正太郎

 高校を卒業すると、正太郎は菰田にかけあって、荒れ地に残っていた廃屋のひとつを、ほとんどタダのような賃料で借りた。


 ここで事業を始めたい、事務所として使いたいたいと言うと、それをどう捉えたのか、菰田は重々しく頷いた。そこに将来、新しい商店街を作りたいのだと明言したわけではない。だが菰田は、正太郎のその夢に気付いている風でもあった。


 春休み、同級生たちが残り少ない自由を謳歌している中、正太郎は朝から「事務所」にでかけ、そこで一日を過ごした。造りはしっかりしていたが、長く放置されてきた廃屋だ。まずは大掃除である。


 正太郎は美作加州雄の住む山まで出かけていき、作業を手伝ってくれるよう頼んだ。


 山を降りる事、人に自分の姿を晒す事を、美作は嫌っていた。だから最初は、正太郎の頼みにいい顔をしなかった。だが、これが正太郎の夢で、その実現には美作の力が不可欠なのだと説得し、その重い腰を上げさせた。


「移動するのは人のいねえ朝か夜だ。いいな、正太郎」


 荒れ地全体に雑草が生い茂り、それらはかなりの高さがあった。事務所があるのは、荒れ地の中では比較的海に近い辺りだったが、壁のような雑草のせいで見通しはないに等しい。恐る恐る現れた美作も、これならば人に見られる心配はないと安心したようだった。


 二人は、作業を開始した。


 家の中にまで入り込んだ土を掻き出し、壁に絡みついた草木を取り除くだけで、三日ほどかかった。ゴミを集めて捨て、周辺の草むしりをするのに、さらに三日。最後に、母親に頭を下げて借りた金で買った、新しいガラス窓を取り付けた。そうすると、事務所と呼ぶのは憚れるが、なんとか人の住める状態にはなった。


 五葉町は海と山に挟まれた土地である。荒れ地の北側は徐々に勾配がついており、そのまま山につながっている。美作は佐渡商店街はもちろん人家のある場所は通らず、山中を移動してここまでやってきた。


「それで正太郎、これから俺たちは何をするんだ」


 作業が一段落した頃、美作は言った。もっともな疑問だった。事務所は用意できたが、高校を卒業したばかりの正太郎に、金を稼ぐような知識や技術はない。


 だが正太郎には、確信があった。


 自分たちは必ず必要とされる。


 生徒会活動の中でひたすら町を見て回った正太郎は、そこかしこで、小さな揉め事が起きている事に気付いていた。内容は、酔っぱらいや悪ガキ同士の喧嘩から、近所づきあいの中で発生した虐めからリンチまで様々だ。平和に見える佐渡商店街の中でも、明確な序列があり、背いたものは半ば公然と暴力を振るわれていた。


 五葉町は、そういう町だ。


 民度は低く、人は陰険で、閉鎖的な立地からそれを自覚する事もない。


「大丈夫、そのうち仕事の方からやってくるよ。それまではここで、草むしりでもしていよう」


 正太郎の言葉に、美作は訳がわからないというように首を傾げた。




 正太郎は毎日事務所に出かけては、荒れ地を歩いてまわり、新しい商店街のイメージを練った。


 スケッチブックにまだ見ぬその姿を何枚も描いていく。場所を変え、視点を変え、ペンのインクで手を真っ黒にしながら、正太郎は新しい商店街を夢見ていた。


 毎日毎日スケッチブックを手に荒れ地を歩きまわる正太郎を、漁師や五葉港で働く人間が不思議そうに見た。一方美作は待ちくたびれたのか、「俺が必要になったら呼びに来い」と、山の中に引っ込んでしまった。


 その日正太郎は、事務所の前で、ゴミ捨て場から拾ってきたパイプ椅子に座ってスケッチをしていた。


「やっぱり、外から人を呼べる商店街じゃないとなあ」


 五葉町の住民で完結するものなら、もう佐渡商店街がある。同じものを作っても意味がないし、それでは父親を超えた事にはならないだろう。


 だが、具体的にどうすればいいかは分からなかった。正太郎はまだ、十八歳なのだ。そもそも自分自身、人生のすべてをこの五葉町の中で過ごしてきた。町の外にどんな世界が広がっていて、そこでどんな人たちがどんな生活を送っているのか、正太郎は知らなかった。


