雄三

 自宅に戻ったのは午後十時過ぎだった。


 玄関前には、警護の警官が二人立っていた。警官だからといって安心することはできなかった。彼らもまた、事件の核心に関わっている敵かもしれない。だとしたら捜査本部のあるこの館は、敵の本拠地と言ってもいい危険な場所だということになる。


 わかった上で戻ってきたのは、どうしても確かめたい事があったからだ。


 敬礼する警官の横を抜け、裏のガレージにバイクを止めた。裏口から館内に入り、赤黒い絨毯の敷かれた階段を足早に登る。自室の扉を通り過ぎ、大股に廊下を進む。捜査本部は既に消灯されている。扉はピッタリと閉められ、人の気配も感じない。

雄三は社長室の前に立った。


「よし……」


 ノックせずにドアノブをひねった。


 寒々しい暗闇。部屋全体が何となくカビ臭く、乾いた空気が充満している。正面には主のいない立派な机と椅子。雄三は数秒それを見つめてから、左奥に目をやった。


 丈三の生活スペース、いや今では病室と呼んでもいいその空間にはサイドライトの暖色の光が灯り、ホタルのようにぼんやり丸く浮かび上がっている。大股で近づいていく。カビ臭さに、汗や薬剤の臭いが混じる。


「親父、俺だ。雄三だ」


 カーテンの外から声をかけた。その向こう側、ベッドの上で丈三の影が動く。


「……雄三?」


 丈三は起きていた。睡眠薬で眠らされてはいない。


「ああ、入るぞ」


 返事を待たずにカーテンを引いた。医者や看護師の姿はない。


「雄三、お前……」


 頬の痩けた老人が、言った。肌はカサカサに乾いて粉吹いており、それなのに髪の毛はベッタリと脂ぎっている。唇の端には唾液なのか吐瀉物なのか、泡だった液体が付着している。


「なあ……全部知ってるんだろ?」


 淡々と言おうとしたが、既に熱がこもっていた。それに気付いて雄三は俯く。


「……雄三、何を……」


 戸惑った丈三の声。雄三は顔を上げて、続ける。


「あんた、何をそんなに怯えてんだよ。この間俺の部屋まで来て言ったあの言葉は? この事件の背景に何があって、あんたがどう関わっているのか。なあ、全部知ってるんだろ」


 抑えていた感情が溢れだした。口調は強く、早くなった。


「いい加減、教えやがれ、このクソ親父が……」


 丈三は目を見開き、頬を震わせながら、目を逸らした。黄ばんだ眼球に、イトミミズのような血管が走っている。ベッド脇のワゴンには、夕食だろうか、粥のようなものが手付かずで残っている。かすかな同情心が浮かぶ。


「なあ、今までだって、会社が、金井建設がマトにされた事なんて何度だってあったんじゃねえのか。その度に相手をぶちのめして勝ってきたんだろう? 天下の金井建設だぞ。今回だけ、なんだってそんなふうになっちまうんだよ」


 丈三は視線を逸らして黙っていた。頬の震えは顔全体に拡大し、まるで壊れた電気人形のようにカタカタと揺れている。


「おい……何とか言えよ……」


 なんであんたはいつも、と言いかけてやめた。


 なんであんたはいつも――俺からそうやって目を逸らすんだ――


「クソ……」


 気を抜いたら自分が泣き出してしまうような気がして、何かを探した。自分を保つための何か。そもそも自分はなぜここに来たのか。雄三はハッとしてポケットに手を突っ込むと、先ほど小屋から持ち帰った写真を掴んだ。無言で引き抜き、そして、丈三の眼前で開いてみせる。


「おい……これ見ろよ」


 丈三の顔がゆっくりと写真の方に向いていく。不鮮明な写真だ。それもこの薄暗い部屋ではよく見えないのだろう。丈三は目を細め、首を差し出すようにして顔を写真に近づけていく。


