傳田
社長室を出ると、斜め向かいの大部屋の扉が開いていた。
先ほど通った時には閉まっていたはずだ。ちらりと中を覗くと、既に数名の警察官が作業を始めていた。
今日からここは、一連の事件の出張捜査本部として使われる。捜査効率を上げるためだけではなく、丈三やその他の社員を警備する意味もあると明日葉は言っていた。
確かに、これほど近くに警官が詰めていてくれれば安心だ。
被害者となった警備員も清掃員もこの館の目と鼻の先で襲われている。その気になれば、建物内部に潜り込む事も可能だったに違いない。
先ほど社長室で、丈三が死んでいるのではないかというイメージが咄嗟に浮かんだ。それは、一つにはその病状を心配してのものだったが、人知れず館内に侵入した犯人に殺害されたのではないかと考えたからだった。
だが、警察が常駐しているとなれば、館への侵入は一気に難しくなる。
「あ、これは」
何気なく室内を覗いている傳田に、若い男が気付いた。立ち上がり、小走りに近づいてきて、頭を下げる。
「傳田部長。おはようございます」
確か、本宮という名の若い刑事だ。何かの折に、こいつが熱っぽく話しているのを聞いた事がある。実直というか、すらっとした体格に似合わない情熱のようなものを感じた。
「ああ、君か。早いな」
「いえ、本来であれば二十四時間体勢で捜査に当たらねばならぬ状況です」
相変わらずの物言いに、ふっと笑いが漏れた。この傳田を前に、怯える様子もない。
「期待してるよ。早く犯人を捕まえてくれ」
じゃあとその場を辞そうとすると、「あの」と本宮が言った。
「ん、なんだ」
本宮は傳田の背中越しに社長室の方をチラリと見た。
「金井社長のところに行かれていたんでしょうか」
「ああ、ちょっと顔を見た程度だが」
「ご様態、いかがでしょう」
「いいとは言えん。心労がたたって参っておられる。まあ、事件が解決すれば、自然と良くなるだろう」
本宮は重々しく頷くと、「心血を注いで、捜査にあたります」と大袈裟に敬礼をした。
廊下を歩きながら、まだ高校生だった頃の記憶を、あらためて反芻した。
三十五年前、今と同じ秋の事だった。
そのとき傳田は、丈三と藤城と共に、山へと続く坂道を登っていた。
丈三が家の厨房からくすねてきたブランデーを、山際にある藤城の家で飲むつもりだった。藤城の親は共働きで、夜八時過ぎまで帰ってこない。こっそり悪い事ををするには最適な場所だった。
「この坂さえなきゃな」
丈三が顔を歪めながら言った。
「まあ、そう言うなよ。仕方ねえだろ」
藤城がバツの悪そうな顔で言う。
「引っ越しゃいいじゃねえかよ、商店街の方によ」
「簡単に言うな。お前ん家みたいな金持ちじゃねえんだ」
二人が話している少し後ろで、傳田はひとり顔を上げた。確かに急な坂だ。しかも、張り出した木々のせいで薄暗く、道はくねっていて見通しも悪い。
その時――
ガサガサという音がして、道の左側の林から、何かが飛び出してきた。
一瞬、猿か何かだと思った。
だが、大きさがおかしい。
「それ」は、傳田の前を歩いていた二人に飛びかかった。ガタイのいい藤城が、まるで竜巻にでも巻き込まれたように弾かれ、宙を舞った。その身体が地面に着地する前に、今度は丈三が飛んだ。
何が起きたのか分からなかった。誰のものかわからない悲鳴が聞こえる。視界の中を「それ」は弾丸のように移動し、転がった藤城のそばまで移動すると、野球投手のアンダースローのように地面すれすれから腕を振り上げた。
……なんだ……ありゃ、なんだ……猿、いや、熊? いや、あれは。
藤城は咄嗟のところでその攻撃を避けた。避けたというより、驚いて身体を捻ったらたまたまた避ける事ができた、という感じだった。勢いに任せてアスファルトの上を転がると、「なんだコラアアア」と叫びながら体勢を整え、ファイティングポーズを取る。
だが、「それ」が動きを止め、低い体勢からゆっくり立ち上がると、藤城は目を見開いて硬直した。その視線の先を傳田も追った。そして、同じく絶句した。
人間だった。
「それ」は、人間だった。
男は傳田に背を向ける格好で立っていた。顔はこちら側からは見えない。
やっと顔を上げた丈三も、その男を認めると、目を見開いた。無理もない。巨大な背中、黒ずんだ肌、長いボサボサの髪。その男は、異常だった。一目見ただけで、異常だとわかった。丈三は地面に転がったまま、上半身だけを持ち上げるようにして呆然としている。
「藤城、丈三、逃げるぞっ」
あの男が何者なのか、そんな事を考えている暇はない。どう考えても、その男は危険だった。とにかく逃げなければならない。藤城と丈三が頷いて、足を踏み出しかけた時、その異常な男は唐突に振り返った。
