正太郎

 正太郎は何度も美作のもとを訪れては、暴力を続ければ警察に逮捕される事もあり得ると、説明した。


 かつて、美作を逮捕するぞと言いに来た重茂を止めたのは明日葉だった。だが今度は、その明日葉が美作を逮捕しようとしているという、皮肉な状況だった。


 だが、美作の状態はよくないようだった。常に苛立ったように落ち着きがなく、正太郎のちょっとした物言いに激しい怒りを露わにし、かと思えば急に塞ぎこむように黙ったりした。話の内容は理解できても、暴力への衝動を抑えられない、という感じだった。



 正太郎は何度も、山を降りて館に住むよう提案した。暴力に変わる役割を与えれば、落ち着くだろうと考えたからだった。


 他の社員と同じ仕事は難しくても、例えば最初の事務所を共に作った時のように、草をむしったり重い物を運んだり、使い道はいくらでもある。だが、美作は決してそれを受け入れなかった。どうせ化物だと言われる、こんな俺と共に働きたい人間などいるはずがないと、断固として拒絶した。


 そしてある日の夜、恐れていた事が起こった。


 観光客の一人が、襲われたのである。


 男は家族連れでこの土地を訪れていたが、民宿で夕食をとった後、一人で酒を飲もうと夜の町に出てきた。十二時を過ぎても戻ってこない夫を心配した妻が、双名商店街内の駐在所に相談し、捜索の結果、商店街裏口付近の路地で、血まみれになった状態で発見された。


「命が無事だったのは幸いでした。だが、怪我はひどい。切り裂かれた左足には、一生残る後遺症が出る可能性があると医者が言っています」


 次の日の早朝、執務室で明日葉の説明を聞きながら、正太郎は怒りを覚えた。


 どうして……どうしてだい、加州雄くん……なぜ僕の言う事を聞かず、勝手な事を……。


「正太郎さん、私との約束を覚えてらっしゃいますか」


 もちろん覚えていた。だからこそ、必死になって彼を止めたのだ。それなのに……。


 黙っている正太郎を見て、明日葉はため息をついた。


「我々としても、もう美作を野放しにしておくわけにはいきません」


「ええ……わかっています」


「これは住民や観光客を守るためでもあるし、佐宗商事を守るためでもある。前回は社内の人間が被害者だったので情報統制も比較的容易でしたが、今回はそうはいかない。既に町中の噂になってますよ」


「でも……加州雄くんが犯人とは限らない」


 苦し紛れの発言だった。美作以外に、いないのだ。明日葉も正太郎の心情をわかっているのだろう、反論する野暮はしなかった。


「とにかく、美作加州雄への恐怖が蔓延する前に、逮捕せねばなりません。それが難しければ――」


 明日葉は言葉を切った。正太郎はハッとして顔を上げた。明日葉の腰につけられた、ホルスターを見る。


「まさか、明日葉さん……」


「仕方ありますまい。何しろ相手はあの、五葉の獣なんだ」


「ちょ、ちょっと待ってください。そんな事……そんな……」


「彼が警察の出頭要請に従うとは思えません。こちらから向かいますが、残念ながらあなたは美作の居場所を私たちにすら教えようとしなかった。だがこうなっては……案内してもらえますね?」


 明日葉の口調は、威圧的だった。正太郎が何を言っても、明日葉は美作を逮捕、あるいは殺害するだろう。


 正太郎は肚をくくった。仕方がないのだ。仕方がない。だが、せめて――


「わかりました。案内しましょう。ですが私が必ず彼を自首させます。まずは私に彼と話をする時間をください。少しでいい。必ず説得しますから、どうか、どうか……」



 その日の午前のうちに、正太郎を載せた警察車両が館を出発した。


 車は坂道を下り、国道に出ると、海沿いを進み、やがて右折して焼坂峠方面へと続く道路を登っていく。


 車には正太郎と明日葉の他に、五人の警官が乗り込んでいた。銃器の扱いに慣れている精鋭を集めたという事だった。明日葉はやはり、美作を殺す算段らしい。だが正太郎は、そうはさせまいと思っていた。必ず説得する。


