雄三

 バイクを飛ばしながら腕時計を見た。


 既に夜十二時過ぎを指している。丈三に言われて館を出てからもう二時間近く経つのに、雄三はまだどこにも落ち着けずにいた。


 早く適当な潜伏場所を見つけ、移動をやめなければならない。だが、どこに行けばいいのかわからなかった。


 いや、わからないのではなく、怖かったのだ。本当に身を隠すつもりなら五葉町を出て行けばいい。自分のことを誰も知らない場所へ。


 だが、ずっとこの町で暮らし、金井雄三という特別な立場に守られながら生きてきた雄三にとって、五葉町の外は未開の地にも等しいものだった。


「クソ……」


 頭の中に浮かぶのは身近な場所や人間だけだった。それらを振り切り、金井建設の跡取り息子という枷を破壊し、自由になる。今はその格好の機会なのかもしれない。


 だが、結局雄三がバイクのエンジンを止めたのは、旧市街にあるいつものガレージ、SCARSのたまり場の前だった。


 誰にも連絡はしていない。そもそも、尾藤雅の事で言い合いをしてから、SCARSのメンバーとは一度も接触していないのだ。向こうも連絡を寄越さず、雄三もしなかった。バイクの運転中にSCARSらしき集団のエンジン音が聞こえた事もあったが、音に近づかぬよう道を変えた。


 頭の中には、軽蔑の浮かんだ表情で反吐を吐いた石神の顔があった。以前のように彼らと笑い合う日は、二度と来ない気がする。



 それでもここ以外に行く場所などない自分を、雄三は情けなく思った。


 ガレージの裏にバイクを隠し、勝手口から中に入った。幸か不幸か、中には誰もいなかった。


 疲労が一気に襲ってくる。


 それはすぐに眠気に変化した。この寒空の下、理由も目的も曖昧なまま、二時間もさまよった。その前には明日葉の車を追跡し、犯人のアジトと思われる小屋を探索した。肉体以上に、精神が疲れていた。この眠気は、自己防衛本能なのかもしれない。


 重苦しい現実を前に、身体が、本能が、意識をシャットダウンしようとしているのだ。


 雄三はふらつきながら、久々のソファに転がった。スプリングがギシギシと軋み、懐かしさと悲しさの混じったような感情が漏れ出てくる。もう、抗う気もなかった。、早々に目を閉じた。


 どうでもよかった。


 どうしようもなく、孤独だった。






 身体を揺さぶられて目が覚めた。


 ガレージの中はまだ暗かったが、天井脇にある小窓から光が差し込んでいるせいで、既に夜が明けている事が分かる。


 その景色を遮るように、人型の影が現れた。


「誰だ……」


 ハッとして身体を起こした。次の瞬間、背後から何かが首に巻きついて、ものすごい力で締めあげられた。


「ぐっ」


 呻き声が漏れた。誰かの腕だ。太く逞しい腕が自分の首をきつく締めあげているのだ。


「おい、早まるなって」


 声が聞こえ、腕の力がスッと抜けた。急に空気が通り抜けたせいで、おかしな呼吸になる。雄三は激しく咽ながら、ソファから転げ落ちる。コンクリ張りの地面に手をついて、肩で息をする。唇の端から唾液が垂れて、その先端が空中ブランコのように左右に揺れる。


 その時、視界の中にスニーカーの先端が入ってきた。黒いアッパーにゴールドのラインが入っている。


 この靴――確か――


 考えている間に、髪を捕まれた。無理やり顔が上げられる。短い髪、日焼けした肌、少年のような目。


「石神……」


 雄三は呟いた。石神は、冷たい目で雄三を見下ろして、「どうなってんだ、雄三さん」とニコリともせず言った。低く、威圧的な口調。いつもの懐っこい雰囲気はまるでない。雄三は地面に手をついたまま、苦しさを隠すような早口で言った。


