雄三
動きがあったのは、腕時計の針が九時半を指した頃だった。五葉署の裏口から、一人の人間が出てきた。
この暗さ、そしてこの距離だ。とても顔までを確認することはできないが、その影は駐車場を横切って、暗い色のセダンへとまっすぐに向かっていった。
「明日葉だ……」
雄三は呟いた。すぐにヘッドライトが点灯し、車は動き出した。建物を迂回して表側に回ると、出口を右折して国道に出ていく。
「どこに行こうってんだ……」
明日葉の車はスピードを上げ、くねった海沿いの道路を進んでいく。あのまま直進しても、SCARSのガレージがある旧市街しかない。あんな寂れた町に、何の用があるのだろう。あるいは旧市街の更に先、十キロ近く離れている隣町まで行くつもりか。
旧市街へと道が左にカーブしていく直前の信号機が、赤になった。明日葉の車は停車し、そして右ウインカーを点灯した。
そうか、と雄三は思った。目的は旧市街じゃない。
あの信号を右折するという事は、山道に入るという事だ。ドライブインや
急いで行けば、先回りができるかもしれない。雄三は小走りにバイクまで戻ると、エンジンを掛けた。
くねった細道を抜け、いつもの林間道路に戻ると、一気にアクセルを開いた。急がなければ、見失ってしまう。身体にかかる重力が増し、ライトに照らされた風景が、楕円形に歪みながら振動する。ハンドルに感じる振動は激しさを増していくのに、耳に聞こえるエンジン音は徐々に小さく、遠くなる。
暗い視界の中、白いガードレールが迫ってくる。満足な街灯もないカーブを、さらにスピードを上げて通り抜ける。恐怖を感じている場合ではない。ただ急がねばと、明日葉の車を見失ってはならないと、それだけを考えていた。
やがて正面に、黒い壁のように見える森が見えてきた。直進する道はあそこで行き止まりになり、左右に伸びる坂道と接続する。つまり、先ほど明日葉が右折した道だ。
距離は約二百メートル。急ぐ気持ちがアクセルをさらに開かせた。だがその時、自分のヘッドライトとは別の光が、視界左側の暗闇の中でチラチラ動いている事に気付いた。
「クソッ、奴か?」
本当ならば明日葉よりも先に道を登り、ドライブインか沙織の家のあたりから動きを伺いたいと思っていた。だが、このタイミングでは、鉢合わせする危険性がある。せめて気づかれないようにと、雄三は急いで路肩に停車し、ライトを消した。
やがて車の走行音が聞こえ始め、一台のセダンが坂道を登っていくのが見えた。明日葉の車だという確証はない。だが、こんな時間にこんな場所を通る車などそういない。やはりあれは先ほど警察署を出た明日葉の車だと考えるのが自然だった。すぐにでも追いかけたかったが、もし尾行されている事に気付けば、明日葉は今日の予定を見送るかもしれない。
結局そのまま数分待ち、車の音が聞こえなくなってから、静かにエンジンをかけた。なるべく静かに、ゆっくりと登っていく。
明日葉はどこに向かったのだろうか。いつの間にか風が強くなり、左右の木々をざわつかせている。木々の合間から、突然何かが飛び出してきそうで怖かった。
ドライブインを過ぎ、沙織の家のあたりまで来ても、車の行方は知れなかった。下ってくる車とすれ違っていないという事は、あのセダンはここよりも上にいるはずだ。だが、ここより先に行けば、焼坂峠のトンネルしかない。
「あいつ、山越えでもしたのか……」
もしそうなら、車を完全に見失った状態で、行き先を特定するのは難しかった。
意識して考えないようにしてきた後ろ向きなイメージが、じわじわと膨らんだ。
……俺は、失敗したのか?
……本宮が与えてくれたチャンスを、棒に振ったのか?
