明日葉

 美作加州雄による観光客襲撃、そしてそれを期に断行された美作逮捕の動きとその失敗から、約二ヶ月が過ぎていた。金井建設の二階の一室で、明日葉忠男は佐宗正太郎の寝顔を見下ろしていた。睡眠薬のせいで、死んだように眠っている。


「病状は?」


 隣に立つ医者に聞いた。


「身体的な疾患は認められません。精神的なショックが原因で、抑うつ状態にあるのでしょう」


 あの日以来正太郎は塞ぎこんだままだ。自室に篭もり、日がなぼんやり宙を眺めている。時々ノートに日記のようなものを書く以外は、人間的な活動をやめてしまっていた。


「仕事は無理か」


「今の状態では、厳しいと言わざるを得ません」


 美作との別れが、正太郎にこれほどのショックを与えるとは思わなかった。


 事業の波に追われる中で、正太郎がもともと持っていた純粋さは鈍磨されたと思っていた。実際、ビジネスにおける正太郎は時に非情ですらあった。双名ふたな商店街の発展のために、苦渋の決断をしてきたことは何度もあるのだ。


 だが、その内に秘められた元来の気質は、変わっていなかった。もっともその純粋性は、父親である佐宗稔から受け継がれたものかもしれない。


 佐宗稔と知り合った時の事は正確に思い出せない。恐らく、警察の親睦会か何かで席が近かったとかそういう事だろう。まだ重茂の下で働いていた頃だ。その場には警察関係者だけでなく、役所の人間のほか、金井建設の幹部たちもいたはずだ。


 記憶は曖昧なのに、その時の稔の様子だけはよく覚えている。稔は、十歳も年下で何の実績もない自分のような若い刑事にも、敬意と親しみを持って接してくれた。凄んだり馬鹿にしたりする事はなく、無邪気さを持って話をしてくれた。


 明日葉は、佐宗稔のような大人に、初めて出会った。


 明日葉は五葉町の奥地にある貧しい集落で育った。川をさらったり資源ごみを集めたりなど、ほとんど乞食のような毎日を過ごした。大人たちはまともに働かず、朝から酒を飲み、酔って喚き散らし、子の前だというのに母親を押し倒して強引に抱いたりした。


 そういう環境で育ってきた明日葉にとって、稔はまるで太陽のように輝いて見えたのだ。


 当時は佐渡さわたり商店街の建設が本格的にスタートした頃で、金井建設を担当する重茂の部下だった明日葉は、計画の中心人物とも言える稔と顔を合わせる機会も増えていった。どちらかと言えば人見知りな明日葉に、稔は遠慮なく話しかけてきた。何が稔の気に入ったのかは分からないが、その頻度は他の人間より明らかに多かった。


「君のような芯のある若者と話すと、元気になるんだ」


 そう言って笑う稔に、最初はある種の警戒心も抱いていた。だが、徐々にそれは解け、まっすぐな好意に居心地のよさを感じるようになり、それは優越感にまで成長した。イチ警官に過ぎない自分を、佐渡商店街の立役者である稔が好いてくれているという優越感だ。


 その感情は自己肯定の道具になった。明日葉の中に、自尊心が生まれた。重茂らに理不尽な扱いを受けても、自分は稔に好かれている、頼られているのだと思えば、気持ちが楽になった。


 だから、重茂と金井松宇が稔をハメるつもりだという情報を得た時も、明日葉は稔を選んだ。何気ない風を装って一人稔を訪ね、重茂と松宇が稔を排斥するため罠を張るつもりらしいと伝えた。これは明らかに、警察や金井建設に対する裏切り行為だった。だがそうだとしても、明日葉は稔を助けてやりたかったのだ。


「重茂さんや金井さんが僕を罠にかける? 何て事を言うんだ君は」


 だが、稔の反応は、意外なものだった。知り合って初めて見る、怒りだった。


 情報の信憑性をどれだけ訴えても、稔は納得しなかった。むしろ言葉を重ねるほどに、怒りは失望へ、やがては軽蔑へと変わっていった。結局、稔は明日葉を嘘つき呼ばわりし、もうこれまでのような友人関係は続けられないとハッキリ言った。明日葉は失意の中で稔の家を後にし、どうすれば分かってもらえるのか、どうすれば稔が自分の言う事を信じるかと、考え続けた。


 だが、再度の機会は与えられなかった。稔と話した次の日の朝、署に出勤すると、明日葉は周囲の空気が変わっている事に気付いた。昨日まで冗談を言い合っていた仲間が、どこかよそよそしい。毎日茶を入れてくれた事務職の女性までも、視線を合わせようとしない。


 定例の朝礼で、重茂が臨時の組織改編を行う旨を発表し、新たな組織図が黒板に貼りだされた。それまで重茂の直下にあった明日葉の名は、刑事課の中にはあったが、金井建設の担当チームからは外されていた。この五葉署において金井建設担当チームというのは一番の出世コースだ。それまでの明日葉も、それを自覚していたからこそ、重茂の理不尽を耐え、乱暴な指導を耐え、私利私欲を口にせず、ここまでやってきたのだ。


 バレたのだ、と思った。


 佐宗稔に情報を漏らした事が、どこからかバレた。


 どこから?


