雄三
二階に上がると、廊下を大股で歩いて社長室まで行った。ノブを握ると、ノックもせず開ける。
執務室と生活スペースを分けるカーテンを透かして、馴染みの老医師と数名の看護婦が見えた。彼らはベッドを囲むように立っており、その体に遮られて父の姿は見えない。
迷いながらも、足を進めた。その足音に気付いた看護師が振り返り、医師に何かを耳打ちした。老医師は頷いて立ち上がり、カーテンを開けて雄三を招いた。口元に一本指を立て、静かにしろというジェスチャーをする。
「先ほどまでひどく興奮されていたんだが、やっと休まれました」
見れば確かに、父親はベッドの上で眠っていた。鎮静剤や睡眠薬を飲んだのかもしれない。頬は白く粉が吹いていて、汗なのか何なのか、生々しいにおいがする。
「親父……どういう状態なんだ?」
雄三が聞くと、老医師は困ったように目を落とした。
「今回の一連の事件の事で、精神的なショックを受けられています。そのダメージが肉体にも悪影響を及ぼしているんでしょう。肝臓の事もあるし、あまりよくない状況である事は確かです」
「死ぬのか?」
雄三の言葉に、看護婦たちが驚いた表情を見せた。
「いや、そういうわけではないんだが」
老医師はそう言ったが、やがて小さくため息をついて、カーテンの中から出てきた。雄三の隣に立ち、耳打ちするように顔を近づける。
「父上はもしかすると、自殺を企てる可能性があります」
「はあ? 自殺?」
「そう。あくまで可能性として、ですが。だから今後は少し強めの薬を使って、精神をできるだけ休ませる治療に専念していった方がいいと思います。父上が突発的な行動に出ないよう、皆で注意していく必要がある。幸い警察の方もいらっしゃるし、事件が解決するまではある種の監視下に置かせてもらって――」
堅物そうな老医師の説明が、だんだんと遠ざかっていく。
自殺? 監視下?
一体、何を言っているのか。
俺の親父を誰だと思ってる。五葉町を支配する、金井建設の社長、金井丈三だぞ。望めばどんなものでも手に入り、実際、そうしてきた。こいつらは五葉町の「王」を、薬や監視でコントロールしようというのだろうか。
その時、背後で扉の開く音がして、雄三は振り返った。
「おや、これは驚いた」
明日葉だった。言葉とは裏腹に、いつも通りの表情をして近づいてくると、雄三を品定めするように視線を上下に移動させる。
「さすがの坊っちゃんも、父上が心配ですか」
隣に立ち、言う。雄三が黙ると、明日葉はふっと笑いを漏らし、老医師の方を見た。
「先生、いかがですか。さっきまではひどく騒がしかったが」
「やっと眠られましたよ。強い薬を使いましたから、しばらくは目を覚まさんでしょう」
「そうですか。まあ、起きていても心労が溜まるだけですものなあ。眠っていた方が本人もラクだろう」
明日葉はそう言うと、氷のような恐ろしい表情を浮かべた。いつもの仏顔に、悪意というか残虐性というか、見ているものをゾッとさせるような不気味さが浮かんでいる。
動悸が激しくなっていくのを感じた。雄三は何も言わず、出口に向かって歩き出した。
「あっ、坊っちゃん」
すぐに明日葉が駆け寄ってきて、歩調を合わせる。
「坊っちゃん、最近はどこにしけこんでいるんですか? この一週間、ほとんど戻ってきてなかったでしょう」
明日葉のニヤついた顔から顔を背けながら、「別に、仲間のところだよ」と答えた。
沙織の事は言いたくなかった。
沙織は、そしてあの家は、自分にとって唯一の安全地帯だ。警察だろうが誰だろうが、入り込まれたくはない。そもそも、自分がどこで誰と何をしていようが、咎められる謂れはない。
「ほう、仲間ね」
明日葉はわざとらしく首を傾げてみせる。
「チームの仲間と、仲直りしたんですか?」
雄三は思わず足を止めた。目を見開いて、明日葉を睨む。
こいつ、知っている。自分がSCARSと仲違いした事を、知ってやがる。
「うるせえな、ほっとけよ」