沙織の家の敷地にバイクを乗り入れ、エンジンを切った。沙織はまだ入院中なので、家の中は暗く物音一つしない。寒々とした風景が、雄三を責め立てた。
……どうしてうまくやれない。ずっとデカイ面をしてきたくせに、一人では何もできねえじゃねえか……。
SCARSの面々、沙織、本宮、そして明日葉にすら馬鹿にされている気がして、気持ちが沈んだ。
「クソ……見てろ……」
雄三はバイクから降り、よろけた。家の壁に手をついて身体を支えると、深呼吸しながら、道路の方へと戻っていく。
徒歩で坂を登りながら、とにかくトンネルまでの一キロほどを調べてみるつもりだった。明日葉の車が、あるいは何かしらの脇道や建物が見つかるかもしれない。
だが、道は曲がりくねっていて先が見通せない。そもそも月明かり以外に頼るもののない暗い山中だ。木の重なりが深い場所では、自分の歩いている地面すら満足に見る事ができない。孤独や不安が押し寄せてくる。坂は勾配がきつく、すぐに息が荒くなっていく。
「どこだ……クソ……」
何かが見つかって欲しい。明日葉へと、そして犯人へと繋がるような何かが。
だが少しでも気を緩めると、何も見つかってほしくないような気分になる。自分は努力したのだと胸を晴れる事実だけを手に入れ、おとなしく逃げ帰りたいと考えてしまう。
何考えてんだ、それじゃ何の意味もねえじゃねえかという思いと、そうなれば自分は男としてのプライドを守りつつ、危険に晒されずにすむという思いが、交錯する。
やがて遠くに、黄色信号の点滅が見えた。
信号機自体が見えたわけではなく、カーブの先にある信号機の光が、木々を透かして見えているのだ。トンネルの直前に確か信号機があったはずだ、という事は、ここを曲がればもうトンネルなのか。
微かな違和感があった。
沙織の家からここまで、まだ数分しか歩いていない。
トンネルに到着するのが、早過ぎる気がしたのだ。
その違和感は、次の瞬間、一気に膨張した。
黄色い光は、移動していた。
それが何かを考える前に足は止まり、咄嗟に、コンクリで固められた山肌の影に滑り込んだ。
視界から光が消えて、その変わりに、石がすり潰されるような、砂の流れるような音がして、それはやがて車のエンジン音に収束した。雄三は大きく息を吸うと、ふくらんだコンクリから顔を出し、音のする方を伺った。
木々の隙間から降りてきた車が、砂利を弾き飛ばしながら道路に出てきたのが確認できた。
百メートルも離れていない。
車は道路に出ると、一気にスピードを上げて近づいてきた。くねった山道を運転しているとは思えない。車線を無視し、すごいスピードで蛇行しながら進んでくる。まるで泥酔者かと思うような、乱暴な、危険な運転だった。
ハイビームのせいで運転手の顔はおろか車種すらよくわからない。雄三は、再び身体を隠すと、車が通り過ぎるのを待った。やがてタイヤの擦れる音がすぐそばで聞こえた。
瞬間、雄三は目を見開いて、ほんの数メートル向こうを通り過ぎる車を凝視した。
思わず声をあげかけた。
運転席にいたのは、間違いなく明日葉だった。
だが、声が出そうになったのは、明日葉の浮かべた表情のせいだった。
いつもの仏顔ではない。
それは、まるで鬼のような顔だった。
明日葉は何かを喚いていた。口を動かし、首を振り、ハンドルを殴りつけ、鬼の形相で過ぎていく明日葉。
恐怖というよりは、思考がストップした感じだった。何が起きたのか、自分は何を見たのか理解できないまま雄三は呆然とし、周囲に先ほどまでの静けさがすっかり戻ってから、我に返った。
最初に気付いたのは、あたりが何となく明るくなっている事だった。視線をあげると、雲が晴れ、明るい満月が顔を出していた。風もなくなって、穏やかな夜が広がっている。
雄三はゆっくりと立ち上がると、壁に押し付けていたせいで身体に付着した土や葉をはたき落とした。深呼吸をして、道路に出る。そして、先ほど明日葉がすごいスピードで降りていった道を、登っていく。
やがて数十メートル上に、不自然に砂利の散らばった一帯を見つけた。それを前に立ち止まり、山側を見上げると、そこに舗装されていない上り坂があった。
この月明かりでも十メートルほど先までしか見えない。そこから向こうは、漆黒の闇だ。
動悸が激しくなった。直感的に、間違いないと思った。
明日葉の車は、ここから出てきたのだ。
しばらくその場で、立ち尽くした。恐ろしかった。この上なく恐ろしかった。
ポケットの中をまさぐった。ジッポーライターが指先に触れた。
雄三は覚悟を決め、砂利道へと足を踏み出した。
雄三が見つけたのは、一軒の小屋だった。
勾配のきつい砂利道は、道路から入って二十メートルほどで右にカーブしており、そのまま進むと、木々に囲まれた空き地のような場所に出た。
空き地と言っても、車が二三台停められる程度の広さだ。そして、その空き地を見下ろすような場所に、小屋が建っていたのだった。近づいていくと、暗闇に慣れた目に、その詳細が見えてくる。