 決まっていた。だが、認めたくはなかった。稔がそんな事をするはずがない。


 必死に他の可能性を探った。だが、浮かばなかった。自分があの情報を得た事も、それを稔に伝えた事も、稔しか知らないはずなのだ。


 だが、もし情報が確かで、そして密告者が稔だとするなら、恐ろしい話だった。稔は重茂か、あるいは松宇に、明日葉がこんな話をしたと計画の内容を語ったのだ。これはつまり、自分を陥れようとしている人間に、計画の内容を知っていると自白したということなのだ。


 自分が重茂だったらどうするだろう、と考えてゾッとした。


 稔が自分たちを信用しているうちに、計画を実行に移す。


 明日葉は稔の自宅に走った。危険が迫っている、今すぐに身を隠すべきだと伝えるためだ。だがそれは叶わなかった。周辺をパトロールしていた警官と鉢合わせし、業務中の勝手な行動を咎められ、半ば強引に警察車両に押し込められ、連れ戻された。


 取調室で、重茂は大きな身体を揺らしながら言った。


「なあ、明日葉」


 その目には勝ち誇った色があった。


「お前は、誰の部下なんだ? 私の部下だろう」




 それから数週間としないうちに、佐宗稔の水死体が浮いた。


 意外な事に、明日葉の心はざわめかなかった。多少のショックはあったが、怒りや悲しみはない。だから最初から言っていたのに。稔が死んだのは、俺の忠告を聞き入れなかったからだ。はなから嘘だと決めつけ、追い払ったからだ。そんな人間は、死んで当然だ。


 やはり人間など、信じるに値しない。愚かな父や無力な母や、あるいはあの貧しい集落に固まっていた大人たちと、皆同じだ。自分以外の人間は全て、守る必要などない、無価値な存在なのだ。


 明日葉はずっとそうやって生きてきた。稔との出会いで、考えが微かに揺らいだに過ぎない。


 それを自覚する明日葉は、稔の息子である正太郎とも、一定の距離を置いてつきあった。表向きは忠誠を誓う振りを見せつつ、心の中では、むしろ憎しみや侮蔑に近い感情を持っていた。


「そうか、厳しいか」


 正太郎の寝顔を見つめていた明日葉は、後は頼んだと医者に告げ、部屋を出た。


「さあ、どうするかな」


 長い廊下を進みながらひとり呟く。佐宗商事のオフィスを見下ろすホールに至り、二股にわかれた階段を降りながら、いつものように頭の中を整理する。パチリパチリとパズルができあがっていくような感覚がある。だが、どうしても佐宗正太郎のピースが収まらない。どう考えても、あの状態の正太郎は、ただのお荷物だ。


 判断は早かった。一度決めれば、それは最善策だと確信できた。自分の人生に、もはや正太郎は必要ない。館の表玄関を出ると、空を見上げた。既に日が沈みかけていた。すぐに辺りは真っ暗になるだろう。


 明日葉は駐車場に停めてあったセダンに乗り込むと、エンジンを掛けた。




 金井建設は、佐宗商事の建設事業を専門に請けるようになってからも、拠点は佐渡商店街に置いたままだった。


 寂れた商店街。双名商店街のオープン以降、来客数は下降の一途をたどり、近辺の住人さえもが双名商店街まで足を伸ばすようになっている。五葉町西側への移住も進み、この旧市街は最近ではゴーストタウンなどとも揶揄されるようになっていた。


 アクセルをふかし、人通りのないシャッター街を上っていく。


「確かに、ゴーストタウンだな」


 運転席で明日葉は呟く。この商店街を必死に作り上げたのは佐宗稔だ。そして今、自らの息子が作った商店街によって、潰されかけている。いや、もう潰れてしまったと言っていいだろう。新たな時代が到来したのだ。だが、その変化に乗りきれなかった者たちがいる。


 明日葉は坂を登り切ると、佐渡商店街を見下ろすその場所に建つ屋敷へと近づいていった。


 塀で囲まれた大きな建物。入口にはだらしない服装の見張りが数名立っている。敷地内に入ってきた明日葉の車を不穏な表情で見つめている。


 駐車スペースに車を停めると、腰の拳銃を確かめ、玄関へと近づいていく。


「あ、こりゃ明日葉さん、うっす」


 タバコ片手に玄関脇に立っていた男が、ニヤニヤしながら言う。明日葉はふと立ち止まり、男の方を向く。


「な、なんすか」


 三十代だろうか、いい歳をして頭を金色に染めている。唇から覗く歯は黄ばんでおり、着ているシャツも不潔だ。そしてこの、自らの無知を晒すような態度。明日葉は、男の首から下がった下品な金ネックレスを掴むと、思い切り引き寄せた。


