正太郎

 学校生活は、平穏に過ぎた。冬が終わり、春になると、正太郎は新しいクラスで学級委員長に選出され、生徒会役員も兼任する事になった。


 人の役に立つ事が、正太郎の喜びだった。伊津いづ高校の生徒会としてボランティア活動をしたり、病院に慰問に行ったり、校内新聞のために五葉港を取材したりと様々な人や場所に関わる中で、正太郎は自分の夢をより具体的にしていった。


 「新しい商店街を作る」という夢がいつ生まれたのか、自分でも分からない。だがそこに、父親の存在が深く関わっている事は明らかだった。


 五葉町初の本格的な商店街を作ろうと、朝とも夜ともなく奔走していた父親。多くの人に無理だと言われながらも、持ち前の明るさと粘り強さ、そして愛嬌で、立派な商店街を作ってしまった。以降も決して偉ぶる事なく、ニコニコと笑いながら草むしりをし、ゴミを片付け、商店の引っ越しがあると聞けば、背広を汗だくにしながら手伝った。


 そういう父親を、正太郎は尊敬していた。自分もああいう人間でありたいと、強く思っていた。


 その一方で、一連の経験を通じ、父親のようにはならない、なってはいけない、と考えるようにもなっていた。


 父親はあまりにも、


 正太郎は孤独な時間の中で、人間の醜さをたくさん見てきた。


 昨日まで笑顔で接してくれた友人が、突然自分に憎しみを向ける。存在を無視する。人間はそういう事ができる生き物だ。


 怒ってはいけない、父親はよくそう言った。


 だが、正太郎は怒っていた。


 学校の生徒も、教師も、母親を受け入れた佐渡さわたり商店街の人間も、反省したから態度を改めたのではない。金井建設をも撃退した、美作加州雄という存在が怖いから変わったのだ。


 結局、五葉町住民の気質は変わらない。強い者が右を向けといえば一斉に右を向く。もしも新たに、もっと強い者が現れて、右じゃない左を向けと言えば、それに従うのだろう。


 ――だとするなら、自分がその「強い者」になるしかない。


 正太郎の夢。つまり、佐渡商店街ではない新しい商店街を作るという夢は、父親の無念を晴らすためのものでもあり、同時に、父親の存在を越えるためのものでもあった。


 それを自覚して以降、正太郎は精力的に町を回った。その中で、五葉港の近くに、かなりの広さを持つ土地が、ほとんど手付かずのまま放置されている事を知った。


 図書館で五葉町の歴史を調べると、その土地は、かつて漁師たちの道具置き場のような形で使われていたらしい。だが、湾岸工事が入って港の位置が微妙に変化してからは、道具置き場も移動し、この土地は放置された。


 廃墟のような小屋が四五軒残ってはいるものの、草は伸び放題で、道行く車が投げ込むのかゴミが散乱し、ひどい状態だった。港にいる漁師に聞くと、今は誰が管理しているかもわからぬ土地だという。知りたければ役場にでも行くんだな、と、漁師は言った。


 夏休みに入ってすぐ、正太郎は菰田の家を訪ねた。顔を合わせるのは、母親が行方不明になり、一緒に探しまわったあの秋の日以来だった。


「正太郎くんじゃないか」


 菰田は驚いた顔をして迎え、さあ入ってと応接間に通してくれた。


「いや、会いに行こうとは思っていたんだ。だが、どうしても気後れを感じてしまってな。随分と残酷な事を話してしまったから」


 菰田はあの時の会話を気にしているようだった。事実がどうであれ現実には関係がないのだという話だ。確かに、あの時はショックを受けた。唯一の味方かもしれないと思っていた菰田に言われたからこそ、余計に堪えた。


 だが、それも昔の話だ。あれから一年近くが経ち、状況は大きく変化している。


「いえ、そんな。お気になさらないでください」


「そう言ってもらえるとホッとするが」


 菰田の妻が茶を持って入ってきて、湯のみをテーブルに置くと、無言で出ていった。


「それで、今日はどうしたんだい?」


 正太郎はさっそく、五葉港近くのあの荒れ地の事を聞いた。菰田は都市計画課に勤める公務員なのである。


「ああ、あそこな。一応は町の管理になっているが、買い手もつかんから、放置状態だ」


「何かが建てられるような予定もないんですか」


「ああ、ないな。西側にある佐渡商店街とは真反対の寂れた場所だし、何かを作っても不便だろう。もっとも、産廃処理施設とか倉庫とかであれば別だが」


「空き地なんですね。要するに」


「まあ、そういう事になる。しかし正太郎くん、なぜそんな事を聞くんだね?」


 菰田はそう言って首を傾げた。正太郎が黙っていると、やがてハッとした表情を浮かべた。


「まさか、君――」


 正太郎は何も答えなかった。ありがとうございますと丁寧に頭を下げると、茶にも手を付けぬまま、立ち上がった。


 菰田も引きとめようとはしなかった。黙って後をついてきて、玄関先まで送ってくれる。土間に下り、ソールのすり減ったスニーカーに足を通していると、「正太郎くん」と声をかけられた。