怒りと罪悪感とで、声が掠れた。思い出したくなかった。明日葉は目を細めて、雄三を見つめた。その仏顔から笑みの要素が徐々に失われ、真顔になる。
「そうもいかんのですよ、坊っちゃん。我々はあらゆる可能性を考えて捜査に当たらねばならんのです」
「はあ? どういう事だよ、可能性?」
「あなた、今回の被害者が襲われた朝八時頃、どこで何をしてました?」
一瞬、意味がわからなかった。
「は?」
「答えてください。朝八時ごろです」
「ちょっと待てよ、警察は俺まで疑うのか?」
そう言いながら、前もこんな事があったと思いだした。そう、あの時だ。偶然だとはいえ、雄三は二番目の被害者である清掃員の第一発見者だった。駆けつけた明日葉が、そこに雄三がいた事をひどく驚いていたのを覚えている。確か、あの時も同じ事を聞かれた。
「警察は誰だって疑わねばならんのです。それが仕事なんです」
そう答えながらも、内臓がこすれるような不安がせり上がる。まさか明日葉は、自分を犯人だと思っているのだろうか。
「で、何をしたんですか?」
「だから、ダチんとこにいたんだよ」
「本当ですか? 坊っちゃん、私に何か隠したりしてませんか?」
その粘つくような視線に、雄三はゴクリと唾を飲み込んだ。やましい事などない。それは確かだ。
明日葉さんの捜査法にはどこか違和感が――
突然、この間本宮が漏らした言葉が蘇った。
それにより、頭の中で強烈な意識転換が起こった。
不快感と不安が爆発的に膨れ上がり、全身に駆け巡る。気を抜いたら、膝が笑ってそのまま倒れ込みそうな緊張。
雄三は必死に平静を装い、鼻で笑った。
「隠すも何も、俺たちの悪事は、あんたらが一番良く知ってるじゃねえか」
明日葉がぱっと目を見開いて、それから苦笑いする。
「まあ、そうですな。何度見逃してやったかしれない。あなたが金井丈三の子でなかったら、とっくに刑務所に入ってるはずだ」
「ああ、感謝してるよ」
雄三がバカにしたようにそう言うと、明日葉は呆れたように首を振り、「まったく、そろそろまともな大人になってくださいよ」と言って踵を返し、医師の方に戻っていった。
社長室を出ると、ほぼ向かいにある捜査本部を避け、足早に自室に戻った。動悸が激しかった。扉に背中を押し付けたまま、まるで頓服薬を取り出すように、ポケットの中の携帯電話を引き抜いた。微かに震える手でボタンを操作し、発信ボタンを押す。
「もしもし、俺だ」
「どうしたの、なにか忘れ物?」
抑揚のない沙織の声が返ってきた。それだけで、少し落ち着きが戻ってくる。
「いや、そうじゃえねえ。そうじゃねえんだけど」
「うん」
雄三はそして、深呼吸をする。扉から離れるときに、後ろ手に鍵を閉めた。
使用人には、掃除するなと言い聞かせている。部屋の中は、出て行ったときと同じ状態のはずだった。だがなんとなく、違和感がある。散らかったケースや雑誌、ペットボトルや服などの位置が、変わっているような気がする。
「どうしたの?」
黙っている雄三に、沙織が言う。
「いや、ああ、ちょっと待ってくれ。自分でも何が何だか」
どうしてこう後から後から、考えなければならない事が増えていくのか。傳田の不気味な話、父親の死んだような寝顔、「自殺の可能性がある」という老医師の言葉。
そして社長室からの去り際、突然起こった意識転換――
社長室で明日葉に対峙していた時、本宮の言葉を思い出した。本宮は今回の事件の捜査に違和感を覚えると言っていた。「警察が本気で捜査をしていないようにすら見える」と、頭を捻っていた。
実際、それほどに捜査は停滞しており、有力な情報も得られぬまま、ただ被害者だけが増えている。金井建設の敷地内だけで既に三人、そして、現場こそ離れてはいるが尾藤雅、合計四名の人間が襲われた。
雄三は深呼吸し、慎重に言った。
「もし、もしだぞ、警察が金井建設を潰そうとしているんだとしたら?」
雄三の言葉に、さすがの沙織も絶句した。
「まともに捜査せず、犯人を泳がせているんだとしたら?」