「どうって……てめえこそなんのつもりだ」


「はあ?」


 石神がしゃがみ込み、首を傾げるようにして雄三の顔を覗き込む。自分の寝込みを襲ったのが石神だとわかって安堵したのか、それとも意地なのか、雄三は鼻で笑ってみせた。


 次の瞬間、頬に鋭い痛みが走った。


「がっ」


 少し遅れて首が傷んだ。石神に殴られたと分かるまでに数秒かかった。


「おいコラ、舐めてんじゃねえ。答え次第じゃ、死ぬぞ」


 顔がひきつった。石神の目は真剣だった。石神の怒りは、本物だった。


「クソ……なんなんだてめえ……答えって、何だよ」


 石神は顎をしゃくった。雄三の背後を示している。ゆっくりと振り返った。


 そこに、恐らく先ほど雄三の首を絞めた男がいた。大きな身体。膨れ上がった筋肉。


 雄三は目を見開いた。


「お前……どうして……」


 尾藤だった。


 犯人に襲われ、頭を殴られ、集中治療室に入っていたはずの尾藤雅が、頭に包帯を巻ている以外は普段通りの姿で、照れたような笑みを浮かべている。


「へへ……雄三さん、久しぶりっす」


「お前……病院じゃ……」


 雄三が言うと、尾藤は居心地悪そうな苦笑いを浮かべ、肩をすくめた。


「いやあ、もうすっかり治ったっす」


 確か、意識が戻らないと言っていたはずだ。だからこそ集中治療室に入れられた。仮に意識が戻っても重い後遺症が残るかもしれない。そう聞いていた。だが、その尾藤が今、ピンピンした状態で目の前に立っている。


「治ったって……本当か。なんともねえのか」


「あー、はい。なんか、治ちゃったみたいす」


 石神とは違い、いつもの軽い雰囲気で応える尾藤に、力が抜ける。医学的な事は分からないが、一般人が死ぬような怪我でも、尾藤なら確かに簡単に復活しそうな気もする。


「そうか……お前……よかったな。ホント、よかった」


 ずっと気になっていた。気になっていたからこそ、考えないようにしていた。まだ意識が戻らないのではないか、植物人間になってしまったのではないか、死んでしまったのではないか。心の負担が軽くなって、雄三はホッとした。よかった、というのは本心だ。無事でいてくれて、本当によかった。


 だが、その言葉になぜか石神はそれまで以上の怒りを露わにした。


「ああ? よかっただとコラ、てめえよくもその口で言えるなあ」


 再び拳が飛んできた。固く重い、鉄のような衝撃が頬にあり、雄三は地面を転がった。


「ぐっ、何すんだこの野郎」


「この野郎じゃねえんだよ、てめえがやったんだろうが、ああ? てめえが尾藤を後ろっからぶん殴ったんだろうが!」


 石神の言葉が耳に突き刺さった。殴られた痛みが遠ざかり、混乱が襲う。


 なんだ……なにを言ってる……


 俺が襲った? 尾藤を?


