雄三

 沙織と話した事で、心持ちは多少軽くなっていた。だが、一人になればネガティブなイメージがじわじわと侵食してくる。ベッドに転がると、頭の後ろで腕を組み、天井を見上げた。一般住宅ではまず考えられない、高い天井。視界の端にカート・コバーンとシド・ヴィシャスのポスターが見えている。


 ポケットからタバコを取り出し、火をつける。薬臭いセブンスター独特のにおい。メンソール入りでもないのになぜか冷たく感じるその煙を、雄三は深く吸い込んだ。


 自分が今何を考え、どう行動すべきか、雄三には分からなかった。


 ゴロリと横になると、床の上に直に置かれた灰皿に手を伸ばし、引き寄せる。


「クソ……」


 悪態が漏れたが、そのトーンに微かな変化が出ているのに、雄三自身が気付いた。


 雄三は、考えようとしていた。


 父親がいよいよ深刻な状況になり、傳田もどこかおかしくなっている今、自分はもしかしたら重要な役目を担っているのかもしれない。


 ――あなたがしっかりしなくては、金井建設は本当に破滅させられてしまう。


 頭の中で傳田の言葉が響いた。だが、どうしろというのか。


 雄三は散らかった部屋を眺め、嫌な気分になった。まるで子どもの部屋だ。重要な役目など担えるようには思えない。


「クソっ」


 雄三はベッドから跳ね起きると、灰皿でタバコをもみ消した。そして立ち上がり、目を閉じた。


 どうすればいい。


 俺は、何をすればいい。


 沙織の顔に続いて、父親の顔、傳田の顔、そして石神や尾藤の顔が浮かんだ。そして明日葉の嫌な顔。何を考えているのかわからぬ不気味な顔。明日葉の隣に、すっと影が立つ。影は徐々に濃くハッキリし、それが本宮だとわかる。