「これは……」


 やがて丈三の、無精髭の散った頬が痙攣するように引きつった。


「そんな……お前……こんなものをどこで」


 その反応で、確信を持った。やはりそうなのだ。ここに写っているのは、若かりし頃の父なのだ。


「やっぱり親父なんだな。ここに写っているのは」


「雄三……言え……これをどこで手に入れた。なぜお前がこんなものを持って……」


「どこで、だって? 教えてやる。犯人のアジトだ」


 丈三は息を呑んだ。半開きになった唇が震え、端の液体の泡が動いている。


「犯人の……アジト?」


 やっと言った丈三に頷いて見せる。


「ああ、俺は犯人のアジトを見つけたんだ。その壁にこの写真が貼ってあった。他にもたくさん写真はあったが、この一枚だけ、貼ってあったんだ。なあ、わかっただろ、もう俺はこの件に首を突っ込んじまってる。仲間も襲われたし、それに女も……。一体、何が起こってるんだ、あんたは何を知ってるんだ。次に狙われるのは親父なのか? 前に言ってたよな、これは復讐だって。今度は俺が殺されるんだって――」


 言葉は溢れ出た。止まらなかった。丈三の細い手が、やめろ、という風に持ち上がった。その動作に、怒りが暴発する。


「うるせえ、勝手な事ばかり言いやがって、あんたはいつもそうだ。自分で勝手にやって、満足してやがる。俺の意見なんて関係ねえんだ。一度だって俺の目を見て話した事があったかよ。金だけ与えときゃおとなしくしてるとでも思ったかよ、てめえの息子とまっすぐ向き合う事もできねえくせに、なあ、聞いてんのかこのクソオヤジが」


 気付いた時には、涙が流れていた。父親の前で泣いたのはあの日以来だ。中学生の頃、中の良かったクラスメイトが転校させられた時。


「クソ……なんでてめえは……」


 怒りと悲しみのせいで、自分をコントロールできない。丈三が身体を乗り出して手を大きく振る。


「おい、ちょっと待て、落ち着け。なんでお前が犯人のアジトなんて知っているんだ」


「なんでって……」 


 雄三は革ジャンの袖で涙を拭うと、言った。


「明日葉だよ」


 丈三はぽかんと口を開け、やがて焦点が激しく左右に振れ始める。


 雄三は続ける。


「明日葉だ、警察の。あの爺の車をつけたんだ。山の上の、焼坂峠のあたりだ。トンネルの手前に脇道があって、そこを登って行くと小屋がある。小屋には誰もいなかったが、被害者の写真があった。明日葉は、車で、そっから降りてきたんだ。間違いねえ、あいつは犯人と会ってる」


「お、おい、黙れ、ちょっと黙れ」


 丈三がガリガリの腕をまた上げて制するが、雄三の口は止まらなかった。


「うるせえっつってんだろ! 俺は自分で行ったぞ。一人で行ったんだ。あのおっかねえ山ん中までな。なあ、明日葉の野郎は、クロだぜ。車の中で一人で喚いてたよ、あいつ、イカれてる。あいつが犯人を操って事件を起こしてるんだ。黒幕は、明日葉だ。それから――」


 雄三は呟くように、言った。


「五葉の獣だ――なあ親父、知ってるんだろう? 美作って化物の事」


 それを聞いた丈三の目が、限界まで見開かれた。顎も、だらりと下がり、呆然とした表情になる。


「お……お前……なんて事を……」


 丈三はそのまま視線を落とし、何事かを考えるようにシーツの一点を凝視した。ブツブツと何かを言い、やがて顔を上げた。


「おい雄三、今すぐここを出て行け」


「な、なんだよ、急に」


「今何時だ」


 さっきまでとはまるで雰囲気が違っている。目に光が宿り、頬に力がある。


「おい、何時だ」


 意味もわからず腕時計を見る。


「十時……四十五分だ」


「よし、不幸中の幸いだ。すぐに準備をして、家を出ろ」


「おい、何を言ってんだ。急に、何を言ってんだよ」


 丈三は首を振った。大きなため息をつくと、自嘲的な笑みを浮かべる。


「こうなって初めて覚悟ができるとはな。やはり俺は、父親失格だ。だが分かってくれ雄三、お前をこの問題に関わらせたくなかった。いや、そうじゃない、恐れていたんだ。お前に、俺の正体を知られるのを恐れていたんだ」


