雄三

 山の風は、様々な音をたてる。


 布団にくるまりながら、館とはまた違って聞こえる山の声に雄三は耳を澄ませた。


 それは鳥の鳴き声のようにも、獣の唸り声のようにも聞こえる。


 眠りと覚醒のあいだ、心地よい白昼夢のような時間の中でふと、腕の中にあるものに気付く。


 自分と体温の融け合った、自分とは別の身体。


 豆電球だけが灯った薄暗い部屋の中でも、その白い肌は発光するように美しさを主張している。頬に手を置くと、沙織はピクリと震え、雄三を上目遣いに見つめた。


「なに?」


 その顔はもう、無表情に戻っている。


「なにって、別になんでもねえよ」


 雄三が言うと、沙織は視線を戻す。眼を閉じるわけではない。雄三の胸に頭を乗せ、何もない宙を見つめている。


 変な女だ。雄三はあらためて思った。


 いや、変なのは自分の方なのかもしれない。出会ってまだ一日も経っていないのに、沙織を失いたくないと強く思っている。


 行為中の沙織は、まるで別人のように乱れた。雄三の身体をまさぐり、舌を這わせ、腰を振り、喘いだ。目を固く閉じ、苦痛の浮かんだ表情を浮かべ、だが、もっと激しく、もっと早くと雄三に要求した。


「お前、さ」


 雄三は言った。


「うん」


 沙織はまた目線を上げた。


「いや、なんでもねえ」


 聞きたい事は山ほどあった。だが、沙織は答えないだろう。それに、仮に教えてくれたとしても、その答えが雄三の望んだものだとは限らない。


 男はいるのか。これは遊びなのか。俺を好きなのか。


 その答え次第で、自分が激しく揺れ動く事が想像できた。


「ねえ」


 今度は沙織が雄三に言った。


「なんだ」


「話、してよ」


「話? なんの話だよ」


「全部よ。あなたが話したい事、全部」


 沙織は表情を変えなかった。もともと冗談をいうような女ではない。沙織がそう言ったという事は、本当にそう考えているという事だ。


 そして雄三の方も、沙織に聞いて欲しかった。沙織とのセックスが、そしていま直に感じる体温が、ささくれた心を落ち着かせたのは事実だ。


 だが、問題は何も解決していない。警備員や清掃員を襲った犯人は見つかっておらず、尾藤は集中治療室の中で苦しんでおり、そして石神たちは自分を軽蔑している。


 雄三はぶるっと震えた。急に寒気がした。身体に力が入る。閉まったカーテンの向こう側に、自分に対する悪意の存在を感じた。まるで町中が自分を憎んでいるようだった。


「親父の会社……金井建設はいま、狙われてるんだ」


 雄三はゆっくりと話し始めた。


 会社の事、SCARSの事、父親の事。


 沙織はどこかうつろな目をしていたが、話をじっと聞いていた。無言で頷き、首を傾げ、また頷く。無表情だが、その手は雄三の体にしっかり巻きつき、励ますように強く抱いている。自宅の敷地内で老警備員が殺されたという話をしても、沙織は驚いた様子を見せなかった。


「どうして、殺されたの」


「そんなの分からねえよ。でも、心当たりはある」


 心当たりって? と言うように沙織が首を傾げてみせる。


「言ったろ、うちの会社はずいぶん強引な事業をやってきたから、いろんな奴から恨みを買ってるんだよ。だから、いつ狙われてもおかしくねえんだ」


「犯人は、誰なの?」


「さあな。警察もお手上げだってよ。すぐ見つかりそうなもんなのに」


 言いながら、あらためて思う。実際、どこのどいつなんだろう。第一被害者の警備員も第二被害者の清掃夫も、いずれも小柄で歳をとっていた。タイミングさえ間違わなければ、襲うのはそう難しい事ではない。


 だが、尾藤はどうだ。


 百八十センチを超え、分厚い筋肉をまとったプロレスラーのような身体。たとえ不意打ちだとしても、簡単にいくだろうか。


 うまくやれば、可能かもしれない。だが、わざわざ尾藤を標的にする事に違和感を覚えた。同じSCARSの中でも、もっと襲いやすいメンバーは大勢いるのだ。


 その事を話すと、沙織は少し考えてから、言った。


「そういう人を襲うから、意味があるんじゃないの?」


「どういう事だよ」


「そんな人だって、俺は勝てるんだぞって。それくらい俺は強いんだぞって」


「ああ」


「犯人の最終的な目的は分からないけど、ひとまずは、そうやってあなた達を怖がらせるのが目的のように思える。標的が金井建設なら、社長のお父さんに危害を加えるのが一番早いわけでしょう?」


