明日葉
「その話、確かなのか?」
五葉署内の取調室で、明日葉は作業着姿の中年男に聞いた。
「は、はい。間違いねえす。ありゃ、美作です」
男は金井建設の現場作業員だった。ガッシリとした大きな身体をしていて、顔中を無精髭が覆っている。タバコと汗とコーヒーの混じったような嫌な臭いがする。
「おい、重要な事なんだぞ。間違いは許されない。もう一度詳しく話せ」
明日葉は慎重に言った。狭い室内に男の体臭が充満して、気分が悪い。今すぐに追い返してやりたいが、内容が内容だ、できるだけ誰にも知られず、二人で話す必要がある。
金井建設はいま、焼坂峠のトンネルを少し下ったところにドライブインを建設中だ。その現場にいたこの男が、美作加州雄らしき男を目撃したというのだ。
「ですから、昼の休憩の時、寒かったんで焚き火しようってなって、新人と二人で、まあ新人つってもそう若くはねえですが、木っ端を集めに森に入ったんです。俺とそいつはちょっと離れて拾ってて、すぐです、別れて三十秒くらいかなあ、ガサガサ音がして、新人かなと思って音の方を見たらあんた、遠くでしたけど、木の合間にでっけえ背中が見えました。すぐ、ピンと来ましたね」
「背中だけで、分かるのか」
明日葉は忍耐強く、ゆっくりと聞いた。自分の鼓動が聞こえる。緊張していた。できれば、勘違いで済ませたい。だが男は、妙に張り切った様子で大きく頷いて見せた。
「そりゃわかります。なにせ、俺は以前、あいつにぶちのめされたことがあるんですからねえ。もうだいぶ前ですけど、ああ、刑事さんだから話してもいいよね、ほら、丈三さんとそのお友達がやられた時があったでしょうが。まだ丈三さんが中学生の頃ですよ。仕返しするってんで、腕っ節に自信のある奴らが集められてね、それで山に行きました。あんときは、おっかなかったなあ。もう、デカくてね、山みたいな身体してて。一瞬でやられちゃいましたよ。恐ろしくて恐ろしくて、忘れたくても忘れられねえです」
明日葉は男を帰した。今日話したことは誰にも言うなと釘を差して。
「なんで、なんで今、戻ってくる……」
美作が姿をくらまして半年以上が経っていた。正太郎は美作に対する罪悪感でほとんど廃人となっており、明日葉は表向き誰よりも心配する素振りを見せつつ、裏では金井丈三を操り新たな体制を築きつつある。
新たな体制とは、要するに金井建設による佐宗商事乗っ取りだ。佐宗正太郎という絶対的な支柱を失った佐宗商事を、明日葉の息のかかった金井建設がジワジワと侵食していた。
最初にやったのは金井建設の武闘派を集めて「自警団」を組織し、姿を消した美作加州雄に変わって商店街の治安維持活動を行うことだった。美作が消えたらしいという噂に不安を感じていた住人たちに、これは受け入れられた。住人たちは金井建設に対する認識を変えつつあった。
「今更、なぜ戻ってくるんだ、美作」
明日葉は取調室を出ると、部下の一人を呼び、車を回すように言った。
ベッドに横になっている正太郎は、ほとんど抜け殻のようだった。ぼんやりと宙を見つめ、明日葉が入ってきても何の関心も示さない。風呂に入っていないのだろう、顔は油でベトベトしており、髪が乱れている。明日葉は、昨日と変わらぬその様子に安心を覚えた。そして、適当な見舞いの言葉を並べながら、頭のなかでパチパチとパズルを作っていく。
正太郎のこの状態は、美作に対する強烈な罪悪感から逃れるため、正太郎自らが精神を麻痺させているような状態だと医者が言っていた。肉体的には何の問題もない、その精神的苦痛の原因が取り除かれれば、すぐにでも元の状態に戻る可能性はある、と。
だからこそ、正太郎と美作を会わせるわけにはいかなかった。美作と正太郎が再び手を握るようなことがあれば、明日葉の計画にとって大きな障害となる。人望と決断力を持つ正太郎と、圧倒的な武力を持つ美作のコンビは、強い。強かったからこそ自分は彼らに取り入った。
明日葉は先に手を打つことを決めた。
「美作と会いました」
ベッドのそば、来客者用の丸椅子に座り、明日葉は言った。ピクリと正太郎の頬が震え、ゆっくりとこちらを見る。
「美作です。美作が、戻ってきたのです」
正太郎の顔にすっと芯が入る。ゆっくりと目を見開くと、「なんですって?」と言う。
「美作はあなたに会いたいと言っています。どうしますか」
正太郎は絶句した。何を言っていいのかわからないというより、湧き上がる感情が大き過ぎて、混乱している風だった。口を半開きにし、わなわなと唇を震わせる。やがて絞りだすような声で言った。
「会う……会うとも! 加州雄くんが僕に会ってくれるというのなら!」
驚くべきことに、それまで寝たきりだった正太郎は、勢いよく身体を起こし、明日葉の腕を掴んだ。
やはりまずい、と明日葉は思った。さっきまで死体のようだったのに、美作の話を聞いた途端にこれだ。実際に美作に再会したら、医者の言う通り一瞬で回復してしまうかもしれない。
明日葉は咳払いし、正太郎の耳元に口を近づける。
「美作は、正太郎さん一人で来るようにと、誰にも知られず、絶対に一人で来るようにと言っています」
正太郎は目に涙を浮かべ、子どものように大きく、何度も頷く。
「ええ、ええ! そうでしょうとも。彼ならきっとそう言うはずだ。怯えているんだ。――それで、いつ、どこに行けばいいのですか」
「明日午前二時、つまり今夜ですが、伊津高等学校のプールに来て欲しいと」
「え……伊津高等学校のプール……」
「そう言っていました。なぜプールなんかに呼び出すのか、私には分かりませんが」
正太郎の目がみるみる潤み、やがて涙が流れた。奥歯を噛み締め、うっうっと嗚咽する。
伊津高等学校のプール。つまり正太郎と美作が出会った場所だ。かつて正太郎はそのことを一度だけ明日葉に話したことがあった。正太郎はそれを明日葉に伝えたことを覚えてないだろう。だが明日葉は、しっかりと記憶していた。
伊津高校のプールが出てきた事で、正太郎はいよいよ明日葉の話を信用したらしかった。何度も礼を言い、まだ昼間だというのに、早くもベッドから起きだして身支度を始めた。その様子を、明日葉は複雑な心境で見つめた。正太郎は使用人を呼ぶと、風呂を沸かすように言った。そしてふと手を止めると、明日葉を見た。
「明日葉さん、このことは、くれぐれも――」
正太郎の顔に不安の色が浮かんでいた。明日葉は神妙な顔をして深く頷いた。
「ええ、もちろん誰にも言いません。現場には、あなた一人が行く」
正太郎はホッとしたように微笑んだ。だがすぐに頬を強張らせた。
「でも、行く途中で誰かに見つかってしまうかもしれない」
それは大丈夫でしょう、と明日葉は言った。
「あなたもよく御存知の通り、あの辺りはもうゴーストタウンのようなものです。闇に紛れれば、誰にも見つかることはないでしょう」
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