「正体? おい、一体何を――」


「ああ、お前は知ってはいけない事を知ってしまったんだ。まさか美作の名まで出てくるとは……とにかく、明日葉さんはお前の行動を必ず知る事になる。早ければ今日、遅くても明日には」


「な、なんでだよ、尾行はバレてなかったはずだ」


 丈三は首を振った。


「お前は明日葉さんを甘く見過ぎている。この街の事で、あの人が知らぬ事など何もない。それはこの館にしても同じ事だ。俺たちの言動はすべて筒抜けだ」


「ちょっと待てよ、どういう意味だ。盗聴器でも仕掛けられてるのか」


 半分冗談のつもりで言ったが、丈三は笑わなかった。


「それくらいの事は、とっくにやっているだろうよ。あるいは使用人やウチの社員を小飼いにしているのかもしれない。とにかく、もう遅いんだ。お前が明日葉さんを疑い、そして尾行した事。その先で犯人のアジトを見つけ、どこからか美作加州雄の存在を知った事。そしてそれらの情報を俺に対してぶちまけた事。全部があの人にバレてしまうだろう」


「そんな……いや、でも、あいつは警察だろうが」


 これまでの自分の行動からすれば、滑稽とも思える発言だった。警察官としてまともだったら、そもそもこんな話にはなっていない。だが、それでも、明日葉は警察官だ。国家公務員だ。


 だが丈三は、首を振った。


「警察だから、恐ろしいんだよ。あの人の手にかかれば、犯罪をもみ消す事も、作り出す事もできる。いいか雄三、お前があの人の秘密を掴んでいる事が知れたら、明日葉さんはお前を逮捕しに来るぞ」


「そんな……逮捕って、何の罪でだよ」


「馬鹿野郎、そんな事は問題じゃないんだ。あの人が逮捕したいと思えば、お前は逮捕されるんだ。罪状なんて後からどうとでもなる。――ああ、俺が馬鹿だった。お前には俺のようにはなって欲しくないと思っていた。雄三、とにかく、今すぐにここから逃げろ。どこかに身を隠すんだ。もう遅いかもしれないが」


「身を隠すって……何だよ、いきなり何なんだよ、意味がわからねえよ、てめえ、金井建設の社長だろうが。五葉の王なんだろうが。それが何でこんな……」


「違う」


 丈三は痛みに耐えるように目を閉じた。


「違う、俺は、この町の王なんかじゃない。……逆だ。この館に繋がれた、奴隷なのだ」


 そして丈三は突然身体を傾けると、自分の寝ているマットレスとベッド枠の間に手を突っ込んだ。そして、苦労しながら何かを引き抜いた。


 それは、一冊のノートだった。表紙は手垢で黒ずみ、縁もボロボロになっている古いノート。


「これを……これを持っていけ。どうせ俺は身柄を拘束される。遅かれ早かれこれも見つかってしまうだろう。だからお前が――。さあ、行け。うまくやるんだ。俺のようになるな。いいな、雄三」


「でも……」


「いいから行け! 行くんだ!」


 雄三はノートを受け取り、写真をまたポケットにねじ込むと、カーテンを抜けて足早に出口に向かう。ふと、これが父との別れになるのではないかという予感がして、振り返った。カーテンの向こうに薄っすら見える父親の姿を捉えた。丸い光に浮かび上がる、仏のようにも見えた。

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