「ここで止めてください」


「ほう、ここで?」


 明日葉が窓から外を眺める。普通の人間なら、絶対に気がつくはずのない獣道。正太郎は無言で降りると、アノラックを身につけ、草をかき分けるようにして登っていく。


「こりゃ、見つからんはずだ」


 獣道はもちろん未舗装で、スニーカーのソール越しに土や根の感触がある。急な坂道はやがて平坦になり、左手には遠く佐渡商店街が俯瞰できる。


 そのまま二十分ほど歩いたところで、正太郎は後ろを振り返り、明日葉たちに止まるよう言った。


「どうしたんです、正太郎さん」


「ここからは、僕と距離を開けてついてきてください」


「なぜです?」


 明日葉は難色を示した。正太郎は言った。


「ここから先はもう、加州雄くんの庭のようなものです。どこからどう襲われるか、わかったものじゃない。被害を最小に抑えるためにも、まずは僕だけに行かせてください。あなた方には、間を開けてついてきてもらいたい」


「わかりました。そうしましょう」


 そして正太郎は、草をかき分けてさらに脇道に入っていった。


 再度の坂。勾配はかなりきつい。ここを登り切ったところに、崩れかけた小屋と、いつも正太郎たちが過ごすあの空き地がある。


 五分ほど登り、小屋の前まで来た。振り返ると、数十メートル下に、警官たちが見える。


 唾を飲み込み、扉を開けた。汗と酒とカビが混じった、どこか懐かしさを感じさせる臭いが鼻をついた。


 床に巨大な動物が転がっていた。両手足を投げ出して眠る美作だった。身体は黒々と汚れ、髪や髭は伸び放題になっている。イビキが響く。まるで咆哮のようなイビキだ。


 正太郎は美作の寝顔を見下ろした。無垢な顔。人は恐ろしいと言うだろうが、正太郎にとっては、美作の顔はどこか美しく見えた。


 頬が自然と緩んだ。


 美作は、出会った頃から何も変わらない。


 考えてみれば、学校のプールでの出来事は、もう十年以上も前の事なのだ。その間に、正太郎を取り巻く環境は大きく様変わりした。佐宗商事の起ち上げ、双名商店街の実現――変わっていないのは、美作だけだ。


 そうか……変わったのは、僕の方なのだな……


 ふと壁に目をやると、そこには見慣れた写真が一枚、貼られている。


 佐宗商事の新社屋、館の竣工式の際に撮影された写真だ。


 この時は美作が、正太郎以外の人間の前に姿を表した数少ない機会だった。中央に正太郎と美作が肩を組んで笑っており、その背後には関係者たち――明日葉や佐宗商事の社員、そして施工を担当した金井建設の幹部などが写っている。


 後に、自分の姿を残したくはないと美作が言い出し、撮影者からフィルムごと手に入れて、一枚だけ現像した。その一枚がこれだ。


 正太郎は写真を見つめた。自分は加州雄くんが大好きだった。つらい時期を支えてくれた。誰になんと言われようと、彼は親友なのだ。


 そんな相手に対して、自分は何をしようとしているのか。


 いったい自分に何の権利があり、こんな事をしているのか。


 でも……仕方がないんだ……。


 やがて美作はゆっくりと目を開けた。そこに正太郎が立っている事に驚いた素振りも見せず、「おお正太郎」と嬉しそうに微笑んだ。


「加州雄くん、そんなに深く眠ったりして、不用心じゃないか。僕じゃなかったら、ひどい目にあっていたかもしれない」


 美作は首を振った。


「アホウ、お前だとわかっていたから眠っていたんだ。他の野郎なら、入ってきた瞬間にぶちのめしてる」


 確かにそうだという気がした。


「で、今日こそ依頼を持ってきたんだろうな? ええ?」


 拳を作り、手の平にバンバンと叩いてみせる美作を前に、正太郎は俯く。


「その事なんだけど……」


「ん? なんだ、どうした」


 美作が下から顔を覗きこんでくる。


「早く名前を教えろよ。写真も持ってきたんだろう?」


 正太郎は俯いたまま首を振った。それから、勇気を出して、言った。


「写真は持ってきていないよ。これからも、持ってくるつもりはない」


「なんだって?」


 正太郎は顔を上げた。


「ねえ加州雄くん……暴力はもう必要ない。もう、誰かを傷つけたりしなくてもいいんだ」


 それが美作のためなのだ。そうできなければ、美作は逮捕される。いや、下手をすれば、殺されてしまう。


 重要なのは、美作に暴力以外の道を示してやる事だ。これまでとは違う、生きる道を示してやる事だ。


「やっぱり館に住んで、僕を手伝ってくれないか。暴力じゃなく、別の方法で」


「別の方法? なんだそれは」


「だから……加州雄くんの力が活かされるような、何かさ。別に道を限定する必要はない。何かをやってみて、気に入ったらそれを続けて、気に入らなければ、別の何かを――」


 美作は眉間にシワを寄せた。


「そんなのは嫌だと何度も言ったじゃねえか。俺が力を貸してやるって言っただろ」


「もちろん、これからも貸して欲しい。だけど……だけど暴力じゃなく、別の形で手伝って欲しいんだよ。僕はもうこれ以上、キミが暴れるのを見たくはないんだ」


 だが、美作は納得しなかった。仕方なく正太郎は、先日の観光客襲撃の件で警察が動き出している事を告げた。


「ね、加州雄くん。すぐにでも自首すれば、何も問題はないんだ。いや、今後暴れないと約束し、それを守ってくれれば、逮捕だってさせないつもりさ。きっと明日葉さんだって、分かってくれる」


