雄三
「おや、早かったですね」
廊下に置かれたベンチで待っていた本宮が言った。
「ああ、まあな」
「やっぱり神経が参っているんでしょう、現実から逃げ出したいんだ」
「いや、寝たわけじゃねえよ」
「え? じゃあなんで出てきたんです」
本宮は立ち上がり、雄三と共に歩き始めた。
「なんつうか、さ」
雄三は、本宮が出て行ってからの出来事を話した。
沙織が涙を流した事、弱っている自分を雄三に見られるのが辛い、頼むから一人にしてくれと訴えた事。
「あいつが泣くなんて……」
「なるほど。彼女は多分、罪悪感を覚えているんですよ」
「はあ? なんであいつが」
「……女というのはそういうものです。大切な人に自分を捧げる事を喜びに感じる。だから、捧げるための自分が汚されてしまうと、大切な人に対して罪悪感を感じる」
本宮に女を語られるとは思わず、思わず横目で見る。堅物そうでいて、実はそうでもないのかもしれない。
だがいずれにせよ、言っている事には真実味があった。沙織の謝罪の言葉には、確かにそういうニュアンスが込められていた。
「そういうもんかな。罪悪感を感じるべきなのは、俺なのに……」
「その事ですが……」
本宮は言いかけたが、ナースステーションにたくさんの看護師達が集まっているのを見て、言葉を止めた。朝礼をしているらしい。本宮はエレベーターではなく階段の方を示し、雄三も頷いた。
二人で歩きながら話した。
「雄三さんが考えている通り、私は今回の件、同一犯の犯行だと思っています。雄三さんにとっては辛い事かもしれませんが、園田さんはやはり、金井建設を中心とした今回の事件に巻き込まれたんです」
「……ああ、俺もそうだと思う。沙織の話は、傳田の話にも通じるものがある」
「ええ、臭いの件ですね」
「ああ。だけど明日葉は何か変だったな。臭いの話を聞いて、態度が変わった」
雄三の言葉に、本宮は意味深な顔をして頷いた。一階では、業務開始に向けて様々なスタッフが慌ただしく動いていた。二人は先ほど同様に夜間通用口から外へ出ると、白い大型SUVに乗り込んだ。
本宮がエンジンを掛け、ハンドブレーキを外す。
「課長はやはり、何かを隠しているのだと思います。今までは疑いでしたが、今日の件で確信しました」
車はほとんど揺れずに発進する。まだ日は上がりきっておらず、景色は薄暗い。
「だけど、実際何を隠してるんだよ」
「それはまだ分かりません。でも、明日葉課長はまるで、今回の件は同一犯の犯行ではないとでも言いたげな様子でした。園田さんが臭いの事を言ったとき、確かに課長は態度を変えた。同一犯の可能性が示されて、動揺しているように見えました」
「けど、それは何を意味してんだよ。よく分からねえ」
「先日の尾藤雅の件では、課長は誰よりも先に同一犯の犯行だと言いました。一報が入り、詳しい状況が入る前に、これは絶対に同じ犯人がやったんだと言っていたんです」
「……まあ、今思えばそう考えるのが自然だろうよ。俺の仲間なんだし」
「おかしいじゃないですか。今日襲われたのは、仲間どころじゃない、あなたの恋人なんですよ。普通なら、尾藤のときと同じく、同一犯による犯行だと判断するのが自然だ。それなのに課長はなぜか、それを認めたくない様子だ。園田沙織の件は、一連の事件とは関係がないと知っているような反応だ」
「知っている? おいおい、どういう事だよ」
「明日葉課長は、犯人と繋がっているのかもしれない」
助手席の雄三は思わず本宮の顔を見た。微かに影の落ちた表情で真っ直ぐ前を睨んでいる。重苦しい熱意が感じられ、思わず視線を戻した。
車は駐車場を出て、五葉港と大正市場の間の道を進んでいく。暗がりの中で点滅する信号機が見える。霧が出ているのか、黄色い光の輪郭が滲んで見える。
「俺も、一度はそう考えたんだよ」
「え?」
「いや、ちょっと違うな。犯人と繋がっているとはまで言わねえが、ただ、警察は犯人をわざと逮捕してねえんじゃねえかって思ったんだ。ずっと二人三脚でやってきた警察と金井建設だが、いろいろ不満もあったんだろう。だから今回の、金井建設を潰そうとしてる犯人を、どこかで歓迎してるんじゃねえかって」
「なるほど、そうですね。確かにそういう見方もできるかもしれない」
