正太郎

 新しい自転車は、前のものほどの高級なものではなかったが、充分だった。


 正太郎はその新しい愛車にまたがって学校を出ると、迷いなく商店街の方に向かってペダルをこいだ。


 本格的な冬に入り、寒さも厳しくなってきた。


 放課後は商店街が一番混雑する時間帯だ。入口にあるロータリーにはたくさんの人がいた。だが正太郎は躊躇する事なくゲートをくぐった。「よしっ」と気合を入れると、自転車に乗ったまま坂を登っていく。


 やがて、ガラスケースに揚げ物を並べた店が見えてくる。浅井商店という名の惣菜店で、同じ商店街の中にある精肉店が経営している。自分のところで調達した肉を使ってトンカツやコロッケ、豚串などを作って売っており、人気があった。


 正太郎は自転車を降りると、客達の間からガラスケースの向こう側を覗く。そこに、三角巾に割烹着を着た母親の姿を見つけると、小さく手を振った。


「あ、正太郎、おかえりなさい」


「母さん、ただいま」


「今日は何にする?」


 正太郎は頷いて、並んでいる商品を見比べた。どれもうまそうで、迷ってしまう。結局、コロッケを選んだ。


「コロッケをふたつ。なるべく大きいのがいいな」


 母親は嬉しそうに微笑んで、トングでコロッケをふたつ、ビニール袋の中に入れた。それから自分でレジを打ち、ポケットから小銭入れを取り出して代金を入れる。


「ああ、もう、お金はいいって言ってるのに」


 そのとき店の奥から声がして、女が顔を出した。男のようにたくましい体つきをした、豪快な女店主である。普段は精肉店の方にいるのだが、こちらの惣菜屋の二階が事務所になっているので、ときどき顔を出すのだ。


「食べ盛りなんだから、好きだなけ持って帰っていいんだよ」


 母親は困ったように微笑んで、「そんな、悪いですから」と首を振る。


 女店主は正太郎にニッと笑ってみせ、「明日はおばちゃんに直接言いな。たっぷりおまけしてあげるから」と大きな声で言うと、豪快に笑いながら奥に戻っていった。


 その背中を正太郎はじっと見つめた。


「正太郎?」


 母親が心配そうに言う。


「どうかしたの?」


 正太郎は母親を見て、首を振る。


「なんでもないよ、あ、そうだ、今日は友達の家に行くから、もしかしたら母さんより遅くなるかもしれない」


 そう言うと、母親は微笑みを浮かべた。


「そう。わかったわ。お友達によろしくね」




 コロッケの入った袋を持って、自転車にまたがった。力を込めて、ペダルを踏み込む。人の間を縫って進み、やがて人の数が減るとスピードを上げた。商店街を出ようとする頃、右側に精肉店が見えた。先ほどの女店主がやっている店だ。


 正太郎は息苦しさを覚えた。嫌な記憶が蘇る。


 以前、あの精肉店の店先に人だかりができ、その中心で母親が何度も頭を下げていたのを見た。何があったのか、どういう経緯でそうなったのかはわからない。だが母親を罵っていたのは、間違いなくあの女店主だった。ほんの二ヶ月前の事だ。


 人間はこうも簡単に変われるものなのか。先ほどのやりとりを思い出しながら正太郎は考えた。いや、あの女店主だけではない。美作加州雄みまさかかずおによる金井・傳田・藤城の襲撃を期に、町中が変わってしまった。


 金井丈三はあの場で、もう二度と正太郎にちょっかいを出さない事を約束した。傳田は頬と肩に怪我を負ってグッタリし、身体の大きな藤城がその身体を担いでいた。


 逃げ帰っていく彼らを美作が呼び止め、「約束を破ったら、お前らを殺しに行くからな」と言い添えた。三人は青い顔をして頷くと、急な坂をドタドタと駆け下りていった。


 それ以降、正太郎へのいじめはピッタリとなくなった。


 校内で金井達と顔を合わせる事はあったが、正太郎の姿を見ると、幽霊でも見るように逃げていってしまう。


 丈三が正太郎を的にかけるのをやめたという話はすぐに広まったようで、正太郎を無視していたクラスメイトが、徐々に話しかけてくるようになった。もともと人のいい正太郎である。複雑な気持ちを覚えつつも彼らを受け入れ、関係を修復していった。


 一ヶ月もした頃には、周囲には人の輪が戻っていた。正義感が強く、困っている人を放っておけない人間だ。愚痴や悩みを嫌な顔ひとつせず聞いてくれる正太郎は、以前のように皆から好かれ、信頼されるようになっていった。