 夏が近づいていた。


「あのう……」


 突然背後で人の声がした。驚いた正太郎は椅子から転げ落ち、土の上に尻餅をついた。その姿勢のまま恐る恐る振り返ると、見るからに貧しそうな、小さな老婆が立っていた。怯えた、だがそれ以上に疲労の滲んだ顔をして、「佐宗、正太郎さんか?」と言った。


 椅子を立て直し、老婆に勧めた。そして自分は、事務所の縁側に腰を下ろした。老婆はしばらくモジモジとしながら黙っていたが、やがて話し始めた。


「実は、孫が、ヤクザ者に目をつけられましてな」


 聞けば、今年三十歳になる老婆の孫が、数日前、居酒屋で酔った客と喧嘩になったらしい。それが地元ヤクザの構成員で、老婆の孫に大怪我を負わされたと、法外な賠償金を要求してきたというのだ。


「だいたい、最初に絡んできたのは向こうなんだ。それが金を出せだなんて」


 だが文句も言えず、どうにも首がまわらない状態にあった。


「うちは息子の、つまりは孫の父親ですが、身体が悪くて、その薬だけでもたいへん金がかかるで、私の稼ぎじゃ何ともならんです。ヤクザ者が揃って家に押しかけてきて、金を出せ金を出せと喚くんですわ。もう、頭がどうにかなりそうで……」


 正太郎は深く頷いた。それからゆっくりと、言った。


「それは辛かったでしょう。それで、今日はどうしてここに来たのです?」


 老婆は顔を歪め、俯いた。それからチラチラと上目遣いに正太郎を見た。


「こんな事を頼んでいいものか……」


 正太郎には、老婆が何を言うか分かっていた。重苦しい感情が浮かんで、吐きそうになる。だが、これは必要な覚悟なのだった。乗り越えなければ、夢の実現などありえない。


「あの……美作さんの力をお借りできんじゃろか」


 正太郎は目を閉じた。


 様々な事が頭に浮かんだ。美作の力を借りる。それが何を意味するのか、正太郎はわかっていた。


 正太郎が何よりも嫌い、避けてきたもの。


 暴力。


 ――俺には、これしかねえんだ。


 美作の言葉と、悲しそうな顔が思い出された。そして、美作に出会う前の、あの地獄の日々も。


 大きく息を吸い、腹の中に現れたどす黒い何かを、飲み込んだ。


 目を開け、老婆の手をとった。


「分かりました。詳しい事を、教えてください」




 それから一週間後、正太郎は五葉町中部のある集落に出かけていった。


 見るからに貧しい集落だった。家畜小屋のような家が十数軒、互いにもたれかかるようにして建っている。汲み取り式便所である事を示す臭突が、全ての家から角のように突き出していた。


 まだ日の高い時間だが、あたりはひっそりとしており、日当たりが悪いからか、雨が降ったわけでもないのに地面は湿っていた。


「ごめんください」


 表札を確認してノックすると、しばらく間があって、中からあの老婆が顔を出した。


「ああ、これは佐宗さん」


 老婆は飛び出してくると、突然、ぬかるんだ土の上で土下座した。


「ありがとうございます、ありがとうございます、なんとお礼を言ったらいいか」


 正太郎は微笑んでしゃがみこむと、その手をとって、顔をあげさせた。


「その様子だと、嫌がらせはやんだんですね?」


「ええ、ええ! あの日以来、ぱったり姿を見せんようになりました」


 そして老婆は思い出したように部屋の中に戻ると、小太りでボサボサ頭をした男を連れて、戻ってきた。孫だろう。


「佐宗正太郎さんだ。お前を助けてくれた恩人だよ。ほら、頭を下げろ」


 孫は、老婆の二倍ほどもありそうな大きな体をしていた。だが、おどおどとしており、頼りない。老婆に言われて、自分より一人まわりも年下の正太郎に、頭を下げた。それから、喉に何か詰まったような声で、ありがとうございました、と言った。