「明日葉? お前……」


 美作の顔に、怒りの色が灯った。


「僕らが出会った時の事を覚えている? 学校のプールで、加州雄くんは僕に服を着せてくれたじゃないか。それから僕を支え、家まで送ってくれた。キミは誰よりも優しい男だ。僕は知ってるんだ。だから、もう人を傷つけるのはやめて、僕と一緒に――」


「正太郎、もうやめろ。それ以上話すな」


 美作はそう言って目を逸らした。だが、正太郎はやめなかった。ここでしっかりと伝えておかねば、取り返しの付かない事になる。数十メートル下には拳銃を持った警官たちが待っているのだ。


「お願いだよ加州雄くん、今ここで、暴力は二度と使わないと約束してくれ。そうすれば、きっとすべてうまくいくから。僕が全部、うまくやるから」


「うるさい、正太郎」


 なおも言葉を拒絶する美作に、正太郎は苛立ちを覚えた。焦りもあり、思わず声を荒げる。


「なんで分かってくれないんだよ! 僕はキミの事を思って言ってるんだぞ。暴力はもう必要ないんだ、誰かを傷つける事でしか生きれないなんて人間として間違ってる、これからもっとまっとうに生きて――」


 言い終わらぬうちに、美作が飛びかかってきた。胸に圧倒的な体重がかけられ、逃げられない。その巨体が、がっちりと正太郎を押さえつけていた。


「おい。もう一度言ってみろ、お前、俺を誰だと思ってる」


「ぐ……加州雄……くん」


「そうだ、天下の美作加州雄様だ。お前をずっと、助けてきただろ」


「だ、だから……これからは……」


「うるさい! 俺はお前に力を貸してやると決めたんだぞ。それをなんだ、おかしな事を言いやがって」


 美作は興奮してわめき、その手が正太郎の首にかけられた。


「ちょ、ちょっと加州雄く……」


 自分にのしかかる美作の目を見て、正太郎は絶句した。その目は真っ赤だった。血走った眼球に、涙が滲んでいた。まるで棄てられた子供のような、怯えと恨みが交じり合った目。


 正太郎は脱力した。


 そして、自分の発言を早くも後悔した。


 なんという事を言ってしまったのだろう。


 首にかけられた手の力はさらに強くなった。万力で締められているようだった。苦しさが徐々に、曖昧になっていく。


 ――このまま、死ぬのだろうか。


 ――それが、これまで加州雄くんを頼ってきた自分の責任なんだろうか。


 その通りだという気もした。受け入れてしまいそうな自分がいた。


 だが、その裏側で、激しく点滅する感情があった。


 僕はまだ道半ばだ。まだまだやるべき事が残っている。商店街を、町を、もっともっと良くする使命を自分は背負っている。このまま死んでしまえば、全て途中で投げ出す事になる。どれだけ信念があっても、死んでしまえば、終わりなのだ。


