬儀は、交通の便の悪い金井建設社屋ではなく、双名商店街の中にある公民館のホールで行われた。


 会場には正太郎の死を悼む住人たちが大勢訪れ、焼香した。佐宗商事の面々は、社長の突然の死にショックを受けていたが、寝たきりの正太郎は長らく実務から離れており、皮肉なことに業務遂行においては大きな影響はなかった。


 また、正太郎の不調が、いわゆる身体的な病ではなく精神的ショックに根ざしたものだということは周知の事実だったから、自殺という警察の発表に違和感を示す者もいなかった。


 すべて明日葉の計画通りだった。


 参列者の大半は、双名ふたな商店街で事業を行っている者たちだった。明日葉は彼らに、正太郎の作ったこの商店街を今まで以上に盛り立てていくことこそが一番の供養になるのだと語った。その言葉に、皆は涙ながらに同意した。


 その日のうちに、佐宗正太郎追悼のための一大イベントが企画され始めた。商店街を上げての観光客誘致キャンペーンだ。舵取りをしたのは、明日葉の息のかかった店だった。


 観光客誘致のためのそのイベントの準備に住人たちが忙殺されている中、明日葉は密かに美作加州雄の捜索を行った。目撃情報のあったドライブイン建設現場付近に自ら足を運び、手ががかりを探した。


 イベント開催が目前に迫った頃、明日葉はついに美作を発見した。


 美作は、建設現場から少し登った先にある小屋を住処にしていた。こうしてわざわざ捜索しなければ、決して見つからない小屋だ。美作は小屋の壁に大きな身体をもたれかけ、ぼんやりと宙を見上げていた。


 疾走した当時より、少し痩せていた。だが、それは間違いなく美作だった。間違えるはずがない。


「美作っ」


 明日葉は叫んだ。美作がキッとこちらを向き、目を見張る。だがすぐにその顔には怯えの色が走る。美作は逃げようとした。


「美作、私だ! 明日葉だ!」


 慌てて言った。美作が動きを止め、明日葉を睨む。


「明日葉?……だれだ」


「私だ、明日葉だ。警察官だが、佐宗正太郎と行動を共にしていた」


 正太郎の名を口にすると、美作の表情が変わった。明日葉はゆっくりと近づいていく。


「忘れてしまっても無理はない。だが私の方は、お前のことを探していたんだ」


 明日葉は美作の顔を見つめて言った。間隔は十メートルもない。


「探していた? 俺を?」


 明日葉は俯いた。目を閉じ、苦しげな口調で言う。


「ああ。お前に伝えねばならん事があってな。辛い話だ」


「なんだ……明日葉」


 明日葉は唾を飲み込み、声を震わせる。


「佐宗正太郎が、死んだ」


 美作はハッとして、目を見開いた。


「死んだ?」


「そうだ。正太郎は死んだ」


「そんな……本当なのか」 


「ああ、本当だ。先日、商店街で葬式をやった。美作、正太郎はお前に会いたがっていた。会って、いつかの事を償いたいと、悩んでいた」


 しばらくの間があった。言葉の意味を考えているのだろう。あるいは人と話す事が久しぶりで、言葉が出ないのかもしれない。明日葉は忍耐強く待った。


 やがて美作が言った。


「正太郎は、俺を、捨てた。あいつが俺を、遠ざけたんだ。会って、何を話すというのだ」


 その顔に、苦痛が浮かんでいた。明日葉は声を荒らげた。


「後悔していた! 正太郎は後悔していたんだ! お前を暴漢のように扱ったと、大切な親友を、傷つけてしまったと。そして自分を責めるあまり、正太郎は精神をおかしくした。うつ状態だ。正常な判断ができず、ついに真夜中に一人で家を飛び出して、そして溺れ死んだ」


 美作の尖った顎が震える。明日葉に駆け寄るように近づいて、「溺れ死んだ? 海でか」と迫る。近づくと、その迫力の異様さが実感される。恐怖が脳を支配しそうになる。慌てるな、落ち着け、明日葉は自分に言い聞かせる。


「違う……海じゃなく、伊津高校のプールだ。覚えていてるだろう、お前が正太郎と出会った場所だ。正太郎はお前に対する罪悪感から、思い出のプールに身を投げた。自分の事が許せず、自殺したんだ」


「……自殺」


「そうだ、正太郎は、自殺したんだ」


 明日葉は言った。美作の身体が震えだした。次の瞬間、「うおお」と咆哮を響かせながら、そばにあった樹の幹を殴りつける。頭上で枝が激しく揺さぶられ、葉が雨のように降ってくる。バサバサと鳥が飛びだつ音がする。


「おい! 聞け、美作! 俺の話を聞くんだ!」


「なんだ、この野郎」


 その巨大な拳が明日葉に向けられる。だが明日葉はもう怯まなかった。この巨大な武力が自分のものになるのかと思うと、喜びで震えるほどだった。うまくいく、という確信があった。