 開け放たれた扉の奥に、布団に転がった下着姿の中年男性が見えた。老婆の息子、この孫の父だろう。話では身体を悪くしているという事だったが、傍らには茶色の一升瓶があった。こんな昼間から飲んでいるらしい。母親の姿は見えないが、働きに出ているのか、あるいは離縁したのか、部屋の中にいるのはその男だけだった。


 数日前の夜中、佐渡商店街内の居酒屋から出てきたヤクザ者を、美作が襲った。


 一瞬で首根っこを絡めとって暗がりに連れ込むと、馬乗りになり、有無を言わさず二度三度と殴る。物陰に隠れていた正太郎のところまで、その生々しい音が聞こえてきた。美作はそれから、ヤクザ者を立たせ、壁に押し付けた。まるで人形のように手足をだらりと伸ばしている。


「加州雄くん……この人、まさか死んで……」


「アホ言うな、こんなもんじゃ死なねえよ」


 振り返った美作の顔は、笑っていた。そして、片手で男の首筋を掴んだまま、反対の手と膝を使って、テコの原理で男の左腕を折った。音はしなかった。だが、男の腕は二つ目の肘ができたように妙にねじれて、骨折している事は明らかだった。


「ぐ…ぎ……」


 痛みなのか恐怖なのか、男は呻き声をあげ、そして「助けてください」と呟いた。


 美作はそれを当たり前のように無視し、拳を固め、男の額を殴打した。素早い動きだったが、腰の入った強烈な突きだ。ガクンと後ろに折れた男の顔をすぐに引き寄せ、その耳元で、今回の依頼主である老婆の孫の名を言った。


「知っているな? お前が最近、ちょっかいかけてる奴だ」


 男はガクガクと頷いた。揺れているのは顎だけではない。全身が痙攣するように震えていた。そんな状態の男に、美作は容赦なく拳を放った。それは折れた腕に当たり、「むううう」と男が唸る。


「知ってるな?」


「知ってます」


 男は言った。


「いいか、あいつには二度と近づくんじゃねえぞ。お前がヤクザ者だってのは知ってる。そんな事はどうだっていい。言う事を聞かなけりゃ、お前の兄貴分や親父を殺すからな」


 男はまた呻き、そして「分かりました」と答えた。


 美作は正太郎を振り返った。月明かりに満足げな笑みを浮かべているのが確認できる。


「どうだ正太郎、これでいいか」


 正太郎は頷いた。頷くしかなった。


 そして今日、正太郎はその経過を確認するためにここに来たのだ。


 家の奥の父親らしき男が、だらしなく横たわりながら、一升瓶に手をやった。片手で持ち上げようとするが、重過ぎるのか叶わず、結局身体を起こして両手で掴むと、手元のグラスに透明な液体を注ぐ。


「あの、これ」


 老婆が言って、我に返った。見れば、何かを差し出している。


「ん? なんです?」


 その手には、シワシワの千円札が十枚ほど、握られていた。


「少なくて申し訳ねえんだけど、どうにかこれで、何とか」


 手を残してまた頭を下げる。隣に立つ孫は、それを無表情に見下ろしている。


 ヤクザ者に要求された金額は、もっとずっと多かっただろう。それを払うと思えば、一万円の出費など、安いものだ。


 自分はこの人たちを助けたのだ。


 金は、その感謝の印だ。


 そう無理やり納得しながら、よれた千円札を受け取った。


「大丈夫ですよ、おかあさん。また何か困った事があったら、どんな事でもいい、何か困ったら、僕を訪ねてきてください」


 紙幣を丁寧に折りたたみ、ポケットにしまった。


「どんな事でも、ですか」


 老婆がぽかんとした表情で言った。


 正太郎は頷いた。


「僕はあそこの事務所にいます。五葉町をよくするためなら、何だってします。もしよかったら、近所の人や、知り合いにも伝えてください。佐宗正太郎は、あなたたちの味方ですと」

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