 だから僕は――父親のようになるわけにはいかない。


 正太郎は美作の目を睨んだ。やめろ。僕を殺すな。やめろ。


 伝わったのか、美作の力が一瞬、緩んだ。その隙を狙って、正太郎は叫んだ。


「助けてくれ!」


 全力で叫んだ。


 美作の手がビクリと震え、硬直した。続けて叫んだ。


「助けてくれ! 誰か! 殺される!」


 美作がのけぞるように正太郎から離れた。身体が浮くような軽さを感じる。床を転がるようにして移動すると、必死に手を伸ばし扉を開け、小屋の外に飛び出した。


 見れば、拳銃を構えた警官たちがすぐそばまで近づいてきていた。


「正太郎さん、こちらに!」


 明日葉の声が響いて、正太郎は坂道を這うように坂を下り、彼らの後ろに逃れた。


 今更のように死の恐怖が襲ってきた。脳が痺れて、何も考えられない。


「美作、貴様!」


 警官の誰かが叫んで、緊張が走った。ハッとして振り返ると、坂の上、小屋の扉の前に、美作が立っていた。


 その顔を見た時に、正太郎は何かを悟った。


 美作は見た事のない無表情だった。


 ボサボサの髪の間から、穴のような黒い目が見つめていた。


「加州雄くん……」


 思わず言った。聞こえるはずもない。だが、強烈な罪悪感にそうするしかなかった。


「ごめん……あの……」


 無駄だとわかっていても、言い訳がしたかった。だが、何をどう釈明できるというのだろう。


「美作……貴様を、逮捕する」


 先頭の警官が言って、一歩足を踏み出した。


 拳銃を構えていても、警官の方が怯えているのは明白だった。そこに立っているのは五葉の獣、美作加州雄なのだ。


 警官が腰に手を回し、手錠を引き寄せた。


 その時、美作はゆらりと倒れるような動きを見せたと思うと、あっという間に小屋の壁を伝って屋根にあがり、そこから森の中に飛び込んだ。


 一瞬の出来事だった。


 気付いた時には、美作の姿はどこにもなかった。


「正太郎さん、ご無事ですか」


 明日葉がそう言って近づいて、肩に手を置いたとき、安心からかあるいは罪悪感からか、正太郎は気を失った。




 正太郎は自分の部屋のベッドで目を覚ました。


 そこが自分の部屋だという事がすぐには分からなかった。周囲には多くの医療関係者がおり、初めて見る医者が自分の顔を見下ろしていた。


「刑事さん、気が付かれました」


 医者が振り返り誰かに言う。すぐに明日葉が現れて、「よかった」とため息をついた。


 すぐに記憶が蘇った。感情の塊が喉元からせり上がった。


「明日葉さん、加州雄くんは……加州雄くんはどうなったんですか」


 言いながら既に涙が流れていた。嗚咽が漏れ、言葉が震える。


「美作は、逃げました」


 明日葉は静かに言った。


「恐らくあなたも見ていたでしょう。山の中へ逃げ去ったんです」


「それきりですか」


「ええ。部下が、追いますかと聞いてきたが、私は……追わなくていいと言いました」


「追わなくていい……なぜですか」


 明日葉の顔が歪んだ。


「私は警察という立場ながら、佐宗商事をサポートしてきた人間だ。その私にとって、美作加州雄はやはり仲間の一人……情を持ってしまったんでしょうな。だから追わなくていいと、咄嗟に言ってしまった。警察としては失格かもしれないが……いずれにせよ美作は一瞬で消えてしまいました」


 正太郎は無言で頷いた。じわりと安堵が訪れた。美作加州雄は殺されなかった。そして、美作加州雄が誰かを殺す事もなかった。その事に対する安堵だった。


「これで美作の被害が収まってくれればいいのですが。今後も町に降りてくるようなら、私たちはいよいよ対策を練らねばならない」


 明日葉はそう言って、苛立ったように頭を掻いた。


 正太郎は首を振った。


「いや、それはもう、大丈夫でしょう」


「え?」


「美作加州雄はもう、町には来ません」


「おや、なぜですか。なぜそう言い切れます」


 正太郎はカーテン越しに窓の外を見た。まだ日は出ていたが、夕刻の訪れを予感させる影が見えている。これから外は暗くなる。山には孤独が訪れる。その中で一人過ごす美作を想像し、正太郎は胸の痛みを覚えた。


「なぜでしょうね。でも、僕にはよく分かる。加州雄くんは、この町には二度と降りてこない。あの小屋にも、もう戻らないでしょう。僕と彼との関係は完全に断たれてしまいました」


 俯いた正太郎に、明日葉が声をかけた。


「正太郎さん、これでよかったんです。私たちにとっても、そして、美作加州雄にとっても」


 正太郎は顔を上げた。


「加州雄くんにとっても?」


 ええ、と明日葉は頷いた。


「彼にはもっと生きやすい場所があるのです。ここで窮屈な思いをしながら過ごすより、もっと自然に、自分らしくあれる場所で生きたほうがいい」


 正太郎は、その救いとも引導ともとれる言葉を噛み締めた。確かにそうなのかもれない。仮に美作がここに残ったのだとして、正太郎との関係を継続したのだとして、未来に彼の幸せがあったのかは疑わしい。自分が町づくりに本格的に取り組みだした時から、この別れは決まっていたのかもしれない。


「明日葉さん、僕はもう加州雄くんには会えないのでしょうか」


 自分の口から出たその言葉自体が、明らかな答えを含んでいるように思えた。それが伝わったのか、明日葉はその質問に対しては何も言わなかった。


「さ、もう少し休んだほうがいい。正太郎さん、いまは何も心配せず、とにかく眠る事です」


 正太郎は頷いて、目を閉じた。

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