雄三
仲間たちのバイクの音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
誰もいなくなったガレージで、何をどう考えたらいいかも分からず、突っ立っていた。
いつの間にか震えが来ていた。寒さで風邪をぶり返したか、それとも――
ふらつきながらガレージを出た。辺鄙な場所にあるここは、SCARSの溜まり場だと知られている事もあり、施錠しなくてもイタズラされる事はない。
息苦しさも、頭痛も、ひどくなっていた。それに寒い。
坂道を降りると、自分の愛車が倒れているのが見えた。草むらに横たわるバイクが、自分の遺体のように見えて、恐怖を覚えた。
必死になって立ち起こした。タンクに反吐がついていた。仲間の誰かが蹴倒し、ツバを吐いたに違いなかった。草の葉を千切ってそれを拭った。涙が出ないよう、奥歯を噛んだ。
エンジンを掛けて勢い良く道路に飛び出した。時刻は八時を過ぎ、周囲は完全に夜になっている。旧市街を抜け、黒々とした木の影が揺れる山へと向かった。
焼坂峠へと続く坂を登っていく。ガードレールが自分を誘う蛇のように見える。スピードを上げる。やがてT字路が見えてくる。右へと曲がれば、自宅の方面へと続くいつもの林道だ。
雄三はふと、峠へと伸びる直進方向の道路を見上げた。数時間前にドライブインで出会った奇妙な女の事が思い出される。
まるで泣いているみたいよ、あなた。
あの女はいったいどういうつもりで、あんな事を言ったのだろう。
……泣いているみたい、だって?……
笑おうとしたが、無理だった。
導かれるようにアクセルを開いて、直進した。
営業を終え消灯されたドライブインは、まるで廃墟のようだ。街灯もほとんどないここでは、二十四時間営業している自動販売機の光だけが頼りだ。
バイクを乗り入れて、自販機の前に停める。缶コーヒーを買い、タバコに火をつける。
ガードレールに、店側を向いて座った。月明かりに照らされて、ガラス越しの店内が見える。当然、誰の姿もなかった。
いるはずがない。そんな事は分かっていた。
熱い缶コーヒーを握りしめ、タバコをゆっくりと吸う。根本まで吸ってしまえば、コーヒーを飲み干してしまえば、また自分はどこかに行かねばならない。だが、どこへ行けばいいというのだろう。家に捜査本部が立ち、SCARSの仲間とも離れた今、雄三には居場所がなかった。
新しいタバコに火をつける。ほんの少し前まで、ここは唯一ホッとできる貴重な場所だった。金井建設の息子、そしてSCARSの頭という役割から離れ、単なる一人の人間として存在できる、大切な時間だった。だが今は、他の居場所を奪われ、ここに追い詰められている。
寂しさに押しつぶされそうになり、思わず立ち上がる。
すぐに寒さに身が縮み、身体を抱き、またしゃがみ込む。
山独特の躊躇のない風が、吹き付けてくる。
もう、ダメだ。
俺は、もう。
――その時、金属がきしむようなノイズが、風に乗って耳に届いた。
音のした方に目をやると、暗がりの向こうから、キイ、キイ、と音を立てながら何かが近づいてくる。一瞬、幽霊でも出たのかと身を固くしたが、よく見ればそれは、自転車だった。
乗っているのは――
「ああ、やっぱり」
十メートルほど向こうで停車し、女は言った。
昼間と同じ、ぶかぶかのジャケットにジーンズ。長い髪。
「な、なんだよ、こんな時間に」
女はポケットから小銭を取り出すと、自販機でペットボトル入りの飲料を何本か買った。それを自転車のカゴに入れながら「飲み物がなかったから、買いに来たの」と言った。
「買いに来たって、お前、どこに住んでんだよ」
雄三は思わず周囲を見回した。ここは峠も近い完全な山中だ。林業などに携わる人間を除いて、人が住むような場所ではない。それも女が、こんな時間に飲み物を買いに来るのはどう考えても不自然だった。
「近くの、借家」
「はあ? 借家だ?」
女は微かに戸惑ったような表情を浮かべた。それが、女が初めて見せた表情らしい表情だった。自販機の頼りない光に照らされた女の顔が、どこか自嘲的な笑みに変わる。その微かな変化にすら、見ている人間を引きこむような、不思議な魅力があった。
「私、
いつの間にか無表情に戻った女は、雄三をまっすぐに見つめ、自己紹介した。
「俺? 俺は――」
本当に何も知らないのか。俺が誰なのか。金井建設の存在も?