 その口が動く。


 雄三さん、やっぱりあなたは知るべきだ。


 雄三は目を開いた。




 本宮は捜査本部にいた。


 他にも五人程の警官が詰めていたが、本宮は彼らとは距離を置くように、隅の机で熱心に何かを読んでいた。警官の一人が扉の前で立つ雄三に気づき、怪訝そうに会釈をする。


「あの、どうかされましたか?」


 その声に顔を上げた本宮に、ちょっと出てきてくれと顎をしゃくる。本宮は驚いた顔をして、左右を見回すようにしながら立ち上がり、近づいてきた。


「雄三さん、どうしたんですか」


「ちょっと、いいか? 話がしたいんだ」


「え? ええ、もちろんいいですが……」


「俺の部屋に来てくれ」


 二人で黙って廊下を進み、突き当たりにある雄三の部屋に入った。


「こりゃまた……」


 荒れた室内を見た本宮が独りごとのように言う。


「散らかってるが、まあ入れよ」


「そういう言葉は、普通は謙遜で使うんですけどね」


 本宮の冗談に、部屋の中頃まで進んでいた雄三は思わず立ち止まり、振り返った。本宮はまるでモデルルームにでも来たように、腕を後ろに組み、部屋を見回している。


「うるせえな、いいから座れよ」


 笑いながら言うと、本宮も微笑んで頷き、雄三の示したソファに腰を下ろした。


「それで、話というのは?」


 本宮はもう真顔になっていた。いつもの正義感が顔に現れている。


「いいか、ここでの話は他言無用だぜ」


「もちろんです。それで?」


「ああ……あんた、傳田って知ってるか」


「傳田部長のことですか? もちろんです」


「面識は?」


「館内で数回顔を合わせた程度で……あ、一度あります。一週間ほど前の早朝、傳田部長が捜査本部の前を通りかかられて。ほんの一言二言ですが、お話させていただきました」


「あんたが刑事だって事は解ってるんだな」


「ええ……恐らく。私は捜査本部の中にいましたし、少なくとも警察関係者だという事はご存知かと」


「そうか」


「傳田部長がどうかしたのですか?」


 雄三は迷った。だが、自分を射抜くように見つめる本宮の顔を見て、決心した。


「あいつ、多分、犯人が誰なのか解ってる」


「えっ?」


 驚いて絶句する本宮に、先ほどの出来事を話して聞かせた。


 本宮は顎に手をやり、唸った。


「確かに、犯人を知ってるような口ぶりですね。雄三さんはそのとき聞かなかったんですか、犯人は誰なんだって」


「もちろん聞いたよ。だが、頑なに教えねえ。真っ青な顔をして、首を振るだけだ」


「ふうむ。しかし、何らかの心当たりがあるのは間違いなさそうですね」


「ああ。だから、あんたにこうして話してる」


「え?」


「え、じゃねえよ。あんた刑事なんだろ。傳田を捕まえて吐かせりゃいいじゃねえか」


 雄三は言いながらタバコをくわえ、火をつけた。ニコチンが欲しかったわけではない。ただ、気恥ずかしくて手が動いたという感じだった。


「雄三さん……」


「傳田は頑固者だから、簡単にとはいかねえだろうが、相手が警察なら対応も違うだろ」


 本宮は軽く首を傾げ、目を細める。


「でも、なぜです? なぜ課長じゃなく、私に言ってくださったんですか?」


「そりゃ……」


 雄三は吸っていたタバコを灰皿に押し付けた。微かな緊張が押し寄せた。沙織との話の中で、警察が犯人に加担しているかもしれない、という雄三の仮説は否定されたはずだった。だが、それは明日葉が定年後金井建設の役員になるという話からの推測に過ぎない。


 だが、雄三は本宮を選んだ。明日葉ではなく、本宮を選んだ。


「分かるだろ? 明日葉はなんかヤバイ感じがする。何を考えているのか分からねえ」


「なるほど。了解です」


 本宮は神妙な顔で頷いた。その反応には、本宮が今でも明日葉に対して違和感を持っている事を示していた。


「なるほど」


 本宮は独り事のように繰り返すと、顎に手をやり、雄三から視線を外して何かを呟いた。これから自分がどう動くかをシミュレーションしているのかもしれない。


「雄三さん、傳田部長の事、確かに私が預かりました。私が独自に動いて、探りをかけてみます。ところで傳田部長には何か弱点はありませんか」


「弱点?」


「傳田部長が相手です。取り調べには何らかの交渉が含まれるかもしれない。私のような若造を信頼してもらうには、ある程度ズルい事もしなければなりません」


「あ、ああ、そうだよな」


 確かに、傳田が本宮の質問に素直に答えるとも思えなかった。それだけではない。やり方を間違えれば、傳田の勝手な動きを明日葉に伝える可能性もある。


 雄三は記憶を探った。雄三に対しては常に下手に出る傳田も、表の顔は金井建設の営業部長だ。目的のためには手段を選ばず物事を進める恐ろしい男として知られている。藤城のような、分かりやすい荒々しさはないが、冷静な殺し屋のような雰囲気を持っている。


 そんな傳田が、唯一抱える弱点。


 雄三は顔を上げた。


「――馬場可奈子ばばかなこって女がいる」


 雄三が言うと、本宮は胸ポケットから小さな手帳を取り出した。小さな鉛筆で名前を書き込む。


「……その方は?」


「知的障害者だ。今は旧市街の方の施設で暮らしてる。傳田の親戚か何からしくて、奴が面倒を見てるらしい」


「なるほど。何か問題が?」


「傳田はその可奈子って女にやけにこだわってる。施設から連絡があれば、仕事中だろうが飛んでいくって話だ」


「ほう、それで」


「前にその事を社員がからかった事があったらしい。あるいは、その女の事になると人間の変わっちまう事に、注意をしたのかもしれねえ」


「で、どうなったんです?」


「その社員は皆の見てる前で半殺しの目にあった。藤城が必死に止めて、なんとかなったらしいが」


 本宮は唸った。それからまた手帳にボールペンを走らせ、雄三を見る。


「傳田部長はなぜ、それほど馬場可奈子にこだわるんでしょう」


 雄三は首を振った。


「さあな。愛人だとか実は妻なんだとか、可奈子の親父に恩があるとか、いろいろ噂はあるが、傳田が何も話さないから、本当のところは分からねえ。社内でもその話はずっとタブー扱いになってるはずだ。だがいずれにせよ――」


「弱点である事に違いない、か」


「ああ」


「馬場可奈子が入ってるっていう施設、分かりますか」


 本宮は手帳の合間から五葉町の地図を取り出した。雄三は頷いてそのだいたいの場所を示した。


「旧市街ですね」


「ああ、爺婆しか住んでねえ、棄てられた土地さ」


 本宮は頷くと、立ち上がった。


「雄三さん、話せてよかった。また何か分かったら、お知らせしますから」


「おい」


 急いで扉に向かって歩いていく本宮の背中に、思わず声をかけた。


「はっ、なんでしょう」


「気をつけろ。油断するなよ」


 振り返った本宮は、微笑みを浮かべ、「わかっています」と強く頷いてみせた。

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