雄三

 その日は久しぶりに家で過ごした。


 ベッドに横になり、頭に浮かぶ様々な事をぼんやりと眺めた。沙織や本宮と話をして、身の回りの出来事が少し整頓されたように感じる。事件の事、仲間との事、父親の事。それらは別々のもののようでいて、ある部分では繋がっている。


 本宮はすぐに動くだろう。雄三の渡した情報を頼りに、独自の捜査を始めるに違いない。馬鹿正直な性格なのが少し心配だが、雄三は、本宮に事情を話すという行為を通じて、自分自身が最初の一歩を踏み出したように感じた。


 本宮に話した事が、正しかったのか間違っていたのかはわからない。だが、後悔はなかった。


 夜八時過ぎ、部屋を出て廊下を進み、社長室の前に立った。


 薬で眠らされた父親の姿が浮かんだ。だが不思議な事に、そのイメージにいつもの嫌悪感を覚える事はなかった。ただ、父親が今どういう状態なのか確認したい。そして、話せる状態なのであれば、聞きたい事があった。


 肩越しに捜査本部を振り返ったが、数名の警官がブラウン管に向き合って作業しているだけで、明日葉や本宮の姿は見えない。雄三がここにいる事にも、気付いていないようだった。


 なるべく音をたてないように、ノブを回した。扉の隙間に身体を滑り込ませ、素早く室内に入る。


 暖色の間接照明のみがつけられた暗い執務室の向こうに、蛍光灯の灯る明るい一角が見えている。カーテンで囲まれた丈三の生活スペース。カーテンは薄く、中の様子がうっすらと透けて見える。ベッドの輪郭。背もたれが降ろされているせいで、丈三の姿は確認できない。


 雄三はしばらくそこに立っていた。暗い客席から、明るい舞台を見ているようだった。


 大きく息を吸い、ゆっくりと吐いた。床に敷かれた大理石から、冷たい空気が立ち上ってくる。こんな寒い場所にいて、父親は大丈夫なのだろうか。


 ゆっくりと近づいていった。徐々にカーテンの向こうの景色が明らかになっていく。ベッドの布団が、人の形に盛り上がっていた。枕と掛け布団の隙間に、束になった灰色の長髪が見えている。髪は力なく、垂れていた。


 眠っているのだろう、息継ぎに合わせて布団が上下する。サイドテーブルの上には、いくつかの薬袋と水の入ったコップが置かれている。薬によって強制的に眠らされているのだと思うと、微かに、父親に対する同情心のようなものが湧いた。


 父親は、どういう気持ちで毎日を暮らしていたのだろう。


 金も権力も充分にあっただろう。だが、それだけで人生すべてがうまくいくわけではない。金で買えないもの、権力では手に入らないものも、必ずあったはずだ。


 例えば、と雄三は考えた。


 例えば、息子との関係とか――


 雄三はそして、思い出した。夜遅くに、部屋を訪ねてきたあの時の事だ。


 これは、復讐だ。今度は俺が、殺されるのだ。


 ずっと引っかかっていた。だが、何が気になるのかも、よく分からなかった。


 だが、今はあの時よりも、分かる気がする。詳しい事情を知っているわけではないが、今回の事件がただの通り魔事件ではない事を、雄三自身が実感しつつある。傳田の話を聞いた上で考えてみれば、父のその言葉がなぜ引っかかっていたのか、分かってくる。


 父親も、犯人の事を知っているのではないか。


 それだけじゃない、その動機にも、心あたりがあるのだ。


「今度は、って、何だよ。今度はって。おい……」


 今度は俺が殺される。その表現は、今の雄三にはこの上なく不吉なものに感じられる。今度は、という事は、があったのだ。言葉通りに受け取るなら、以前、父親が誰かを――


 その真意を聞きたくてここに来たのだろうか。


 いや、違う、と雄三は思った。


 本当は、その推測を否定してもらいたいという気持ちでここに来たのだ。


 ただの酔っ払いの戯言だったと、何の根拠もない思いつきの言葉だったと言ってほしかった。


 だが――


 雄三はベッドの上の、死体のような父親を見つめた。


 二人の間にあるカーテンが、自分と父親との埋められない距離を表している気がした。手を伸ばしかけて、止める。


 もう、遅い。過ぎていってしまった事が、多すぎる。


 雄三は父親から視線を外した。俯いて振り返り、冷ややかな大理石の上を出口に向かって歩いていった。





 物音に目を覚ましたのは、まだ日の登っていない朝五時過ぎの事だった。


 ひどく冷える朝で、雄三は布団を引き寄せて中に潜った。まだ眠りたかった。


 だが、物音はやがて具体的な輪郭を得て、やがてノックの音に変わった。ゴンッゴンッと、強く慌てた感じで扉が叩かれている。意識をそちらに向ければ、ノックの合間に、誰かの話し声が聞こえる気がする。


「何だよ……誰だ……」


 雄三は苛立ちながらベッドから出ると、よろけながら扉に近づき、開けた。


 そこにいたのは、本宮だった。ぼやけていた視界が一気に解像度を増す。


「ああ、雄三さん、すみません」


「どうしたんだ、こんな時間に」


 雄三が聞くと、本宮は微かに躊躇した様子を見せた。


「何だよ、傳田の事で何かわかったのか?」


「いえ、そうじゃありません」


 本宮はそしてポケットから手帳を取り出し、何かを確認して、言った。


「雄三さん、園田沙織という女性をご存知ですか?」


 聞いた途端、身体が凍るように固まった。目が勝手に見開かれた。


「あ、ああ……知ってるが、どうした」


「襲われました」


 ハッとして言葉を失った。


 その言葉を、頭が拒否しているのが分かる。


「おい、嘘だろ?」


 本宮は雄三から視線を外し、申し訳なさそうに言った。


「二時間ほど前、焼坂峠のドライブイン近くで何者かに襲われたんです。そのまま森に連れ込まれて……性的暴行を」


「性的……暴行……?」


 繰り返す雄三に、本宮は顔を上げ、「レイプされたという事です」と言った。


 一瞬、気が遠くなった。顎を殴られたように平衡感覚がおかしくなり、思わず壁に寄りかかる。


「雄三さん、しっかりしてください」


 本宮が雄三の腕を取り支えた。


「それで、それで沙織は」


 泣きそうになりながら聞いた。


「命に別状はありません。襲われた際に軽傷を負ってはいますが、かすり傷です」


「沙織はいまどこにいるんだ」


「五葉総合病院です、行きますか?」


 雄三は頷いて、寝間着の上に革ジャンを羽織ると、小走りに部屋を出た。本宮について廊下を進み、階下に降りる。誰もいない金井建設の事務所の前を通り、表玄関へ。


「さあ、こっちです」


 扉を出ると、そこに一台の大型車が停まっていた。白いボディの、厳ついSUVだ。


「乗ってください」


 本宮は助手席の扉を開け、雄三を促した。一瞬、本宮のキャラと車種とのギャップに違和感を覚えたが、「さあ、早く」と急かされると、沙織の事で頭がいっぱいになった。

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