木造の小屋だ。館の裏庭にある道具入れをふたつ繋げたほどの大きさ。住居と見る事もできなくはないが、やはり小さい。扉に、黒いドアノブが見えている。
緊張と寒さのせいで、身体が重かった。口の中はカラカラだ。唾を飲み込もうとするが、粘ついてうまくいかない。
小屋は雄三の二三メートル上に立っている。周囲を確認すると、空き地は窪地のようになっているのがわかった。その輪郭にそって、小屋の立つ土手へと上がるための道が作ってあるのに気付いた。幅三十センチ程の、土でできた道だ。
「よし……行くぞ……」
わざと声に出して呟いた。一度目を固く閉じ、思い切って足を踏み出す。土の道は固く、雄三が乗っても崩れる心配はないだろう。だが、不安のせいで足取りは重かった。ほんの二十メートル程の距離を行くのに、五分ほどを費やした。
雄三は小屋の前に立ち、唾を飲み込んだ。
古いものらしく、扉も壁も腐りかけた枯木のような色をしている。金属製のドアノブだけが妙に新しい。
「よし……」
雄三はゆっくりと手を伸ばした。細かな装飾がなされたそれは、冷たく湿っている。そのまま扉に耳を近づけるが、何の物音もしなかった。反対の手をポケットに突っ込むと、中からジッポーを取り出す。ノブをゆっくり回し、軽く押した。
扉が、蚊の飛ぶような音を立てて開く。
室内は真っ暗で、何も見えない。だがやはり人の気配はない。雄三は肚をくくった。ジッポーを持った手を室内に差し入れて、擦った。
小屋の中がぼんやりと明るくなる。
揺らめく炎の向こうに、スコップやクワに似た棒状の道具が浮かんだ。それらは壁に立てかけられている。
雄三は手を動かして、炎の位置を変えていく。それに合わせて見えるものが変わる。
何が入っているのかわからない木箱がいくつかと、奥に机とイスがひとつずつ。机の上には書類のようなものが散らかっている。林業で使う倉庫か簡易事務所なのかもしれない。
雄三は大きく息を吸うと、室内に足を踏み入れた。
全身が室内に収まると、少し迷った後、後ろ手に扉を閉めた。
あらためてジッポーで室内を照らす。中は四畳ほどしかない。それに、道具も机も、最後に使われてから長い時間が経っているようだ。
「なんだよ……ビビらせやがって……」
誰もおらず、怪しいものもないのを確認すると、途端に力が抜けた。
「何もねえじゃねえか……ん?」
その時、机の上の書類が、妙に炎を反射する事に気付いた。
「なんだ……」
数歩近づいて、火を近づける。
「あっ」
それは書類ではなく、写真だった。
A4用紙に印刷された大きな写真。
「なんだ、なんの写真だ……」
さらに近づいて、写真に顔を寄せていく。ジッポーの炎が、そこに印刷された像を明らかにしていく。
「あっ?」
雄三は寒気を覚えた。写っているものに見覚えがあったからだ。
「こ、これ……ウチじゃねえか……」
その写真には、館の詰所が写っていた。事件が起こり、今は立入禁止となっているあの詰所だ。鮮明な写真ではないが、毎日のように通ってきた場所だ。見間違えるわけがない。
思わず手を伸ばす。震える指先で写真に触れたとき、その一枚の下に、さらに多くの写真が重なっていることに気付く。
つばを飲み込み、一枚目を持ち上げる。
「うっ」
雄三は思わず呻いた。悲鳴を上げそうだった。
次の一枚には、人間の顔が写っていた。
人の良さそうな、白髪の老人だ。ジャンバーにスラックスという服装で、庭の植木に水をやっている。週刊誌のスクープ写真のように不鮮明で、隠し撮りされたような不自然なアングルだ。
「これ……誰だ……なんなんだよこれ……」
雄三はその写真も持ち上げ、さらに下の一枚を見る。
「ううっ」
また呻いた。胃が掴まれるような緊張を覚えた。次の写真にも人間が写っていたが、雄三はその男を知っていた。
名前は思い出せない。話した事もない。
だがその男は、あの日裏庭で腹を割かれていた清掃夫に間違いなかった。ゴールド美装の制服を着ているので、すぐに分かった。
次の瞬間、雄三はハッとして先ほどの写真に戻る。
「こいつ……もしかして……」
服装が違うから分からなかった。その白髪の老人にも、見覚えがあった。普段は、警備員の制服を来て、詰所にいた。
それは、警備員の山岸だった。元銀行員の、嘱託社員。ひどいやり方で殺された、第一被害者。本宮から名を聞いた時には何の覚えもなかったが、雄三はその顔を知っていた。いつも微笑んで、詰所の椅子に座っていた。自分が戻ってくると、警備帽をとって、おかえりなさいませ、と声をかけてきた。
動悸が激しくなる。
事件現場の、そして、被害者たちの写真があった。もしかしてここは――と雄三は考える。
もしかしてここは――犯人のアジトなのか?
疑問と恐怖が交じり合って騒いだ。明日葉の車はここから出てきた。明日葉はこの小屋に来たのだろうか。そしてそこには、犯人もいたのではないか?
