傳田
傳田は受話器を置くと、まだ誰も出社していない事務所でため息をついた。
坊っちゃん、つまり金井丈三の息子・雄三の無事がわかり、安堵する気持ちはあった。だが一方で、安心したからこそ湧き上がる気持ちもあった。何も知らずに勝手を続ける「三代目」に、微かな憎しみを覚える。
いつ襲われるかもしれないというのに、坊っちゃんは相変わらずだ。
事件の事を考えると、緊張が襲ってくる。
あの日、警備員の血が飛び散った詰め所を、傳田は自分の目で見ていた。警察の話では、ひどい殺され方だったらしい。第一発見者である金井警備の職員は、遺体の状態を思い出すたびに嘔吐してしまうと言っていた。
どう考えても、この五葉町には似合わない事件だった。
そう思いながらデスクに片肘をつき、伸ばした指で頬に残る傷を掻いた。爪の先に、微かに引っ掛かりを覚える。
もう三十年以上たつというのに、その傷は皮膚の上に小さな起伏を作っている。もちろん完治してはいるが、その長さ十センチほどの傷跡は、一生消える事がないだろう。
その古い傷を爪の先で掻くのが、傳田の癖だった。
だが今は、癖というより、頭に思い浮かんだある記憶が指先を傷へと導いたのだった。
「まさか、な」
傳田はひとり呟くと立ち上がり、来客用にと用意してあるインスタントコーヒーを淹れた。カウンターに浅く腰掛け、ガランとした事務所を眺める。
金井建設株式会社の事務所は、非常に変わった造りだ。大きな館のホール半分を使って作られている。ホール全体の広さは三百平米以上、事務所スペースだけでもそれなりの広さがある。しかも、二階部分まで吹き抜けになっているので、まるで教会にいるような開放感がある。
傳田はこの職場が、好きだった。街から離れた山の上にあるので通勤には不便だが、以前の、今では旧市街と呼ばれる地域にあった社屋に比べれば、ずっといい。あの頃の社屋は、見るからに土建屋といった雰囲気の、社屋というよりプレハブのようなものだった。
こちらの「館」に移ってきて早二十年ほどたつが、金井建設は順調に事業を広げ、五葉町を代表する企業となった。町のあらゆる分野、あらゆる人間に影響力を持ち、行政までもが我々の顔色をうかがう。名誉欲や出世欲が強い方ではないが、金井建設の部長という立場に、確かな誇りを持ってはいる。
まだ社員のいない事務所は博物館のようだ。この館のデザインに合わせた、重厚な木製の机が並んでいる。その上には電話機と帳面、そしてガラス製の灰皿。傳田たちの世代にとっては昔から見慣れたものだ。最近試験的に導入されたパソコンのブラウン管モニターだけが、変に浮いて見える。
壁掛け時計を見た。そろそろ七時になる。
一応、伝えておくべきだろうな。
傳田はそう考え、カップのコーヒーを飲み干すと、カウンターから腰を上げた。
「社長、傳田です」
階段を登り、廊下を進んだ先にある社長室の扉の前で、傳田は言った。返事を待つ事もせず、ドアノブを回す。
社長室は広さ五十帖ほどの部屋で、入った正面に応接セットがあり、そのさらに奥に大きな執務机が置かれている。ソファも机も重厚で高級感があるが、ここのところ使う者のないそれらには、薄く埃の膜がかかっていた。
傳田は横目でそれを見ながら、部屋を横切った。社長室には丈三のための生活スペースが併設されている。仕切りは天井から床まで達するカーテンだ。生地は薄く、明るい時間には向こう側が透けて見える。ベッドの上で窓の方を向いている丈三のシルエットが確認できた。
「社長、失礼します」
カーテンの前で立ち止まり、頭を下げた。微かに、汗と薬剤の混じったような嫌なにおいが漏れてくる。
数秒待っても返事がなかった。傳田はゆっくり顔を上げた。丈三のシルエットは先ほどと変わらない。
嫌な予感がした。
カーテンを掴むと、勢い良く引いた。
「社長っ」
傳田の声に金井丈三は、ゆっくりと顔をこちらに向けた。その動きで、社長が死んでいるのかもしれないという不安は氷解した。だがホッとしたのも束の間、数日ぶりに見る丈三の顔に、驚きを隠せなかった。
「傳田か」
嗄れた声で丈三は言うと、それきりまた視線を窓の外に戻した。
丈三がいるのは、背もたれが持ち上がるタイプの介護用ベッドだ。肝臓を悪くして寝込みがちになった数年前に、会社の経費で購入した。
丈三の横顔を見ながら、傳田は言いようのない不快感を覚えた。ベッドの上の丈三は、まるで死を目前にした老人のようだった。痩せているのはもともとだが、頬がこけ、皮膚が垂れ、くまができている。一応髪は撫で付けられているが、傳田と同い歳とは思えぬほど、白髪が多かった。
これが、金井丈三なのか?
誰もが恐れる、金井建設の社長なのか?
傳田が絶句していると、丈三は視線をよこさぬまま、「何の用だ」と言った。
その声に、怯えが滲んでいた。
「いえ、坊っちゃんと連絡がとれたので、ご報告をと」
「そうか」
「友人の家にいるようです」
「そうか」
それきり会話は途切れた。丈三の横顔が、早く出て行ってくれ、と言っていた。
「それでは、失礼します。また何かあれば、随時ご報告しますので」
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