雄三

「いいニュースと悪いニュース、どちらから聞きたいですか?」


 沙織の事件から数日後、時間通りに現れた本宮はそう言って、雄三の隣に腰を下ろした。


「なんだよそれ、ドラマのセリフみてえだな」


 眼下に海を見下ろす山中にある、自然が作った展望台に二人はいた。


 いつもバイクで走る林間道路の、目立たない脇道に入りしばらく登ったところにある場所だ。日が落ちてもうだいぶ時間が経っており、空は暗い。遠く双名商店街の辺りだけが煌々と光っているほかは、ぽつぽつと街灯や人家の光が見えるくらいだ。


 五葉町をこのように一望できる場所がある事を、雄三は知らなかった。電話で指示されるまま半信半疑で来てみたが、目の前に現れた景色に思わず見惚れた。


 どうしても話したい事がある、と電話口で本宮は言った。直接会って話したい、自分から連絡があった事を誰にも言わずに出てきてくれ、と。


 雄三はその通りにした。いつものように裏の階段からガレージに出て、バイクを駆ってここまでやってきた。


「どちらにします? いい方、悪い方」


「じゃあ、いい方」


 本宮はチラリと雄三の方を見ると、軽く笑って頷いた。分かりました、と言いながら視線を戻す。


「傳田部長が口を割りました」


「え?」


 雄三は身体を乗り出した。少し遅れて、動悸が感じられる。


「本当かよ。つうか、何を話したんだ」


「傳田さんは犯人を知ってます」


「マジかよ」


 雄三は驚いて言った。それは、傳田が犯人を知っているという事だけでなく、それを本宮に話したという事についてだった。


「あの傳田が、よく話したな」


「弱点ですよ。あなたが教えてくれた」


「――馬場可奈子か」


 本宮は頷いた。


「どんな手を使ったんだ?」


「まあ……いいじゃないですか。捜査の為です」


 本宮は明言を避けたが、あの傳田が口を割るほどだ、かなりの事をしたのだろう。本宮は真面目な男だが、捜査のためなら非情にもなるような気がした。


「それで、犯人は誰なんだ」


 先を促す雄三に、本宮はノートをめくる。それから雄三の方を見て、ゆっくりと言った。


美作加州雄みまさかかずおという男です。美しいに作る、と書いてみまさかと読みます。かずお、は、加えるに、アラスカ州とかの州という字に、オスという字」


「美作……加州雄……誰だそいつは」


「二十年ほど前、この町で最も恐れられていたヤクザ者です。喧嘩が滅法強く、敵う者は誰一人いなかった。町ではこう呼ばれたそうです――五葉の獣と」


「五葉の……獣……」


「ええ、傳田さんは一度、その美作に襲われた事があるんだそうです。美作は百九十センチを超える巨体で、髪が長く、原人のようだったと。それでいて動きが異常に素早く、気がついたら切り裂かれていた。傳田さんの頬の傷……あれは美作につけられたものですよ」


 本宮の言葉に、背筋がゾクリとした。思わず肩越しに後ろを確認してしまう。だがそこには、木々が重なって作られた黒い闇しかない。


「傳田さん曰く、美作の力は圧倒的だったそうです。武器を持った大人が集団でかかっても、瞬時に返り討ちにあうのだと。ですが、美作は町ではなく山中に小屋を建てて住んでいたそうで、その姿を目の当たりにした人間は多くない。そういう状況があって、都市伝説的に五葉の獣の話が広まったんでしょう」


「それで……その獣が、なんだってんだ」


「はい。そんな美作ですが、ある時を境に完全に姿を消します。傳田さんも、その経緯についてはよく知らないと言っていました。何があったのかは分からないが、とにかく消えたんだと。そしてこの二十年間、一度として美作の姿を見た人間はいない」


「じ、じゃあ、いいじゃねえか。なんでそんな野郎が今回の事件に関わってくるんだよ」


 何となく嫌な予感を感じながら雄三は言った。月に照らされた本宮の顔に、緊張が浮かんでいる。


「ええ、そうなんです。何しろ、二十年も消息不明だったわけですからね。傳田さん自身も、既に死亡してるとばかり思っていたそうです……先日襲われた、被害者の話を聞くまでは」


 雄三は思わずゴクリと唾を飲み込んだ。決して繋がるはずのない話が、自分の知らぬ所で、徐々に距離を縮めている気がする。


「被害者……被害者って、こないだの警備員の事か」


「そうです。その久万という男、自分を襲った犯人の姿を目撃していました。傳田さんは偶然その襲撃現場に居合わせた事で、久万の話を聞く事ができた。彼は苦しげに、だが明確に、犯人の風貌を話したんだそうです」


「まさか……それが……」


「ええ、久万が示した特徴は、すべて美作加州雄のそれと一致していたそうです」


 また寒気がして、思わず両手で身体を抱く。


「それで傳田は、あんなにビビってたのか。自分の顔に傷をつけた野郎が、ゾンビみてえに蘇ってきてきたんだからな」


「傳田さんだけではありませんよ」


 本宮が言った。何を言っているのか分からず、その横顔を見る。


「傳田だけじゃねえって、どういう事だよ」


「お父様ですよ。あなたのお父様も、何かに気付いているんじゃないですか?」


 ハッとして言葉を失う。確かに、父親の怯え方も異常だった。それに、あの奇妙な言葉。言われてみれば、何かしらの心当たりがあるようにしか思えない。


「じゃあ親父も……美作の事でビビって……あんな風に」


「本当のところは分かりません。ですが傳田さんも、その可能性を示唆していました。傳田さんが襲われた時、その場に丈三さんもいたんだそうです。美作への恐怖は傳田さん同様、あるいはそれ以上のものがあるだろうと」