「……なんでそんな事をするの」
「決まってる」
金井建設は古くから、表でも裏でも、警察と二人三脚でやってきた。特に明日葉が五葉署の刑事課長になって以降は、丈三と明日葉との間にある太いパイプを頼りに、かなり強引な事業拡大を行ってきたと聞いている。問題が起きても警察が、明日葉が解決しれくれる。その強力な後ろ盾があったからこそ、金井建設は強気の態度をとっていられたのだ。
「警察は、あくまで裏方だ。いつだって花形は金井建設だったんだ」
「それで、不満を感じて――」
「ああ、警察にとっちゃ、今回の犯行を歓迎する向きもあるのかもしれねえ。金井建設を標的にする犯人を、心のどこかで応援してるんだ。だから本気で捜査しない。このまま関係者が襲われ続けて、そのまま潰れちまうのを期待しているのかもな」
言葉にすると、そうに違いないという気がした。明日葉のあの仏面には、犯人を捕まえられない焦りは見られなかった。そもそも明日葉自身が、金井建設を恨んでいるのかもしれない。長年自分を顎で使ってきた金井建設に、定年を前に、一矢報いようとしているのかもしれない。
「あっ」
定年、という言葉が頭に浮かんだ時、雄三は思わず言った。
「ええ、そうよ」
考えている事が分かったのだろう、沙織も言った。
「定年後、その明日葉という刑事さんは、金井建設の人になるんでしょう?」
そう、その通りだった。傳田か藤城からチラッと聞いただけなので確かではないが、相談役とか、顧問とかそういう役職で金井建設に入社するという話ではなかったか。
「だとしたら、変よ。明日葉さんは、自分の就職先がなくなっちゃったら困るでしょう」
「ああ……確かにそうだ。でも、じゃあなんで本宮は……」
「え?」
「ああ、若い刑事だ。本宮っていう、なんつうか、熱血な刑事がいるんだよ。そいつが、今回の捜査は何かおかしいって、本気でやってないみたいに見えるって言ってて――」
あれも本宮の勘違いなのだろうか。考えてみれば、あの性格だ。馬鹿正直というか、思い込みが激しそうというか、自分の情熱を基準にするから、周囲が本気でないように見えるのかもしれない。
「あ、ごめん」
沙織が、微かに慌てた口調で言う。
「あ? なんだよ」
「私、バイト行かないと」
雄三は時計を見た。午前十時二十五分。この一週間、沙織はいつも午後二時から閉店までのシフトで働いていた。沙織のいない間する事のない雄三は、沙織の帰りを待ち続けた。だから勤務シフトについてはよく知っている。
「何だ、今日はずいぶん早いな」
「あなたが出かけてから電話があって、バイトのおばさんが熱出したって。だから代わりに出るの」
「そうか。じゃあ今日は、今からラストまでか?」
「うん、そう。だから、あなたも自分の家でゆっくりして」
沙織の言葉は、優しさと冷たさを両方感じさせる。本当は、今すぐにあの家に戻り、沙織が出かけるまでの数分でも一緒にいたかった。それが叶わないのならせめて、バイトを終えて帰宅してからの時間を、二人で過ごしたかった。
だが一方で、沙織を失いたくないという気持ちは何よりも強い。沙織の言葉を受け入れなければ、沙織との関係にヒビが入る事になるのかもしれない。
「……そうだな。この一週間、泊まりっぱなしだったからな」
「じゃあね」
雄三の気持ちを知ってか知らずか、沙織はいつもの淡々とした口調で言った。
「ああ、また連絡する」
「うん、あ、そうだ」
「なんだ」
「次に来るとき、靴下忘れないでね」
雄三は思わず微笑んだ。この一週間、いつも家から靴下を持っていくのを忘れて、洗濯している間、雄三は裸足で過ごしていたのだ。
沙織の側には、雄三を拒絶したなどという意識はない。ただ、思った事を言っているだけなのだ。
「ああ、そうだな。持ってくよ」
雄三はそう言って電話を切った。
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