車は海沿いの国道に出た。反対車線には意外と多くの車が走っている。港湾関係者か、あるいは商店街の者たちか。
「けど、知ってるだろ、明日葉はもう定年間近で、警察を辞めた後はウチに来る事になってる。相談役だか顧問だか、とにかく、悪い待遇じゃねえだろう。明日葉にとっちゃ、ウチは大切な再就職先なんだよ。そんな会社がマトにかけられて、黙ってるはずがねえ」
沙織との話を思い出しながら、雄三は言った。あらためて、これ以上ないほど明確な理由だと思った。
だが、本宮は表情を変えなかった。
「雄三さん、あなたは警察を甘く見過ぎです」
「え?」
「いや、警察というより、あの明日葉忠男という男を、です。あなたは外の人間だからわからないかもしれないが、五葉署における明日葉さんは、立場こそ刑事課長だが、実際には署長以上の権力を持っていると言っていい。五葉町の警察は、言うなればあの人の下にあるんですよ。そして私の印象では、その力はあなたのお父様、つまり金井建設の社長をも凌ぐものだ」
「ウチを凌ぐ? まさか、そんなわけ――」
「考えてみてください」
本宮は雄三の言葉を遮って、早口に言った。
「金井建設がどれだけ金を持っていようが、どれだけ大きな事業をしていようが、警察によって取り締まられてしまえば元も子もありません。あなた方の側から見れば、金井建設が警察を懐柔しうまくコントロールしているように見えるかもしれないが、実際のところは、警察が力を貸してあげているからこそ金井建設は金井建設として存在できるんだ。警察が反旗を翻せば、困るのは金井建設なんです。五葉町がどれだけ閉鎖的で独自の考えを持つ町だとしても、そして、金井建設がこの町においてどれだけの存在感を持っているとしても、警察というのは国の機関です。国に地方の一企業が適うわけないでしょう」
本宮が淡々と言うその言葉を、雄三は苦労しながら飲み込んだ。衝撃だった。雄三はずっと警察を、金井建設を支える存在として、あくまで下の存在として、考えていた。他の企業や住人と同様、警察も金井建設を恐れ敬い、常に顔色を伺ってくるものだと。
本宮の言葉は、痛かった。それまで自分を支えていた何かに、いくつものヒビが入ったような感じだった。大切な何かが、壊れてしまう。そんな不安が押し寄せてきて、息が苦しくなる。
だが一方で、それをこのまま破壊したいとも思うのだった。何より、本宮がそこまで話してくれた事に、喜びを感じてもいた。誰もが恐れ、気を遣う金井雄三に、面と向かって、こんな事を言ってくれる人間はいなかった。雄三は本宮の迷いのない眼差し、顔に満ちる正義心に、頼もしさのようなものを感じた。
無言になった雄三に気付いたのか、とはいえ、と本宮は続けた。
「とはいえ、金井建設が五葉町の多くの事業に関わっている事も、また事実だ。今や町いちばんの産業となりつつある観光業も、金井建設の力なくして成り立たない。そういう意味で、警察が金井建設に気を遣っている面は確かにあるんでしょう。金井建設に対して警察が甘い対応、いや、ほんとんど法律も無視するような特別措置をとっているのも、ご存知の通りです。そしてあなたの言う通り、明日葉課長が金井建設を潰すメリットもない」
車は海沿いを走り、やがて右折し、金井建設社屋へと続く坂道に入った。それまでほとんどエンジン音を感じなかった車が、勾配のきつい上り坂にさすがにうなり声を上げる。
「とにかく、この事件はまだわからないことだらけです。犯人へと繋がる有力な情報は得られていないし、明日葉課長の件もある。課長がなぜ園田さんの件を同一犯の犯行だと思いたくないのか」
「ああ、そうだな」
雄三は頷いた。
「とにかく私は捜査を続けます。特に、傳田部長の件は早急に調べます。なにか分かったらすぐにお伝えしますから」
「ああ、頼む」
車が玄関前に止まり、雄三は車のドアノブに手をかけた。そして本宮を見て、言った。
「もし明日葉が犯人と繋がっていたとして、警察がクロだったとして、あんたはどっちの味方につくんだ?」
本宮は微かに頬を紅潮させ、目を見開いた。
「決まっているでしょう。バカにしないでください」
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