雄三

 新しい被害者が出たと傳田から連絡があったのは、沙織の家に入り浸るようになって一週間ほどが過ぎた頃だった。


 二人して遅い午前に目を覚まし、簡単な朝食をとって、居間でくつろいでいるときに電話が鳴った。


「坊っちゃん、とにかく一度家に戻ってください」


 電話口で傳田はそう言った。高圧的な口調だった。あるいは、何かに怯えていて、それを隠そうとしているような。


「わかったよ、帰るよ」


「ええ、お願いします」


 電話を切ると、隣で文庫本を読んでいた沙織が、顔を上げた。


「帰るの?」


「ああ、また被害者が出たらしい。警備員だ」


「ふうん。よかったね」


 沙織が無表情のまま言い、文庫本に目を落とした。さすがに驚いて、「よかったって、どういう事だよ」と聞く。沙織はまた顔を上げて、だって、と言う。


「その人の事、知らないんでしょう? 知らない人が襲われても、別に辛くはないわ」


 雄三は絶句したが、実際のところ、その通りかもしれなかった。傳田の報告に、大したショックは受けていない。


 頭にあったのはただ、そう、ただ――


「お友達じゃなくて、よかったじゃない」


 沙織は本のページをめくりながら、何でもない事のように言った。


 寝間着を脱いで、沙織が昨日ハンガーにかけておいてくれたジーパンとシャツを身に付ける。バイクの鍵を掴んで、何も言わず本に目を落とし続ける沙織を、微かな非難を込めて見つめる。


 その気配に気付いたのか、沙織は顔を上げて無表情のまま言った。


「どれくらいで、戻ってくる?」


 その言葉に、トゲトゲした感情が溶けていく。沙織は、こういう女なのだ。愛想はないが、嘘もない。自分がこの家にいる事を、当然の事として受け入れてくれている。


 愛しさが滲んだ。救われている、と感じた。


「すぐ戻るさ、あんな家に、長居したくもねえからな」


 雄三が言うと、沙織は無言で頷いて、また本に視線を戻した。

 



 家に戻るのは久しぶりだった。


 坂道を登り、まだ黄色いテープで立入禁止となっている詰め所を過ぎた。そういえば、ここで警備員が殺された時も、警備員自身の事に思いを馳せたりはしなかった。被害者は、無数にいる金井建設関係者の中の一人に過ぎない。金井建設が標的にされているかもしれないという不快感はあったが、辛いという感覚はなかった。


 清掃員も同じだ。腹の割かれた体を見て衝撃を受けたのは事実だが、あの清掃員が誰でどんな人間だったのか、一度も考えた事がない。病院に担ぎ込まれた後の様態がどうかにも、正直興味が持てない。


 もし彼らが自分の個人的な知り合いだったなら、自分の反応は違っていただろう。この一連の事件の中で、尾藤の一件だけが、精神を削るような痛みを感じさせる。医療機器に囲まれた集中治療室で目を閉じている尾藤のイメージが、何度振り払っても頭に浮かぶ。


 あれから一週間が経ち、その状況には変化が起きているのかもしれない。それを確認したい、どうなっているのかを知りたい、という欲求、あるいは責任感が、雄三を何度も襲った。


 だが一方で、知るのが怖くもあった。


 もし、まだ意識が戻っていなかったら?


 もし、植物人間になっていたら?


 もし、死んでしまっていたら?


 いや、雄三の恐怖は、真逆にも根を張っていた。


 もし、尾藤が目を覚ましていたら? 


 尾藤は自分の事をどう思うだろうか。チームの後輩が死にかけているのに、見舞いにも来ないリーダーを。石神やメンバーに諭されてもなお、頑なに顔を背けた自分の事を。


 そしてもし、自分が雄三のせいで襲われたと知ったら。


「クソ……」


 沙織と離れた途端、このザマだ。


 後から後から湧き上がるネガティブな考えに、雄三は息苦しさを感じた。




 とりあえず傳田に状況を聞こうと、バイクを表玄関の前に置いて扉を開けた。


 雄三に気付いた金井建設の社員たちが、一斉に立ち上がって頭を下げる。カウンターに腰を預けてコーヒーを飲んでいた傳田が、目を細め、灰色の顔をして近づいてくる。


「坊っちゃん、お帰りなさい」


「どうしたんだよ、顔色悪いぞ」


「ちょっとこちらに」


 傳田は雄三の腕を掴むと、事務所の隅にある小型の会議室の方を、チラリと見た。それからブツブツと何かを言って首を振ると、玄関口の方へと雄三を引っ張っていく。


「ちょっと、おい、なんだよ」


 いつもは冷静過ぎるほどに冷静な傳田だが、今日は何か様子が違っている。その事だけで、事態の重さが予想された。今入ってきた扉を再度くぐり、外に出た。傳田は周囲を伺うような動きをした。それから雄三のバイクの横を抜けると、従業員や警察関係者の車が並んだ駐車場の隅に雄三を連れていった。