先ほどまでは何をどうしてもでてこなかった唾液が、今度は溢れて止まらなくなった。今すぐに逃げ出したい。だが、足に力が入らない。手の中で熱を持ち始めているジッポーの重みだけが、自分を現実に引き止めている。
震えた息を吐く。再度手を伸ばし、清掃員の写真をのける。
坊主頭に黒い長袖Tシャツを着た男。
「ああ……尾藤……」
雄三は奥歯を噛み締めた。脳のずっと奥の方で、怒りの感情が小さく発火した。写真の中の尾藤は笑っていた。人懐っこい笑顔。いつも自分の後ろをついてきて、「俺は雄三さんみたいになりたいんす」と公言するかわいい後輩だった。
もう間違いない。
この小屋が事件に関係がある事は、疑いようがない。そして、明日葉はここに来たのだ。家までの送迎を断り、自分の車で、一人で。
圧倒的な恐怖が全身に流れ込んでくる。だが一方で、写真をめくる右手だけは動きを止めなかった。
写真は数十枚あった。館の表玄関、側面、それから裏庭などの風景写真。やはりこれらは、犯人が襲撃を行う際の、資料となったものなのだ。
「ない……なんでだよ……」
言いながら写真を散らす。雄三は、自分が何をしているのか、なぜすぐに逃げ出さす、こんな真似をしているのか、自分の呟きによって理解した。
沙織の写真を探していたのだ。
もし犯人がこれらの写真を元に襲撃を行っていたのなら、沙織の写真もなければおかしい。
だが、なかった。沙織の写真は見つからなかった。
「ねえぞ……なんでだ……」
安堵とも怒りとも言えぬ奇妙な感情を覚えた。唾が止まった。恐怖が、その大きさを把握できる程度には小さくなった。足が冷たい。だが、力を込めると、動いた。
とにかく、ここにいても仕方がない。もたもたしていたら、明日葉や犯人が戻ってこないとも限らない。
身体を回し、ジッポーを高く上げる。その時、何かが見えた。さっきは気付かなかったが、扉の脇の壁に何かが貼ってある。
「なんだ……」
ジッポーを近づける。それは、机の上のものよりも二回りほど小さい写真だった。古いものらしく、縁がほころび、色もほとんど抜けている。
何の場面なのか、何の集まりなのかはわからない。それは奇妙な集合写真だった。
写っている十数人はきっちり並んでいるわけではなく、思い思いの場所で、何となくこちらに視線を寄越している。中央に二人の男がいるが、その部分は特に損傷が激しく、足から腰くらいまでしか判別できない。
彼らと少し距離を置いた所に四五人が固まっており、反対側にもぽつぽつと人が立っている。カメラマンがあげた声に、皆が一斉にこちらを向いた、という感じだった。
雄三は彼らの向こう側に見えている建物に目を留めた。色が抜け、詳細は分からない。だがそれは、金井建設社屋、つまり自分の家でもある館に見えなくもなかった。
考えすぎだ、という気がした。この小屋で館の写真を何枚も見たので、そう感じるだけだ。そもそも、写真は最近のものではない。損傷のひどさを差し引いても、男たちの服装や髪型、雰囲気から、何十年かは前の写真だということはわかる。
だが、この一枚だけが壁に貼られている事が気になった。顔を近づけ、あらためて写っている人間を見ていく。
そしてある一人に、雄三は目を留めた。
向かって右側、中央の二人からかなり離れた位置に立つ、痩せた男。肩をすくめるような独特の体勢で、長身の身体を、少し斜めにして立っている。
「これ……」
雄三は息を呑んだ。その体型、そして立ち方。顔の表情は全く分からないが、父・金井丈三によく似ていた。まだ若い。これが丈三なら、やはり背後にあるのは、館なのか?
雄三は震える指先で写真に触れた。犯人のアジトで、なぜ父親の写真が見つかるのか。写真の中の父親は、肩身が狭そうで、弱々しい印象を受ける。金井建設の社長として、暴君のようにふるまう姿は想像できない。
館は雄三の生まれた頃、つまり約二十年前に建設された。雄三の聞いている話では、その頃には既に丈三は金井建設の社長であり、五葉の王として君臨していたはずだった。少なくとも、写真の隅で、遠慮しながら立っているような人間ではなかったはずだ。
「どういうことだ……」
何かが、食い違っている。
それに、だとするならこの中央にいる二人は誰なのだろうか。
雄三は思わずその写真を引き剥がすと、乱暴にポケットにねじ込んだ。再び巨大化を始めた恐怖に混乱が加わり、頭がどうにかなりそうだった。やけどしそうなほど熱くなったジッポーを握りしめた。
手のひらに鋭い痛みが走る。
その感覚だけが、自分に属する確かなものだった。
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