 そんなある日、家にいると母親が目を丸くして帰ってきた。


「どうしたんだよ、母さん」


「正太郎、私、商店街で働く事になったの」


 驚く正太郎に、母親は惣菜屋でパートとして働かないかと声をかけられたのだと嬉しそうに説明した。


「惣菜屋?」


「ええ、お肉屋さんがやってるお店よ」


 正太郎はすぐに精肉店の件を思い出したが、口には出さなかった。母親はあの場に正太郎がいた事を知らないのだ。


「もうドブさらいをしなくてもすむわ。お給料だって、増えるのよ」


「よかったじゃない、母さん」


 気持ちを抑えて正太郎が微笑んで見せると、母親はじんわりと涙顔になりながら頷いた。




 物事はうまく回り始めていた。それは確かだった。


 だが一方で、正太郎はその変化の早さに、戸惑ってもいた。金井丈三が自分を標的にしなくなった事が、母親の仕事にまで影響するものだろうか。


 そもそも、正太郎たちへの辛い態度の原因となっていたのは、金井丈三ではなくその父親の金井松宇、つまりは金井建設だ。


 父・佐宗稔の起こした事件が事実であれ捏造であれ、そのスキャンダルを利用して今の立場を手に入れた松宇が、簡単にその態度を改めるとも思えなかった。


 金井建設への信頼は、佐宗稔への嫌悪と表裏一体だ。父親を悪者にしておかなければ、金井建設の立場が揺らいでしまう。


 あるいは、金井建設の動きとは関係なく、住民たちが突然改心したとでも言うのだろうか。「親の罪の償いを妻や息子に求めるのは間違っている」と、何の契機もなく思ったのか。いや、そんなはずはない。


 どうも、納得がいかない。

 

 その違和感は、学校や商店街での緊張がほぐれるほどにむしろ強くなった。自分に笑顔を向けるクラスメイトや住人の存在に安堵しつつも、その裏側で、彼らはなぜこんなにも急に変わったのだろうと考えた。


 そして徐々に、彼らの笑顔がどこか不自然な事に気付いた。「怯え」のようなものを感じるのだ。


 ある時、教室移動の際に正太郎はクラスメイトの一人とぶつかった。どちらが悪いわけでもない。互いによそ見をしていて接触しただけだ。小柄な正太郎は弾かれて壁に頭をぶつけたが、少し額が赤く腫れただけで大した事はない。


 だが、そのクラスメイトは真っ青になって硬直した。そしてカタカタと震えだすと、「ご、ごめん」と掠れた声で謝った。「いや、大丈夫だよ」正太郎がクラスメイトに近づこうとすると、彼はビクッとして後ずさり、「こ、殺さないで」と言ったのだった。




 家に戻ると、制服を脱いだ。山の中を移動するのに詰め襟は動きづらい。


 体育で使うトレーニングパンツに、先日母親が買ってくれた新しいアノラックを着た。正太郎は、ちゃぶ台の上の目覚まし時計を見た。早くしなければ日が暮れて何も見えなくなってしまう。まだほんのり暖かさの残るポテトコロッケを持って外に出ると、坂道を登っていった。


 数十分後、正太郎はいつもの場所に美作加州雄の姿を認めた。見晴らしもいいこの場所が美作のお気に入りだった。


 さすがの美作でも最近の寒さは堪えるのだろう、作業着のようなものを身につけ、ひときわ太い幹を持つ木にもたれて目を閉じている。だが、正太郎が近づくと当たり前に顔を上げ、「おお、正太郎か」と笑った。


 正太郎は幾度となくここに足を運び、美作との時間を過ごしていた。


 正太郎は美作を恩人だと思っている。美作との出会いがなければ、今でもあの地獄の中で最低の日々を送っていたに違いない。あるいはその辛さに耐え切れず、人生からの逃亡を企ていたかもしれない。


「今日も寒いね、加州雄くん」


「寒いのは当たり前だ。冬だぞ」


 ふふ、と笑いながら正太郎は美作の隣に腰を下ろす。強烈な体臭が鼻を刺す。だが今ではこの臭いに親近感すら覚えるようになった。いや、親近感どころではない。正太郎は美作といるときだけ、不安から自由になれた。


 父親の事、母親の事、金井の事。


 美作に対しては、正太郎は何も隠さず話す事ができた。何か気の利いたアドバイスをくれるわけではない。黙って話を聞いてくれるだけだ。だが美作は、いつでも正太郎の味方だった。自分の事を本気で、大切に考えてくれた。