 雄三は身体を起こして立ち上がると、よろけながら石神に近づいた。


「ちょ、ちょっと待て、お前何言ってんだ。俺が尾藤を襲うわけねえだろうが!」


 だが石神は聞こうとしない。拳を握り、振り回す。


「そりゃあ見舞いにも行けねえよなあ! あんた、尾藤をぶち殺すつもりだったんだろ? 意識が戻らねえって聞いて、ホッとしてたんだろうが! クソ、尾藤、捕まえろ」


 言われた尾藤は何か言いたげな上目遣いで石神を見たが、結局は何も言わずに命令に従った。雄三の後ろにまわり、「すんません」とボソリと言って、羽交い締めにする。


「おい、石神、おい、待て。俺の話を聞け」


「うるせせえあああ」


 暗がりの中で石神得意の右フックが炸裂する。脳が揺れる。すごい威力だ。一瞬、記憶が断絶したような感覚に陥る。吐き気が襲ってくる。


「このクズ野郎が、マジで許さねえ」


 間髪入れずに前蹴り。みぞおちに衝撃があり、完全に息が止まった。遅れて痛みが来る。そして今度は、前かがみになった顎に強烈な膝蹴りが入った。


「ぐっ」


 舌を噛んだ。口の中に血が溢れる。独特の酸味が広がる。恐怖が浮かぶ。


「待て……おい、話を聞け」


「うるせえなぁ、この裏切り者が!」


 散弾のようにパンチやキックが飛んでくる。尾藤に後ろから羽交い締めにされて、抵抗する事もできない。


「ち、ちょっと、死んじゃいますよ、石神さん」


 尾藤が言う。


「殺すんだよ! こんなクソ野郎はよ」


「でも……」


 尾藤が言うと、石神はふと動きを止めた。それから雄三ではなく尾藤を睨む。


「お前……犯人をかばうのか? 被害者だろお前」


「いや、だって、まだそう決まったわけじゃないでしょ」


 尾藤が言い訳を言うようにボソボソという。雄三は叫んだ。


「おい、俺は犯人じゃねえ! そんなはずねえじゃねえか!」


 石神がまた雄三に視線を戻す。軽蔑した顔で笑う。


「バカ、犯人は皆そうやって言うんだよ。信じられるか」


「なんで俺が犯人なんだ。考えりゃ分かるだろうが。俺じゃねえ」


 叫び続ける雄三に、石神は眉間の皺を深くする。


「じゃあなんで警察がてめえを追ってんだ、ああ?」


 雄三はハッとして口をつぐんだ。


「……警察?」


「ああ……あんたが容疑者になったって警察から連絡があったぜ。もし連絡があったらすぐに警察に出頭するように伝えろってな」


「そんな……」


 そう言いつつも、納得感があった。父親に言われて館を飛び出してから、こうなることを予想していた。警察が自分を追ってくること。警察? いや、そうじゃない。


 俺を追ってくるのは――――明日葉だ。


 そして明日葉は、警察を自由に動かせる立場にある。父親の言った事は本当だった。明日葉は、俺が奴を疑い、そして核心に迫った事をどこかから知ったのだ。そして、秘密を知った俺を追ってきた。きっと――始末するために。


「おい、聞いてんのかよ」


 呆然としていると石神が怒鳴った。雄三はゆっくりとその顔を見た。どこか、戸惑いの色が見えた。石神も信じきっているわけではないのだ。何が何だかわからず、苛立っている。どう伝えればいい、どう伝えれば、信じてもらえる?


 ふざけんな、俺が犯人のはずがねえ。そう叫び続けても、意味がない気がした。今までの俺はいつでもそうだった。ガキみてえにビビって、騒いで、俺は関係ねえ、俺のせいじゃねえ、お前らが悪いんだって、喚いて、全部他人のせいにして、自分じゃ何もしなかった。


 俺は、そうやって、石神や仲間達に甘えてきた。


 ――これじゃ何も変わらねえ。


「石神、話を聞いてくれ」


 いつの間にか尾藤の手が離れていた。石神の前に立つと、膝に手をついて頭を下げた。口から血がポタポタと流れ出たが、構わなかった。身体の痛みなどもうどうでもいい。問題は心の痛みだ。俺はもうこれ以上、自分を嫌いになりたくない。


「頼む……聞いてくれ。……今までの事、本当に悪かった。ひどい態度だった。尾藤、お前にも謝らなきゃいけねえ。見舞いも行かず、悪かった」


 そう言うと、尾藤は表情をこわばらせた。居心地悪そうにそっぽを向く。


「俺は傲慢だった。今回の事は、俺自身が招いた事だ。これまでのツケが回ってきたんだ。たくさんの人に迷惑をかけた。すまなかった」


 雄三は頭を下げた。また蹴り上げられる覚悟はあった。


 だが、蹴りは飛んでこなかった。顔を上げ、目を見開き黙っている石神に言った。


「でも、俺は誰も襲ってない。俺は犯人じゃない。信じてくれ」


 雄三は再び頭を下げた。石神の荒い息が聞こえた。尾藤も何も言わなかった。沈黙が流れた。


 長い沈黙だった。雄三にとっては、辛い時間だった。だが、石神や尾藤を、あるいは他の何かを責める気持ちはなかった。全て自分のせいだという納得感があった。石神の答えがどうであれ、自分は文句を言える立場ではない。雄三は初めて、自分が金井雄三という鎧を脱ぎ、一人の人間として友人に対峙しているのを感じた。