「私も、同じ気持ちだ! 私だってずっと正太郎と一緒にやってきた。お前の気持ちは痛いほど分かる! だが、私はお前と一緒に悲しむためにここに来たんじゃない。正太郎が死んで、佐宗商事はどうなったと思う」


 美作は眉間にしわを寄せ、目を細めた。


「……正太郎の会社の事か」


「そうだ。正太郎が死んだ後、佐宗商事は金井建設に乗っ取られた」


「金井建設……金井だと?」


「そうだ、金井建設の、金井だ。金井丈三を知っているだろう」


「お前……」


 美作の腕が一瞬で伸び、明日葉の喉元を掴んだ。万力のような力。声が出ない。


「おい、なんで金井が乗っ取るんだ。お前、それを黙って見てたのか」


「が……あ……離せ……」


「おい、許さねえぞ……お前は何してた」


 明日葉は腰に手を回し、拳銃を引き寄せた。ボタンを外し、グリップを握る。


「この野郎、殺してやる」


 喉を締める力が一層強くなった瞬間、美作は銃口を美作の腹に突き当てた。


「美作、聞け……話を……」


 拳銃に気付いたのか、美作の力が緩んだ。必死に身体を捻って逃れると、地面を転がって距離をとった。危なかった。すぐに立ち上がり、咳き込みながら拳銃を向ける。予想以上のスピード、そしてパワーだった。


「いいか、美作。佐宗商事のビジネスは大きくなり過ぎた。それを正太郎抜きでやるのは難しい。金井建設の力を借りるしか方法はないのだ」


「だが、金井は敵だ、仇だ」


「今だけだ、美作。私だって腸が煮えくり返る思いだ。だが今は、正太郎の作ってきた商店街を守る事が先決だ、そうだろう?」


 明日葉はそう言って拳銃をホルスターにしまった。再び美作の方に近づいていく。


「正太郎亡き今、あの商店街は正太郎の形見のようなものだ。いいか、その為に金井を利用するのだ。佐宗商事を乗っ取ったといい気にさせておいて、やがて機が熟した時、私たちが佐宗商事を取り戻す」


「取り戻す? 俺たちが……」


「そうだ! 共に正太郎を支えてきた俺とお前が、正太郎の無念を晴らすのだ」


「無念を……」


「ああ、だから共に戦おう、美作。私にはお前が必要なのだ」


 明日葉の言葉に美作は視線を落とし、ブツブツと何かを言いながら考えていた。だがふと怯えた表情になり、明日葉を見た。すぐに目を逸らし、またブツブツと何かを言う。


 明日葉には美作が何を考えているか分かった。


 こいつは、不安なのだ。自分たちが正太郎の無念を本当に晴らせるのか、本当に金井を撃退できるのか、という不安ではない。その後だ。佐宗商事を取り戻した後、自分はまた捨てられるのではないか。正太郎にそうされたように、再び裏切られ遠ざけられるのが怖いのだ。 


「一つだけ正太郎は判断を誤った」


 明日葉は言った。


「……なんだ」


「佐宗商事に美作加州雄は必要だった」


 美作がハッとして目を見開く。


「私は正太郎に何度も言った。美作を捨ててはならない、美作の力は佐宗商事の最大の武器で、何より貴重な財産だと。だが正太郎は純粋だった。暴力とうまくつきあう事ができなかった。そしてついに、ああいう事になった」


 美作はこちらをじっと見ている。


「だが、俺は違う。お前の力が、その腕力が、胆力が、攻撃力が、必要だ。金井を叩き潰す時だけじゃない、佐宗商事を取り戻した後もずっとだ」


「本当か」

 

 美作が呟く。


「当たり前だ!」


 明日葉は叫んだ。美作の気持ちが自分に傾いているのを確信した。


「お前が残ってくれてさえいれば、正太郎も佐宗商事もこんな事にはならなかった」


 美作の小さな目が潤んでいるのが見えた。明日葉はさらに近づくと、手を伸ばし、その巨大な腕に触れた。強烈な体臭が鼻をつく。


「新しい佐宗商事は、俺とお前とで作るのだ!」


「……本当か、明日葉。本当か」


 美作の目はいよいよ潤み、その垢だらけの頬に、一筋が流れ落ちる。


「正太郎は死んだ。俺は悔しい!」


 美作が大きく頷いた。


「力を貸してくれるか、美作。俺と手を取り合い、正太郎の仇を打ってくれるか」


「――ああ、ああ、分かった。了解した」


 美作の顔から怯えが消えた。使命感に燃えている。


「簡単にはゆかんぞ。耐える時間が続くだろう。私たちの悲願が叶うまで、何年必要か分からない。それでもやるか」


「当たり前だ。俺は、やると決めたらやる」


「お前の存在を、そして私との関係を、金井建設に気取られてはならん。お前は隠し武器だ。その時が来るまでは決して人前に姿を見せず、力を蓄えるのだ。いいか、戦いの日はかならず来る。それまでは待つのだ。面倒は俺が見よう。食料や必要な物資を持ってくる」


 明日葉はぶるりと武者震いして、言った。


「いいな、私たち二人で、金井建設を倒すのだ」

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