「俺は、雄三。金井、雄三だ」
沙織は目を細め、微かに頷いた。それから自転車のハンドルを持ち、スタンドを外す。
「あ、おい」
ペダルを漕ぎかけた沙織に、思わず声をかけた。
「何?」
「お前、ここに俺がいるって分かってたのか?」
沙織は軽く首を傾げた。質問の意味がわからないらしい。
「だからお前、俺を見て、やっぱり、って言っただろ」
「ああ」
沙織は頷いた。
「バイクの音が聞こえたから。それに、いつもここに座ってるでしょ?」
「そうか」
「ええ」
会話が途切れた。どうしてそんな質問をしたのか、自分でも分からなかった。いや、ただ沙織をここに留めておきたかっただけなのかもしれない。あるいは、沙織が自分に会えると期待してここに来た事を望んで――
冷たくなった風が吹いた。皮膚を透かして、内臓の隙間を突き抜けていくような風。
「なあ」
雄三は言った。
「お前の家、近いのか?」
沙織は目を細めて、雄三を見つめた。
そのまましばらく、黙った。
「ええ、近いわ」
やがて沙織は言った。
沙織がバイクに乗りたいというので、自転車をドライブインの駐輪場に置いて、二人乗りをした。
沙織の家は、ドライブインからさらに山を登った先、焼坂トンネルの手前にあった。
「そこ、曲がって」
言われるままに、木と木が途切れた狭い空間にバイクを乗り入れた。道路からは見えなかったが、そこはバスケットコートほどの平地になっていて、一軒の家が建っていた。
大きな家ではない。どこにでもあるような、特徴のない平屋だった。玄関先にポツンと、乳白色の電灯が灯っている。
「バイクは、適当に停めて」
リアシートから降りた沙織は、ジーンズのポケットから鍵を取り出し、玄関の方へと歩いていく。雄三はその未舗装の地面の上でエンジンを切ると、建物のそばまで移動させ、スタンドを立てた。
「早く。寒いよ」
扉の中から沙織が言った。その細い体の向こう側には、あたたかそうな暖色の照明が灯っている。
「ああ」
床の間で靴を脱ぎ、あがる。石油ストーブのにおいがする。
沙織について居間に入ると、小ぶりなコタツが置かれていた。それは最近のデザインで、古い家の雰囲気とはミスマッチだ。家具類は必要最低限のものしか置かれていない。冷蔵庫、小さな本棚、洋服ダンス、そしてコタツ。それらは皆新しいもののようだった。
「越してきたばかりなのか?」
所在なく立ったまま、雄三が聞いた。居間と隣り合う台所にいた沙織が、不思議そうにこちらを見る。
「家具が新しいからさ」
沙織はそれに初めて気付いたというように、部屋を見回すと、「ええ」と頷いた。
「ここに住み始めて、まだそんなに経っていないの」
「どこから来たんだ? なんでこんな場所に住んでる」
雄三としては当然の疑問だった。だが沙織ははっきりと言った。
「言いたくないわ」
その理由を添える事もなく、沙織はそれきり黙り、ガチっという音を立ててコンロに火をつけた。
カーテンとカーテンの間に五センチほどの隙間がある。こんな山奥だから当然だが、窓の外は真っ暗だった。
沙織が話さないので、機嫌を損ねてしまったかと思いながら台所に入ると、フライパンの中にはトマトソースが作ってあり、鍋の中ではパスタが茹でられていた。沙織は冷蔵庫――これも新しかった――からレタスを取り出し、水で洗う。
「空いてるでしょう、お腹」
何事もなかったように言う沙織に、ああこの女はこういう女なのだと、納得した。
奇妙な、不思議な女だという事に違いはない。だが、こいつはただ、思った通りの事を言っているだけなのだ。正直というより、嘘がつけないというより、そもそも気持ちを隠したり取り繕ったりする気がないような。
「できるまでそっちで待ってて。見られてると、気が散るから」
言われた通り、居間に戻った。コタツに入ると、その暖かさに、むしろ自分の身体の冷たさが感じられる。肩を縮め、台所の沙織を盗み見る。
ここには、警察も、SCARSも、父親も、いない。
いるのは、俺の事を知らない、金井建設を知らない、変な女だけだ。
やがて沙織は無言で料理を運んできた。シンプルなトマトソースのパスタと、サラダ。サラダには干しぶどうが入っていた。
「食材とか、どうするんだ。車も持ってねえんだろ?」
フォークとスプーンを受け取る。うまそうな匂いが立ち上っている。
「トマトは缶だし、パスタは乾麺だし。野菜とかはドライブインで買うわ。飲み物も」
ああ、と納得しながらスープを一口飲んだ。ちょうどいい味だった。何より、暖かさが身に沁みた。缶コーヒーではこうはいかない。
「あなた、有名人なんだってね」
皿が空になった頃、沙織が言った。
「何か、大きな会社の社長の息子なんでしょ」
雄三は手を止めて、沙織を見た。
瞬間的に、落胆と怒りが膨れ上がった。
「それがどうしたよ、ああ?」
フォークをテーブルの上に叩きつけるように置き、沙織を睨んだ。
何だよ、こいつも結局同じじゃねえか。俺の立場を知って近づいてきた。目的は金か、権力か。いずれにせよ雄三自身ではない。
沙織は慌てる様子もなく、じっと雄三を見つめて、それから首を振った。
「別に。よそ者の私にはよく分からないし。それに」
沙織は微かに目を細めた。
「そういう立場で過ごすのって、大変そう」
「え?」
沙織は空になった雄三の皿を取り、自分の皿に重ねると、立ちあがった。
「その話を聞いて、あなたがそんな顔してる理由が、なんとなくわかった気がしたわ」
変わらずの無表情で沙織は言うと、食器を持って台所に戻り、洗い物を始めた。
雄三コタツにあたりながら、沙織の言葉をただただ反芻した。
小さな、だが確かな予感があった。何かが弾けそうな予感。いや、それは予感というより、期待といった方がよかった。
理解してもらえるかもしれない、という期待と、そんなはずはないという恐れ。それらが表裏一体となった感情だ。
やがて沙織は、ミカンの袋を手に戻ってきた。ドライブインのバイト仲間がくれたと言い、コタツに入りながら、ひとつを雄三に手渡した。
受け取るとき、水で湿った沙織の手に触れた。温水など出ないのだろう、その冷たくなった白い皮膚に、何か言いようのない愛しさを覚えた。
二人で黙ってミカンを食べた。
「さすがに、静かだな」
思わず雄三が呟くと、沙織は頷いた。
「ええ、静かね」
「でも、不便だろ、こんな場所」
「別にそうでもない。ドライブインで何でも手に入る」
「でも、ずっと一人なわけだろ。そういうの、辛くねえのか?」
雄三はふたつ目のミカンに手を伸ばしながら言った。
「辛い? 何が?」
「いや、だから」
沙織にまっすぐ見つめられ、雄三はたじろいだ。
「だから、誰もいねえのって、嫌だろ。つまんねえし」
言いながら雄三は違和感を覚えた。自分の考えとは、どこかで違う事を言っている感じがした。
「あなただって、いつも一人で来てるじゃない」
沙織に躊躇なく指摘されて、一瞬言葉が詰まる。
「……あれはなんつうか、息抜きみたいなもんで、一人になりたくてそうしてるんだ」
「私だって、そうよ」
思わず黙った。詳しい事情は分からないが、確かに沙織は、自ら進んでこの生活を送っているような気がした。一人で淡々と過ごし、それに満足している気がする。
だが、雄三が言いたいのはそういう事ではなかった。
一人になるのと、一人になってしまうのは、まるで違う事なのだ。
黙っていると、沙織は無言で立ちあがり、雄三の脇を通って窓際まで行った。石油ストーブに熱せられた空気の間に、微かに女の匂いがした。思わず目で追うと、沙織はカーテンの合間に見えていた窓からしばらく外を眺め、それからジャッと音がするほど素早く、カーテンの隙間をしっかり閉じた。
その動作に雄三は、不思議な安堵を覚えた。まるで沙織が、外の世界から自分を守ろうとしているような、そんな気がしたからだ。カーテンが閉められて、この部屋は完全に外とのつながりを失った。居間がひとつの閉じられた空間になって、自分を包んでいる。
沙織はまた無言でコタツに戻ってきたが、今度は雄三の向かい側でなく、隣に座った。女の匂い。ほんの数十センチのところに、美しい沙織の横顔がある。
ドクン、と動悸がした。
沙織はミカンをむき始めた。丁寧に皮を破り、白い筋をその補足長い指でひとつひとつ取り除いていく。
昨日までは知らなかった女。今でも、名前とバイト先以外は何もわからない女。愛想のない言葉遣いや、ニコリとも笑わぬ無表情に、なぜこれほど愛しさを覚えるのだろう。
「俺」
もう耐えられなかった。
ずっと、誰かに聞いて欲しかった。
「俺、な」
沙織は手を止め、雄三の顔を見つめた。
「うん」
「――仲間が襲われたんだ。意識不明で、今も病院で」
決壊は一瞬だった。言葉は、続かなかった。
「うっ」
雄三は歯を食いしばった。だがその隙間から、嗚咽が漏れだした。悲しみとも悔しさともつかない巨大な感情が、喉元をせり上がってくる。
「俺は……クソ……俺はいったいどうすりゃいいんだよ」
もうだめだった。雄三は子供のように沙織にしがみついた。沙織の細い体が、雄三の体を支えきれずに畳の上に倒れる。
「クソ、どうすりゃ……どうすりゃ」
下心などなかった。ただ誰かに聞いて欲しかっただけだ。
だが意外な事に、沙織の方が誘ってきた。雄三の手を取ると、セーターの裾の下へと導いた。やがて指先が、硬いブラジャーに触れる。思いのほか大きな胸。あたたかい胸。
沙織は雄三の手の上に、自分の手を重ねた。反対の手で雄三の首を引き寄せ、既に熱を持ち始めた声で、言った。
「こうすればいいの。私に、ぶつけて」
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