「まあ、それはそうだ」


 雄三は頷いた。確か明日葉もそういうような事を言っていた。


「でも、尾藤は強いぞ。襲ったはいいが返り討ちになる事だって考えられる。そんな奴をわざわざ選ぶか?」


「私は犯人じゃないから、分からない。でも実際、そのお友達は病院にいる。犯人はきっと、勝つ自信があったのよ」


 雄三が唸り、そのまま黙っていると、沙織は身体を起こした。腕につけていたヘアゴムで長い髪をまとめると、「トイレ」と全裸で布団から出て、コタツの傍に脱ぎ捨てられたセーターを着ながら、部屋を出ていった。


 勝つ自信があった、か。


 そう考えると、はじめて犯人の体温のようなものを感じた。あの尾藤にすら向かっていける男。そして、警察の目をかいくぐり、今もきっと金井建設を狙っている男。


 思わず窓の方を見た。女の泣き声のような風の音が聞こえている。カーテンが閉まっている事が、逆に恐ろしかった。いま、あの向こうに、犯人が立っているのではないか。暗闇の中で、俺を狙っているのではないか。


 布団を掴んで引き寄せながら、身体を横たえた。早く沙織が戻ってくる事を、子供のように願った。





 次の日の朝、震える携帯電話で目を覚ました。


「うるせえな」


 文句を言いながら身体を起こす。思いのほか冷たい空気にブルッと震える。徐々に視界がはっきりしてきて、ここが自分の部屋でない事を思い出す。隣を見ると、こちらに背を向けた裸の沙織が眠っていた。


 布団を出て、コタツの上で痙攣している携帯電話を手にとった。折りたたみ式の最新型。本体を開くと、発信元を確かめずに終話ボタンを押した。振動が収まる。


 とにかく寒い。コタツの周囲に脱ぎ散らかしていた服を急いで身につけ、電気ストーブの電源を入れたが、すぐに温風が出てくるわけではない。


「ああ、クソ寒ぃ」


 諦めてコタツに入ったが、こちらも電源が切られていた。手を突っ込んでケーブルを探し当て、「最大」のところまでバーを引き上げる。徐々に足元が暖かくなっていく。ホッとしながら手を突っ込み、コタツの中で揉む。


 また携帯電話が震え始めた。舌打ちをして引っ掴むと、本体を開いて画面を見た。未登録なので表示されるのは番号だけだが、一目見ただけでそれが金井建設の事務所からだと分かる。思わず画面上部にある時刻を確認した。朝七時。まだ始業時間前だ。


 寝起きでまだぼんやりしている頭に、じわじわと嫌な予感が広がっていった。


 傳田でんだから電話で事件の発生を告げられたのは十日ほど前の事だ。あの日から、全てがおかしくなった。


 警備員が殺され、虫の息の清掃員を発見し、そして尾藤が襲われ、そしてSCARSから追い出された。


 走馬灯のようにいろいろな事が頭を過ぎていく。


 やがて手の中で震えていた携帯電話はおとなしくなった。それに安堵し、一瞬後に不安になる。いったい、何の連絡だったのだろう。


 振り返って布団を見る。沙織はこちらに背を向け、さらに頬まで布団を引き寄せているので、顔は見えない。まだ眠っているようだ。


 雄三はコタツから出ると、革ジャンを掴んで部屋を出た。ピンと張った冷たい空気が全身を包み、意識を覚醒させる。玄関の上部にある小窓に、朝の日差しが差し込んでいた。ブーツをつっかけると、音を立てないように扉を開けて外に出る。


 木々が作る自然の壁、そして地面を埋め尽くす落ち葉。


 夜にはほとんど見えなかった家の周囲の様子に、雄三は新鮮な気持ちで視線をやった。


 随分放置されていたのだろう、雑草は伸び放題で、木々も自由にその枝葉を伸ばしている。だが、それはそれで悪くない風景だった。ゴミはひとつも落ちておらず、道路からは死角になっていて、まるで秘密の庭のような雰囲気がある。


 空は曇っていた。日差しはあるが、決して暖かくはない。


 携帯電話を開いたのと、再度の着信があったのはほぼ同時だった。


「なんだよ、朝っぱらから」


 ワンコール目で出た雄三に、傳田は一瞬言葉をつまらせた。


「あ、坊っちゃん、ご無事で」


「はあ? 何言ってんだお前」


「バイクがなかったので心配していたんです。外泊なんて、ここのところしてなかったでしょう」


「別に、ダチんとこに泊まっただけだ。それより、何かあったのか?」


 傳田は何か言いたげに黙ったが、やがて「いえ、何も」と言った。


 いつもの、重苦しい沈黙が降りた。


「じゃあ、用がねえなら切るぜ」


「坊っちゃん」


「何だよ」


「……」


「おい、何だよ」


「……いえ、何でもありません」


「……何なんだよ、一体」


 歯切れの悪い傳田に苛立ちながら、雄三は終話ボタンを押した。

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