「あ………」
傳田は一瞬で、恐怖に支配された。釣り上がった目、大きな鼻。細く長い輪郭。恐ろしい顔つきだったが、やはり間違いなく人間だ。身長は恐らく百九十センチを超えており、肩や腕には膨れ上がった筋肉をまとっている。秋だというのに上半身は裸で、身につけているのは汚れた腰ミノのような布のみだった。
「に、逃げなきゃ……」
後ずさった。全身が震えていた。身体を傾け振り返ろうとした瞬間、ひゅっと音がして、男の輪郭がブレた。
次の瞬間、強烈な衝撃を覚え、前後不覚に陥った。痛みを覚える前に、次の一撃。どこをどう攻撃されたのかすらわからない。まるで身体がなくなってしまったような衝撃だった。
「んっ、んっ」
気が付くと悶絶しながら地面を転がっていた。ヒクッヒクッと胃が収縮し、空気が吸えない。回転する視界の中で男の影を探した。殺される。逃げなければ、殺されてしまう。
だが、見つける前に、視界が止まった。自分で止めたわけではない。だが、頭がピクリとも動かない。かろうじて可動する目を動かして周囲を伺うと、自分の頭を踏みつけている男が見えた。
「おい、こいつか?」
嗄れた声がする。何だ? 何を話してる。
「こいつが頭か、正太郎」
恐怖からか、痛みのせいか、意識がどこかボンヤリしている。
正太郎?
必死で目を動かすと、グローブのような男の手が見えた。その先端には、金属のようにも見える鋭い爪がある。ゾクリと悪寒がした。次の瞬間、アンダースローでその爪が襲ってきた。
必死で顔を背けたが、爪先は肩に突き刺さり、学生服を切り裂いた。焼けるような痛み。思わず手をやった。ぬるりとした液体が感じられた。手を眼前にかざした。血まみれだった。それを見た瞬間、曖昧だった意識がさらに遠のいた。
気が付くと誰かが泣き喚いていた。藤城か、丈三か。
「もういい、もういい、これ以上やったら、死んでしまう」
いや、違う。自分と男の間に誰かが入って、女のように崩れ落ちている。
誰だ?
「んなもんで死ぬか馬鹿野郎、もっと傷めつけてやらねえと、こいつら、懲りねえ」
嗄れ声が言う。
「正太郎、こういうのは、思い切りやらねばダメだ」
正太郎? ……そうか。
目の前の小さな背中と、
「どけ、正太郎」
男は佐宗を強引に押しのけると、指につけた爪を傳田の顔に向かって振り下ろした。
事務所に戻ると、数名の社員が出社していた。
「おはようございます、傳田部長」
階段を降りてきた傳田に、皆立ち上がり、大げさに頭を下げる。この体育会系の雰囲気は、金井建設伝統のものだ。「ああ」と曖昧に返事をしながら自分の席に戻る。壁を背にした、数十人の部下を一望できる役職席だ。
「相変わらず早いな」
声の方に顔を向けると、同じ役職席に座って新聞を読んでいる藤城だった。最近はまた肥満が進み、球体のような身体をしている。
「坊っちゃんの事で、ちょっとな」
傳田が言うと、藤城はこちらを見て、顔を歪めた。
「なんだ、また何かしでかしたか」
「いや、そうじゃない。友達の家で、おとなしくしてるよ。久々の外泊だったんで、心配になってな」
藤城はふんと鼻で笑うと、新聞に目を戻した。
「悪ガキのおもりも、大変だな」
傳田は笑わなかった。久しぶりに思い出したあの忌まわしき記憶が、まだ意識にまとわりついている。
「なあ藤城、お前覚えてるか?」
「あ?」
藤城が面倒くさそうに紙面から顔を上げた。
傳田は無言で、自分の頬の傷をトントンと示した。藤城がチッと舌打ちする。
「嫌な事思い出させるんじゃねえよ、朝っぱらからよ」
「お前、どう思う」
「何が」
「今回の事件だ」
意味がわからないのか、藤城は眉間にシワを寄せ、黙った。
「お前、被害者見たか?」
「ああ、清掃員の方だけ、チラッとな」
「あの傷、似てると思わねえか?」
傳田の言いたい事が分かったのだろう、藤城は何度か頷いたが、やがて苦笑いを浮かべた。
「おいおい、勘弁してくれよ。大昔の話だぜ」
傳田も笑った。
「そうだよな」
「お前はいちいち考え過ぎなんだ。もっとリラックスしろよ」
そのときちょうど藤城のところに社員がやってきて、何事かを話し始めた。傳田は手元の帳簿をめくりながら、反対の手でまた傷に触れた。確かに、藤城の言う通りだ。今回の事件が、あの化物に関係しているはずはない。
だが、不安は消えなかった。
鋭い爪が肉を切り裂くイメージが浮かんで、傳田はぶるりと震えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます