雄三

 五葉総合病院は五年ほど前にできた五葉町最大の総合病院で、その開発から施工、運営、メンテナンスに至るまで金井グループの企業が深く関わっている。


 五葉町の住人は、ちょっとした風邪や怪我なら近所の町医者に行くが、少しでも深刻な状況になれば必ず五葉総合病院を頼る。大きな入院病棟があるのも、ここだけだった。


 館の坂を下りて国道に出る。本格的な冬の到来を前に、日は既に短くなり、周囲は真っ暗だった。


 沙織の事を心配するあまり無言になる雄三に、本宮は励ましの言葉をかけ続けた。


「大丈夫です、雄三さん。身体的な傷は大した事はない。心の傷は、あなたがゆっくり癒してあげればいいんだ」


 本宮は熱のこもった口調で言った。その迷いない言葉に素直に感動し、思わず涙が出そうになる。


「さあ雄三さん、もう到着します」


 言われて顔を上げると、ちょうど五葉港が右手に見え、左手には大正市場の表門があった。それらに挟まれるようにして、十階建ての白いビルが見えてくる。


 かなり大きな建物だ。そうか、と雄三は思った。尾藤を含め、今回の事件の被害者たちが入院しているのも五葉総合病院なのだ。石神らが見舞いに行こうと雄三に言ったのも、ここだった。


 尾藤の事を思い出し、気分が沈んだ。


 仲間が殺されかけても来なかったのに、女が襲われれば飛んでくるんだな。


 そう尾藤に言われている気がした。


 当然面会時間外なので、表の駐車場は閉鎖されていた。本宮は慣れた様子で病院裏手にある従業員用の駐車場に回ると、空いていたスペースに車を停めた。


「さあ、行きましょう」


 二人は小走りに建物に近づいた。夜間用通用口を抜けると、受付にいた老警備員が顔を上げた。驚いた表情でイスから腰を浮かせたが、本宮が警察手帳を見せ、「明日葉の部下です」と言うと、どう納得したのか深く頷いた。


 本宮に先導されるまま、三階の入院病棟にあがり、薄暗いナースステーションを横目に廊下を駆けた。患者たちはまだ眠っているのだろうか、周囲はひっそりとしている。リノリウムの床に本宮と雄三の足音が、小さく反響する。


「ここです」


 本宮は表札のない個室の扉の前で言うと、迷う事なくノックをした。硬い、乾いた音。返事はなかったが、本宮は雄三を振り返って頷くと、扉を開けた。


 沙織はベッドの中にいた。


 眠っていたのだろうか、ノックか扉を開ける音を聞いて目を開けたという感じで、視線が落ち着かない。頭には包帯が巻かれ、左の頬には大きなガーゼが貼られている。


「沙織……」


 声をかけると、うつろだった目に光が宿った。


「あ……」


「沙織、大丈夫か」


 大丈夫なはずがない、そう思いながら、ほかにかける言葉が浮かばなかった。沙織は雄三から視線を外し、苦痛を感じるように、口を固く結んでいた。今にも震えだしそうな、圧倒的な恐怖の前にやっと自分を保っているような、危うい雰囲気だった。


 雄三はふらつきながら、ベッドに近づいた。沙織はそれを嫌がるように、布団の端を引き寄せて、顔を逸らした。そして一言、「ごめんね」と呟いた。


「ごめんって、お前……お前は何も悪くねえじゃねえか!」


 雄三は声を荒らげた。沙織がビクリと震えて、布団の中に顔を隠した。


 犯人への怒りで頭がどうにかなりそうだった。なぜ襲われた側の沙織が、被害者である沙織が、謝ったりしなければならないのか。


「殺してやる……どこのどいつだ……絶対に殺してやる……おい!」


 扉の脇に立っていた本宮に言った。


「すぐに犯人を見つけろ。俺が殺してやる」


「雄三さん、落ち着いてください」


「ああ? 落ち着けだと? 落ち着けって言ったのかお前」


 大股で本宮の前までいくと、ネクタイを掴んで引き寄せた。本宮は両手を上げ、「ちょ、ちょっと雄三さん」と慌てる。


「この状況で落ち着いていられるような奴は、クズだ。そうだろ?」


「え……ええ、心中はお察ししますが、ここは病院ですし」


「関係ねえだろうが!」


 自分の言葉がめちゃくちゃなのは分かっていた。だが、怒りはみるみる巨大化し、自分を押しつぶそうとしてくる。そして次の瞬間、怒りはそのままの大きさで、罪悪感に姿を変える。走馬灯のように、ある記憶がよぎる。


 ……いいですか坊ちゃん、尾藤は、あなたのせいで襲われたんだ……


 ……あなたのせいで、襲われたんだ……


 ……あなたのせいで……


「沙織っ」


 雄三は本宮から乱暴に手を離し、大きく息を吸った。沙織を振り返る。


「どんな奴だった。犯人は、どんな奴だったんだ」


 沙織は布団から顔を出し、困ったような表情で、雄三と本宮とを見比べる。


「園田さん、話してください。私たち警察も、犯人逮捕に全力で臨みますから」


 数秒の間があって、「わかった」と沙織が頷いた。


 その時――


 誰かが廊下を駆けてくる音がした。それはすぐに大きくなり、扉の前で止まった。雄三と共に、本宮も振り向いた。扉が開く。


「あっ」


 沙織以外の三人が同じ声を出した。


「なんで……」


 明日葉はそう言って、眉間にシワを寄せた。


「本宮……坊っちゃんまで」


 明日葉は珍しく慌てた様子で、肩で息をしている。足音からすると、走ってきたのだろう。沙織が襲われたという話を聞いて飛んできたのだ。


「私がお連れしたんです。園田さんの関係者として」


「関係者?」


 本宮は頷いて、それ以上は言わなかった。明日葉は目を細めた。そのまま値踏みするように本宮を見つめていたが、やがて首を振ると、雄三と本宮の間を割るように進み、ベッド脇に置かれていた見舞客用の丸椅子に腰を下ろした。


「ちょっと失礼しますよ」


 そして慣れた手つきで内ポケットから手帳を出して沙織に見せる。


「五葉署の明日葉ってもんです。ちょっと話を聞かせてください」


 沙織が不安そうに本宮を見た。その視線を追って、雄三も本宮の方を向く。明日葉がやってくるとは予想していなかったのか、その顔には驚きが滲んでいる。


「それでお嬢さん、いったい何があったんですか?」


 明日葉はハンカチで汗を拭きながら言った。まだ息は荒く、肩が上下している。沙織が戸惑った表情で黙っていると、本宮が一歩踏み出して言った。


「何者かに、性的暴行を受けたんです。園田さんはドライブイン近くに一人で住まわれていまして……ああ、焼坂やきさか峠のドライブインですが」


 明日葉がゆっくりと振り返って、本宮を睨んだ。


「お前には聞いていないんだよ。私は、お嬢さんに質問してるんだ」


「で、ですが……園田さんはまだショック状態で……」


 明日葉はその言葉を無視して沙織に向き直ると、「さあお嬢さん、話してください」と、先ほどより強い口調で言った。沙織は目を伏せて、微かに頷くと、上半身を起こした。


 布団から出た沙織の身体は、いつも以上に細く、頼りなく見えた。病院から支給されたものか、薄いピンク色のパジャマを着ている。首元にもいくつか絆創膏が見えた。顔色は悪く、目はうつろだ。