 やがて石神が言った。


「あんたじゃねえんだな。尾藤を襲ったのは」


 静かな、独り言のような声だった。雄三は顔を上げた。石神が、泣きそうな顔で歯を食いしばっていた。


「ああ、俺じゃない。俺は、仲間を襲ったりなんかしない」


 雄三は言った。


 十数秒の間があって、石神の肩からふっと力が抜けた。


「分かった……信じるよ、雄三さん」


「石神……」


 石神は大きく息を吸い、ゆっくりと吐いた。それから自分で顔をパンッと叩くと、雄三を見つめ、頷いた。




 ガレージのソファに石神と向かい合って座った。石神が尾藤に言って持ってこさせた救急箱から、消毒液と絆創膏を取り出して雄三に手渡す。


「それで、一体何が起こってんだよ」


 雄三にもわからないことが多かった。全ては憶測でしかない。できるだけ冷静に、誤解のないように、自分の知っていることを話した。


 不確かな部分は、正直にそう言った。明日葉を追って犯人のアジトと目される小屋を発見したこと、そこにあった写真、本宮から聞いた美作加州雄という謎の人物について。金井建設が巻き込まれている事件について、そしてその核心に丈三や傳田が関わっているかもしれないこと。


 石神と尾藤は黙ってそれを聞いていた。説明が終わると、また沈黙が降りた。やがて石神がふう、と溜息をついた。


「通り魔事件が続いてるっての聞いてたけど、まさかそんなでけえ話だったとはな」


「俺が容疑者にしたのは、たぶん明日葉だ。俺があいつを疑っていて、しかも、犯人との繋がりを証明するようなもんを見ちまったから、焦ってるんだろう」


「でもよ、警察が盗聴器って、やべえな。そんなことあんのかよ」


 現実味がないのだろう。実際、突飛な話だ。逆の立場でもはいそうですかと簡単に納得できる内容ではない。石神は戸惑ったような苦笑いを浮かべ、瓶コーラの栓を抜く。微かな落胆の予感があったが、雄三はそれを冷静に拒絶した。自分の無実を信じ、再びこうして仲間として扱ってくれるだけで充分だった。これ以上を望む資格など自分にはないのだ。


 雄三は腕時計を見た。朝七時少し前。まだ日は出ていない。雄三は立ち上がった。


「じゃあ、行くわ」


 何のためらいもなかった。


 驚いた顔で石神が顔を上げる。


「ちょ、行くって、どこにだよ」


 わからねえけど、と雄三は言って、マキロンと絆創膏をジャケットのポケットにねじ込んだ。


「とにかくここにいちゃマズそうだからな。多分、警察はマジで俺を逮捕する気だ」


「何言ってんだよ」


 石神は立ち上がり、雄三の腕を掴んだ。


「一人で何ができるってんだよ、ツテもねえんだろうが」


「けど……」


 雄三は言いよどんだ。


「なんだよ」


「俺と一緒にいたら、お前らまで逮捕されちまうかもしれねえだろ」


 石神たちをこれ以上巻き込むつもりはなかった。裏切り者ではない事を信じてもらえれば充分だった。実際、逮捕される可能性はゼロではない。雄三と一緒にいれば、即ち共犯と看做されるかもしれない。もう迷惑はかけられないのだ。


「じゃあな」


 石神の脇を通り抜けようと歩きだした。だが、すぐに石神に肩を掴まれて引き戻された


「おい、もう一発ぶん殴られてえのか?」


 石神が言う。眉間に皺を寄せ、雄三を睨む。


「舐めたこと言ってんじゃねえよ、コラ。信じるつっただろ」


「石神……」


「雄三さん、あんたは俺たちのアタマなんだぜ。アタマを守るのが、メンバーの勤めだろ」


「……でも、お前らも共犯にさせられちまうぞ」


 雄三が言うと、石神はニッと笑った。


「まあ、そのほうがわかりやすくていいじゃねえか。もともとチームなんだしよ」


 石神は本気らしかった。


「警察が敵になるかもしれねえぞ。おい、それがどういうことか、わかってんのか」


 雄三は石神を見据えた。石神は目を逸らさない。


「なるかもって、もうなってんだろ?  仕方ねえじゃねえか。ウチのアタマが揉めちまったんだから。まったく、世話のやけるアタマだぜ。なあ?」


 石神が言って、周囲を見回した。


 いつの間にかメンバーたちが集まっていた。先程までは、石神と雄三の話を邪魔しないように離れていたのだ。皆が石神の言葉に頷き、雄三をまっすぐに見ていた。


「お前ら……」


 感動がこみ上げた。奥歯を強く噛んだ。


 俯いて黙っている雄三の肩を抱くようにして、石神が言った。 


「さあ、そうなりゃすぐに移動するぞ。いい場所があるんだ」

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