 だからこそ今日、聞かねばならぬ事があった。


 ビニール袋から冷えたコロッケを取り出すと、一つを差し出した。「おお、待ってたぜ」美作は喜んで受け取ると、大きな口で半分を一気に口に入れた。


「ねえ、加州雄くん。聞きたい事があるんだけど」


 正太郎が声を落として言うと、美作はコロッケを口に運ぶ手を止めた。


「なんだ」


「加州雄くん、僕に黙って、誰かを傷つけたりしてないよね」


 先日正太郎に対して「殺さないで」と懇願したクラスメイトは、確か父親が金井建設に勤めていたはずだ。その事を思い出した時、正太郎の中である疑惑が頭をもたげたのだ。


「クラスメイトの態度が、なんかおかしいんだ。まるで、僕を恐れているみたいで。ねえ、あれ以来、誰かを傷つけたりしてないよね」


 美作は嘘のつけない人間だ。主人に叱られた犬のように、ゆっくりを目を逸らす。その態度から、何らかの心あたりがある事が分かった。


「ねえ、加州雄くん。僕ら、友達だろう? 友達同士なら、何だって話すはずだ」


 美作は肩をすくめ、上目遣いに正太郎をチラリと見ると、小さくため息をついた。


「だってよ――」


「やっぱり、心あたりがあるんだね」


「仕方ねえじゃねえか、向こうから来たんだぜ」


「え? 来たって、どういう事?」


「だから――」


 美作の説明によると、藤城の家近くの坂で彼らを襲った次の日、トラックに乗った男たちが現場付近に現れたのだと言う。


「何かうるさかったから、見に行ったんだ。そうしたら、こないだぶちのめしたあいつらがいるじゃあねえか」


「ぶちのめしたやつらって、金井たち?」


「ああ、三人ともだ。それで、ああ、こいつらは仕返しに来たんだなと分かった。自分たちだけじゃ敵わねえから、武器を持った大人をたくさん連れて」


「ええ? 武器?」


「鉄パイプとか、角材とか、中にはクワ持ってる奴もいたな。ガキども以外に、十人くらい」


「十人もいたのかい?」


「あの坂のあたりで、出てこい、ぶちのめしてやるって、大騒ぎだ。でっけえトラックで道を塞いでよ」


「それで、どうしたの」


 正太郎が聞くと、美作はふんっと鼻を鳴らして、得意げな顔を作った。


「相手じゃねえや。返り討ちにしてやったよ」


「ええ?」


「通じてねえみたいだったから、もう一回言っといたぜ。いいか、正太郎に何かあったら、相手が誰だろうが、俺が殺しに行くってな」


「加州雄くん……」


 恐らく金井丈三は、あの坂であった事を、父の金井松宇に話した。丈三にはひたすら甘い、と噂される松宇だ。金井建設の社員たちに、息子やその友達を襲った人間を痛めつけてくるように指示したのだろう。あるいは、丈三が直接大人たちに声をかけたのかもしれない。そして返り討ちに遭い、美作加州雄の恐ろしさを松宇も知る事になった。


 クラスメイトの異常な反応、自分への態度が急に変わった事、そしてその顔に見え隠れする怯え、さらには母親に対する仕事の斡旋。それらに一応の説明がつく気がした。


「正太郎、怒っているのか?」


 加州雄がバツの悪そうな顔で聞く。


 昔の正太郎なら、怒ったかもしれない。人を傷つけるなんてダメだと、暴力なんて嫌だと言ったかもしれない。


 だが、半年ほど続いた辛い時間の中で、キレイ事だけでは人生を渡っていけない事、時には強い力を行使しなければ状況が変わらない事を思い知った。だからこそ美作加州雄は恩人なのだ。武装した大人の集団をも恐れず、簡単に返り討ちにしてしまうその強さで、正太郎を救ってくれた。


 だが一方で、何か言いようのない不安がある。


 この間、美作が傳田の肩や頬を切り裂くのを見て、正太郎は恐ろしくなった。「正太郎、こういうのは、思い切りやらねばダメだ」迷いなくそう言った美作の顔が思い出される。あのとき、正太郎が止めなかったら、美作は彼らにどんな事をしていたのだろう。


「怒ってるわけじゃないよ。でも……」


 どう言えばいいのかと口ごもる正太郎に、美作もまた、黙った。


 日が傾き始めていた。


 ここにきてまだ三十分と経っていないはずだが、冬場になり日はどんどん短くなる。


「俺にはな、正太郎」


 やがて美作が口を開いた。


「うん」


「俺には、これしかねえんだ。俺は爺ちゃんの用心棒だったんだ。学校にまともに行っていねえし、林業もまね事しかできねえ。俺には、暴れる事しかねえんだ」


 美作は、プールで出会った時に一度だけ見せた、あの悲しそうな表情をしていた。正太郎に、痛みが伝わってきた。


 加州雄くんは、一人だ。


 この深い山の中に、一人なんだ。


 それがどんなに辛い事か、いまの正太郎にはよく分かった。


 思わず立ち上がり、巨大なその肩を抱いた。美作はビクッと震えて身体を固くしたが、正太郎が手を離さないとわかると、何も言わずにそれを受け入れた。


「あの時――」


 正太郎は言った。


「うん?」


「僕に服を着せてくれただろ。プールサイドで」


「ああ」


「僕はすごく嬉しかった。すごく救われた」


 美作は正太郎を見た。


「ねえ加州雄くん、僕の夢を手伝っておくれよ」


「夢?」


「そう、僕には夢ができたんだ」


「なんだ」


 正太郎は頭の中に、新しい商店街の姿を思い浮かべた。それはまだぼんやりとした、曖昧なイメージに過ぎなかった。だが、その夢への想いは日に日に強く、確かなものになっている。


 正太郎は美作の肩を抱いたまま、暗くなり始めた空に向かって、言った。


「加州雄くん、僕にはキミが必要だ。キミの力が、きっと必要なんだ」

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