「はい」


 顔を上げる。菰田が眉間にシワを寄せ、頬を紅潮させて立っている。


「最近、町で噂になっている話を聞いたかね? 金井建設の話だ」


 金井建設、と聞いて身体が固まったが、心当たりがなかったので、首を振った。


 菰田はじっと正太郎の目を見つめ、言った。


「昨年の秋頃、金井建設の社員十数名が怪我を負った。当時は、山中の現場で事故が起きたのだという説明だったんだが、どうも違っていたらしい」


 菰田は正太郎の表情を伺うように続ける。


「あれは事故じゃない、山中に住む化物に襲われたんだと、こういう噂なんだ」


「はあ」


「金井建設はああいう会社だから、メンツにこだわる。これまでその情報は、身内の恥として隠されてきたんだそうだ。だが、それがどこからか漏れ出した。実際調べてみたが、その当時金井建設が山中で行っていた工事など一件もなかった。噂は噂だが、私はなんというか、妙に事実めいたものを感じるんだがね」


「そう言われても、僕はその噂を聞いた事がないので――」


 正太郎は思いの外落ち着いていた。だが反対に菰田は、頬が強張り、肩に力が入っている。数秒間の沈黙があって、菰田は言った。


「君、この件について、なにか心当たりはないかね?」


 菰田の言葉が美作加州雄の事を指しているのは明らかだった。


 菰田がそれを知っている事に驚きはない。都市伝説的な性格を帯びてはいたが、今や美作加州雄の存在は五葉町の多くの住人が知るところとなっている。山の中に恐ろしい化物がいる、そしてその化物をコントロールできるのは、佐宗正太郎を除いて他にない。皆がそれを知っていた。


 金井建設の屈強な男たちを撃退したという「噂」など、聞いた事がなかった。周囲の人間は正太郎の前で美作の話を決してしなかったし、何よりそれは、正太郎にとっては噂でも何でもない「事実」だったのだ。


 しばらく、菰田と見つめ合った。自分がどう答える事をこの人は期待しているのか、恐れているのか、分からなかった。そして、知りたいとも思わなかった。


「心当たりなんて、ありませんよ」


 正太郎は淡々と答えると、頭を下げて、菰田の家を後にした。




 高校三年になると正太郎は生徒会長に選出され、学校の顔役として存在感を増していった。


 近所に佐渡商店街がある事から、商店街と協力した形の文化祭を企画したり、生徒の親たちだけでなく商店街で商売をする人間も招いたスポーツ大会を開催したりして、伊津高校と商店街の結びつきを強めていった。


 当時はまだ大学に進む生徒は少なく、特に五葉町では、地元の企業や商店に就職するのが当たり前であった。正太郎は、文化祭やスポーツ大会などの折に築いた商店街との人脈を活かし、何人もの生徒の就職をサポートした。その功績を評価され、全校集会で校長から表彰もされた。


 一方で、正太郎は自分自身の進路を、ギリギリまで明らかにしなかった。母親や教師が何度聞いても、曖昧な返事しかしなかった。周囲の人間が卒業後の道をどんどん決めていく中で、正太郎は焦った様子も見せず、ただ淡々と過ごしていた。


 卒業式を間近に控えたある朝、食事を終えた正太郎は母親に、自分で事業を始める旨を打ち明けた。


「事業って……正太郎、あなた何を考えているの?」


「港の近くに、結構な広さのある荒れ地があるんだ」


「荒れ地? 何の事なの」


 母親の戸惑った表情を前にしても、自分の考えが全く揺らがない事に、正太郎は安堵と諦観を同時に覚えた。五葉町に新しい商店街を作るという夢に、自分は良くも悪くも没頭していく事になるという確信を得た。


 夢の内容を話すと、母親は一層顔を青くした。


「正太郎、どうして? どうしてそんな道を選ぶと言うの?」


 母親の気持ちは理解できた。この人は愛する夫を、商店街事業によって奪われたのだ。そしてその事が原因で、息子とともに地獄の日々を送る事になった。やっと平穏の戻った今、息子がなぜそんな事を言い出したのか、理解できないに違いない。


 正太郎は小さな肩に手を置いた。既に泣き顔になっている母親が無言で見つめ返してくる。惣菜屋での仕事は順調だと言っていた。だが、かつて自分を追い詰めた女店主の下で働く事にストレスを感じないはずはない。たとえそれが、息子を食べさせていくためだとしても。


「母さん、今までありがとう。これからは僕が、母さんを支えるから」


「正太郎……でも……」


「大丈夫さ、僕はきっと、昔よりもずっと強いよ。頑張って働いて、母さんをきっと幸せにしてみせる」


 正太郎は食器を重ねると立ち上がった。不安そうな母親に、友達もいるんだ、と付け加える。


「友達?」


 正太郎は頷いた。


「そう。すごく大切で、僕を理解してくれる友達だよ」

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