「うわっ」


「ガキみたいな態度をとるな。頭を撃ち抜くぞ」


 男は目を見開き、明日葉の迫力に、細かく頷いた。


「丈三はいるか」


「は、はい。います。いつものところです」


 手を離して、胸をドンッと押した。男はよろけながら壁にぶつかって、「す、すんませんでした」と口ごもる。明日葉は舌打ちしながら靴を脱ぎ、屋敷の中へと入った。



 百畳近くある大広間には、カビ臭い空気が漂っていた。


 金井建設の社員やその家族、その他の関係者が、食事をしたり喋ったりあるいは横になってタバコを吸ったり、勝手な事をして過ごしている。


 彼らはこの屋敷かごく近隣に住み、仕事とプライベートの境目のない、このような奇妙な共同生活を送っている。金井建設では昔からそうだった。かつての大食堂を思わせる下品な騒がしさに、明日葉は苛立ちを覚え、顔をしかめる。


 畳の上を、わざと足音を立てるように歩いていく。誰にぶつかっても気にしない。転がっている人間の手を踏みつけながら奥へと進んでいく。後ろから悪態が飛ぶ。


 一番奥、神棚の下で偉そうにしている丈三が見えた。酒の入った椀とタバコをそれぞれの手に、部下たちと大笑いしながら話している。はだけた着物の中には痩せた身体が見え、胸には貧弱な龍の彫り物がある。


 明日葉が目の前に立つまで、丈三は話を止めなかった。無言で見下ろしているとやっと視線を寄越し、反抗的な、だがどこか甘えた表情で言った。


「明日葉さんじゃないですか、どうしたんですこんな時間に」


 明日葉は呻いた。随分な態度だった。こいつらは、佐宗商事が仕事を与えてやっているから経営が成り立っていることを、都合よく忘れているようだ。事実上の傘下企業になったと勝手に安心し、双名商店街の繁栄を自らの手柄のように考えている。


「ちょっと来い」


 明日葉は言った。


 だが丈三は鼻で笑い、同意を求めるように周囲を見回した。笑い声が起こった。


「いきなり来て、随分な態度じゃないですか明日葉さん」


 苛立ちは殺意に変わった。重茂が失脚する前、その部下だった明日葉は、松宇や重茂の小間使いのような立場で働いていた。あの頃は、自分と年の変わらない丈三に対しても、明日葉は下手に出る必要があった。その頃の印象がまだ丈三の中に残っているのだろう。どこかで、明日葉は自分より下の存在だと考えているに違いない。


「いいから、来るんだ」


 明日葉は忍耐強く言った。丈三は肩をすくめ「わかりましたよ」とタバコをゆっくりと一吸いし、灰皿に押し付けながら立ち上がった。


「応接室、行きましょうか」


 廊下に出てふらふらと歩き始める丈三の後をついて行きながら、ホルスターのボタンを外し、静かに拳銃を引き抜いた。角を曲がり、「で、いったい何の用なんですか?」と振り返った丈三の頬を、銃のグリップの底で思い切り殴りつけた。


「ぐっ」


 鈍い呻き声とともに丈三が崩れ落ち、仰向けに転がった。明日葉はのしかかった。悲鳴があがる前にもう一度、今度は鼻に向かってまっすぐ振り下ろした。骨にヒットする感触があった。手の中で銃を反転させ、その銃口を丈三の口の中に突っ込んだ。


「騒いだら、撃つ」


 薄ぼんやりした裸電球の下、丈三は硬直した。


「騒いだら、撃つ。聞いているのか?」


 丈三は涙の滲んだ目を見開いて、カクカクと頷いた。その前髪を乱暴に掴んで、引き寄せた。銃口が喉まで差し込まれ、丈三がえずく。


「これから、ずっとだ。調子に乗って騒げば、撃つ。お前を、殺す。いいな」


 丈三の表情が歪んだ。唇が細かく揺れている。


「分かったか?」


 丈三の息が荒くなった。頷いた。目に涙が溜まり、あっさりと流れ落ちた。かすかな満足感があった。


 明日葉は銃をゆっくりと引き抜くと、付着した唾液を丈三の着物で拭った。


 茫然と見上げる丈三に、明日葉は言った。


「お前に金井建設の社長などできない」


 丈三は反論しなかった。情けなく黙った。


「私の指示に従え」


「え?」


「俺が教えてやる。俺が導いてやる」


「でも……」


「金井松宇は虫の息だ。今日明日に死んでもおかしくない。あの爺様が死んだら、誰が金井建設を背負うんだ。お前か? お前にそんな大役が務まると思ってるのか?」


「それは……」


「悪いようにはしない、私の指示に従え。さもなくば……」


 明日葉は拳銃を揺らした。丈三はハッとして、それから「え、ええ、そりゃあもう」とひきつった笑みを浮かべた。


「もちろん聞きますよ、明日葉さんにはかなわない」


 丈三は震えた声で、だが必死に冗談めかして言った。明日葉は再び振りかぶり、先ほど殴った鼻にもう一度強烈な一発を振り下ろした。丈三が呻いて鼻を押さえ、もだえる。


「ぐっ、ちょっと……なんで……」


「私はお前を殺せる。簡単にだ。私はそういう立場にいる。舐めた態度をとるな。俺の前で二度とヘラヘラするな」


「は、はい」


「言いたい事は一つだ、私に従え。いいか、裏切るな。絶対にだ」

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