「でも……確かなのか? たまたまた似たような風貌の男が犯人だって可能性も――」


「もちろんあります。ですがここで思い出されるのが――臭い、の件です」


「あっ」


「傳田さんが美作加州雄関与の可能性を強く感じたのは、久万の話を聞く前、つまり現場に漂う独特の臭いを嗅いだ瞬間だったそうです。風貌についての供述は、その疑惑を確信に変えるものだった。思い出してください、雄三さんは第二被害者の襲撃現場で奇妙な臭いを嗅いだと言っていましたね。そして、園田沙織さんも犯人は臭かったと言っている。もしこの三つの臭いが同じもので、傳田さんの記憶が確かなら、やはり美作加州雄という線を捨てるわけにはいきません」


 風が吹いた。気温がさらに下がっていく。


 完全な夜だ。思わず腕時計を見ると、夜八時を過ぎていた。


 ふと気付いて雄三は言った。


「おい、ちょっと待てよ、これがいいニュースの方なのか?」


「ええ。犯人に繋がるかもしれない有力な情報が手に入った。これはいいニュースです」


「じゃあ、おい、悪いニュースって、何なんだよ」


 雄三が言うと、本宮はなぜかふっと笑い、首を振った。嫌な予感がした。


「おい……何なんだよ。言えよ」


「ええ、それが」


「何だ」


「私、捜査から外されました」


「は?」


「今朝、辞令が下りました。明日から私は別の事件を担当します。つまり本件の捜査に、私は今後一切関わる事ができません」


「な、なんでそうなるんだよ」


「私が明日葉さんを疑っている事が、バレてしまったんでしょう。本部の意向を無視した独自捜査を行っていた事も」


「疑ってるって……もうその線はなくなっただろうよ。犯人はその美作って野郎なんだろ? 二十年も姿をくらましてたそいつと明日葉が繋がってるだなんてさすがに思えねえよ」


「いや、だからこそ、なんです。今回の事件、そんなに長く町から離れていた人間が一人でできるとは思えないんです。必ず情報提供者がいる。いや、情報提供者というより、誰かが美作加州雄を使って犯行を行っているようにすら思える」


「その誰かってのが……明日葉だって事か」


「今回の私への対応で、その疑いはむしろ強まりました。課長は明らかに、事件の核心へと続く道を妨害しようとしている」


 本宮はため息をついて、立ち上がった。尻を叩き、土や草を払う。


「やはり私は組織に向いていないのかもしれません。頑張ったんですが、こうなってはもうどうしようもない。もう、あなたとこうしてお話する機会もないでしょう。同年代の仲間ができたようで、嬉しかったんですが……」


 本宮はそして手を差し出した。何かを言おうと思ったが、何を言えばいいのか分からなかった。モヤモヤした気分のまま、その冷たい手を握った。


「そうだ、最後にひとつ、お土産というか言付けというか」


「なんだよ」


 本宮は腕時計にチラリと目をやってから、数歩前に出た。そして暗がりの中の一点を指す。


「あそこに警察署が見えるでしょう? 建物裏の駐車場、一番左の手前側……あのセダンは課長の自家用車です」


「明日葉の?」


「ええ。課長が自分の車で署に来る事は珍しいんです。いつも部下に送り迎えさせてますからね。逆に言えば、課長は今夜、あれに乗ってどこかに行くつもりだ。部下に送らせるわけにはいかない、秘密の場所にね」


「秘密の場所? それはつまり、明日葉が犯人と接触するって事か」


「すべては憶測に過ぎません。でも、私が捜査本部をクビになった事自体が、憶測が真実である可能性を示しています」


 雄三は本宮を見つめた。


「……それで、ここに呼び出したのか? 俺に明日葉を追わせるつもりで……」


「そうじゃないと言えば、嘘になります。警察署のそばで張り込むのは危険だし、見通しも悪い。ここなら、車の動きである程度の行き先はわかる上に、向こうに気づかれない距離を保つ事も容易だ。だが無論、選ぶのは雄三さんです。私は何も強制するつもりはありません。今までもそうだった。私たちは最初から、そうだったじゃないですか」


「本宮……」


「じゃあ雄三さん。私は先に失礼します。もしまた会う事があったら、その時は、仲良くしてください」


 本宮は引きつった笑いを浮かべ、軽く頭を下げると、暗い林の中へと消えていった。





 本宮が去った後、雄三はひとりその場に留まり、ただ五葉署を見つめていた。


 気温はさらに下がり、全身が冷えて硬くなっていた。少し腕を動かすだけで、痛みに似た冷たさを感じる。


 選ぶのは雄三さんだ。本宮はそう言ったが、選択肢などないに等しかった。


 本宮は苦笑いでごまかしていたが、道半ばで動きを封じられ、無念だったに違いない。


 それに、今回の事が、今後のキャリアにも影響しないとは限らない。今日、自ら明日葉を追おうとせず、雄三にその役目を引き継ぐような事をしたのも、それが本宮のできる精一杯だったからだろう。


 それほどの犠牲を払ってまで自分に協力してくれた本宮の想いに、報いたいという気持ちが強かった。それに、と雄三は思った。本宮の想いがどうであれ、自分には逃げる訳にはいかない理由がある。


「沙織……」


 思わず呟いた。


「見てろ、俺が犯人を捕まえてやる」

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