「何のつもりだよ、こんな所に――」


「坊っちゃん、聞いてください」


 傳田は雄三の言葉を遮って言うと、手の平で目を揉んだ。それからすう、と息を吸うと、ゆっくりと吐く。


「今回の一連の事件ですが、もしかしたら非常にマズイ事が起きているかもしれません」


 マズイ事? 意味がわからず、言葉をつぐんだ。


 傳田は再び大きな呼吸をすると、言葉を続けた。


「今朝八時過ぎ、久万くま辰雄という金井警備の警備スタッフが襲われました。場所は裏庭の焼却炉側。清掃員が襲われたのと庭を挟んだちょうど向かい側あたりです。電話でも言ったように、今までの被害者に比べれば怪我は軽い方です。脇腹から反対の肩にかけて爪のようなもので切り裂かれていたそうですが、傷は内臓には達していない。命に別状はなく、本人の意識もハッキリしてます」


 見ると、傳田の額に汗が浮いていた。昼間だとはいえ気温は決して高くない。革ジャンを着た雄三ですら寒いくらいなのだ。上着を着ずに事務所を出てきた傳田が汗をかいているのはおかしい。


「じゃあ、いいじゃねえか。いや、別によくはねえけど、何を一体、そんなに焦ってるんだよ」


「久万が今までの被害者と違う点があります」


「違う点?」


「久万は、犯人を見てます」


「え?」


 太陽の位置が変わったのか、傳田の顔に木の影が落ちた。すっと表情が暗くなったように見える。


「犯人を……見てる?」


「そうです。久万は襲われる直前、何となく気配を覚えて振り返った。そこで、木々の中から飛び出して自分に向かってくる犯人を見た」


「……それで?」


「叫んだんだそうです。久万は身体も比較的大きいが、声が一際でかくて、その声にひるんだのか、犯人は久万に一撃を放っただけで逃げていった。あっという間の出来事だったそうです。我に返ったとき、自分の制服が切り裂かれて血が出ている事に気付いた」


 雄三はふと違和感を覚えた。影になった傳田の顔に、不吉なものを感じる。


「なんでそんな事知ってんだ? 警察がそんな情報まで明かしたのか」


 傳田は一瞬黙った。それからゴクリと唾を飲み込んで、言った。


「久万が襲われたのは朝八時頃です。今は月初で比較的業務が落ち着いているから、社員たちの出社も遅い。そのとき事務所にいたのは、私だけだったんですよ」


「……」


「男の叫び声を聞いて廊下に出ました。悲鳴は表ではなく明らかに裏から聞こえてきていたので。早番で出てきていた使用人が真っ青な顔をして立ってました。私の顔を見て、聞こえました? と言って、私は頷いて走りました。嫌な予感がしたんです。そして厨房脇の裏口から裏庭に出た。そこで私は、仰向けに尻餅をついた状態で呆然としている久万を見つけたんです」


「……第一発見者って事か?」


 雄三は言いながら、自分が裏庭で死にかけの清掃員を見つけた時の事を思い出した。


 だが、傳田は首を振った。


「違います。そこには既に、警察が来ていました。数名の警官と、明日葉さんが」


「明日葉が?」


「ええ、二階の捜査本部に詰めていたんでしょう。距離的には我々の事務所より近い。坊っちゃんの部屋のそばにある裏階段を降りていったんでしょうね。もっとも、私との時間差は僅かだと思います。長くても一二分早かっただけでしょう。現場は慌ただしくて、医者を呼べと明日葉さんが叫んでいました」


「それで?」


「私も慌てて駆け寄って、そこで久万が明日葉さんに犯人の目撃情報を話しているのを聞いたんです。明日葉さんは私がいる事に気付いていたし、追い払う事もできたんでしょうが、緊急の場面だったからかそうはしませんでした」


「で、犯人はどんな奴だったんだ?」


 雄三が聞くと、傳田はまたゴクリと唾を飲み込んで、黙った。


「おい、どうしたんだ。それを教えるために俺を呼び戻したんじゃねえのかよ」


「坊っちゃん、私の予想がもし正しければ――事態は最悪だと言わざるを得ません」


「おいおいおい、何で隠すんだ。なあ、おい」


「坊っちゃん、私が言いたいのは一つだけです。あなたがしっかりしなくては、金井建設は本当に壊滅させられてしまうかもしれない」


「はあ? お前何言って――」


「社長は、お父様はもうダメです。私の報告を聞いて、いよいよ精神がおかしくなってしまわれた。いや、私自身、かなり動揺しています。何しろ、あの臭いを嗅いだのは三十五年ぶりなのに、記憶はこれほどにも鮮明なんですから」


「臭い? 臭いって何の事だよ、それに三十五年ぶりって――」


 傳田は俯いて、首を振った。


「すみません。無責任なようですが、これ以上は言えません。言いたくないんです。ですが、金井建設が危機的な状況にあるかもしれない事は理解してください。もっとも、私自身、予想が外れる事を願っています。単なる通り魔事件で終わる事を――」


 その言葉には、動揺というより何か諦めのようなものを感じた。それから傳田は頬の傷に震えた指先で触れると、ぼそりと呟いた。


「まさか、生きてるなんて――」

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