 雄三は思わず視線を落とした。見ていられなかった。


「夜七時半頃、バイトを終えて家に帰りました。少し具合が悪くて……眠ってしまって……」


 沙織が話し始めて、本宮はノートを取り出す。挟んである小さな鉛筆で素早くメモをする。


「具合が悪くて、眠ってしまった――。ふむ、それで?」


「……目が覚めたら、夜中でした。眠る前より、だいぶ楽になっていて、少し、食欲が出てきて」


「はい、なるほど」


「自分で料理をするのは億劫で、だから、ドライブインに行こうと思ったんです」


「ん? ちょっと待って。なんでドライブインに行くんですか? 営業は終わってるでしょう」


「自動販売機があるんです。あの……飲み物じゃなくて、食品もあって。パンとか、お菓子とか、あとはカップラーメンなんかの」


「ああ、はいはい。なるほど。で、どうやって行ったんです?」


「いつもは自転車で行くんですが、まだ少しフラつく感じがあったから、歩いていきました。すごく寒くて」


「なるほど、それで」


「パンを二つと、スポーツドリンクを買いました」


「パンを二つと、スポーツドリンクを。はい、それで」


「それで……家に帰ろうと」


 沙織が俯いて、言葉を切った。ノートに目を落としていた明日葉が顔を上げ、「それで?」と促す。


「家の近くで、突然……何かがぶつかってきて……すごい衝撃があって……気がついたら私は森の中で倒れていて」


「森の中、というのは」


「道路脇の、木の間です。微かに街灯の光が見えたから、道路からはそう遠くなかったと思います」


「思います、という事は、確かではない?」


「痛みと恐怖で、頭がまわらなくて、何が起こっているのか、よく……」


 そりゃそうだ、雄三は思った。そんな状況で冷静でいられるはずもない。だが、明日葉は不機嫌な様子で何事かをノートに書きなぐっている。


 その手がふと止まった。


 病室の中に、緊張感のある沈黙が降りた。


 明日葉はノートから顔を上げて、じっとりとした口調で言った。


「あなた、犯人の顔を、見ましたか?」


 沙織は少し考えて、首を振った。


「見てない? これっぽっちも?」


 明日葉が念を押した。沙織は俯いて、頷いた。


「暗かったし、それに、見たくもなかった」


 その言葉を聞いた明日葉が、すっと肩の力を抜いたように雄三には見えた。何か嫌な感じがして本宮を見ると、本宮も眉間にシワを寄せていた。


「そうですか、わかりました。今日のところはお疲れでしょうから、続きはまた後日」


 明日葉はあっさりと言うと、ノートを閉じ、立ち上がった。最初のがっつくような態度が嘘のようだった。


「何か、何かねえのか」


 堪らず雄三は言った。


「顔は見えなくても、服装とか、髪型とか、何か覚えてねえのか」


「そうです園田さん、なんでもいい、お辛いでしょうが、思い出してください」


 雄三に本宮が同意して、まくしたてた。振り返った明日葉はいつもの仏顔で首を振り、「まあまあ二人とも、落ち着きなさい」と両手を上げた。


「沙織、おい」


「わからない……暗くて……寒くて……あ、でも……」


「でも?」


「臭いがしたわ」


「え?」


「犯人は、すごく臭かった。嫌な臭いがした」


「ど、どんな臭いだ」


 雄三が先を促した。沙織は顔を歪め、目を閉じた。


「動物みたいな臭い。生臭いっていうか、汗臭いっていうか……」


 その言葉を聞いて、雄三と本宮は思わず顔を見合わせた。


 臭い。


 見えない犯人への道をつなぐ、一つの共通点。


「それ、ホームレスみたいな臭いか」


 雄三が言うと、沙織は頷いた。明日葉が肩越しに振り返る。


「坊っちゃん、なぜ分かるんです?」


「清掃員が襲われたとき、俺も嗅いだんだ。血の臭いだと思っていたが、ホームレスの臭いに似てた」


「という事はやはり……今回の事件も……」


 本宮の言葉を、雄三が継いだ。


「ああ、同一犯だ」


 明日葉はそれを無言で聞いていたが、やがて振り返り、沙織を見下ろした。


「お嬢さん、間違いありませんか? 本当に、そんな臭いがしたんですね?」


「……ええ。間違いありません」


 沙織が迷いなく言うと、明日葉は微かにため息をついた。


 それから弾かれたように振り返り、ずかずかと病室を横切ると、本宮や雄三には一瞥もくれずに出て行った。


 雄三は、明日葉の出て行った扉をしばらく呆然と見つめていたが、やがてハッとしてベッドに駆け寄ると、それまで明日葉の座っていた丸イスに腰を下ろして沙織の手を取った。


 ショックが落ち着く間もなく慣れない取り調べを受け、精神は混乱の中にいるだろう。華奢な手がより小さく、頼りなく感じる。だが、そこには確かな体温も感じられ、沙織が今でも生きている事を実感する。


「よかった。死んじまわなくて。よかった……」


 本宮がいる事も忘れ、本音を漏らした。思わず熱いものがこみ上げてきて、歯を食いしばる。


「ゴメンね……ゴメン……」


 なおも謝ってくる沙織に、何も言う事ができなかった。


「じゃあ、私は外で待っています。彼女が眠るまで、ついていてあげてください」


 やがて本宮がそう言って、病室を出ていった。

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