雄三
捜査本部は既におおよそできあがっていた。
場所は、社長室のほぼ向かい側。会議室として使われていた、三十帖ほどの部屋だ。
複雑な気持ちで中を覗いた。灰色のデスクとチェア、ホワイトボード、木製の長机をくっつけた会議スペース、ブラウン管モニターのパソコンが数台と、たくさんの電話機。
テレビドラマで見る警察署そのままだった。明日葉と数名の警官が談笑しているその奥で、手帳に目を落とす本宮の背中が見えた。
本宮は尾藤雅の一件を知っているのだろうか。ふと、そんな事を考えた。
愚問だった。知っているに決まっている。
雄三はなぜか、嫌な気分になった。本宮には、知られたくなかったのかもしれない。
自分の仲間が襲われた事。そして、その原因が自分にあるらしい事。
――いい町です。ずっと暮らしたいくらいに。
本宮の言葉が思い出された。
雄三は黙って部屋に戻った。窓際まで行き、紺色に染まった景色を避けるように、カーテンを引いた。ベッドに腰掛け、ポケットから携帯電話を取り出す。
すぐに石神に電話をかけるべきだ。そして、さっき出れなかった事を詫び、尾藤の事を刑事から聞いたと言うべきだ。
画面を見る。ボタンを操作して、石上誠の番号を表示させる。あとは通話ボタンを押すだけだ。
簡単じゃねえか。ドライブインと同じ事を考える。だが、あの時以上に、それはひどく難しい事に思えた。
「クソ……」
ショックだった。
尾藤が襲われた事。もちろんそうだ。筋肉隆々の身体、しかも喧嘩慣れしたあの尾藤が、やられた。後ろから殴られたのだとしても、突堤のような見晴らしのいい場所で、犯人が近付いてくる事にすら気付けなかったのだろうか。
それに、あの巨体を倒す事のできる「鈍器」とはいったいなんだろう。SCARSの中でも一二を争う武闘派で、頭のネジが数本外れたヤバい奴だった。それが。
意識不明の重体? 集中治療室?
だが、雄三がショックを受けた一番の理由は、尾藤の襲撃が自分のせいで行われたという指摘だった。
チーム同士の抗争なら、どんなによかっただろう。
金井雄三の名が知られた今では逆らってくるチームも激減したが、それでも以前は、いろいろなチームと揉めていた。力を試したくて、仲間を守りたくて、カッコつけたくて。相手と殴り合い、血みどろになっていても、その行動の理由は前向きだった。喧嘩を終えたあと、意気投合して仲良くなった奴もいる。
だが、今回は違う。
頭の中に、血しぶきの散った詰め所の壁や、腹を裂かれた清掃員の姿が浮かんだ。
これは、単なる喧嘩じゃない。凶悪犯による、襲撃だ。
恨みか、金が欲しいのか。いずれにせよ標的は金井建設で、尾藤雅は、雄三と近しい関係だったからこそ、襲われたのだ。
関係ない。そう思いたかった。だが、無理だった。
「俺のせいだ」
雄三は助けを求めるように呟いた。
SCARSのガレージには明かりが灯っていた。
日が落ちて気温が下がったからだろう、扉は閉じられていた。だが、その手前に並んだバイクと、内側から漏れてくるステレオの音で、中にメンバーたちがいる事が分かる。
仕事もまともにしていないチンピラどもだ。毎日退屈で仕方なく、常に刺激を求めている。
雄三はガレージの二十メートルほど手前でエンジンを切った。スタンドを立て、バイクから降りる。
緩い未舗装の坂道を登ってガレージに近づいていく。この辺りには老人しか住んでいない。街灯もほとんどないので、辺りは既に真っ暗だ。コンバットブーツのソール越しに、乾いた土の感触を感じる。
幸か不幸か、いつもなら外でウダウダしている下っ端の姿がなかった。なまじ昼間が暖かったせいか、夜の寒さが際立つ。雄三は身体を縮こまらせながら、革ジャンのジッパーを上げた。狭いポケットに手を突っ込んで、縮こまりながら近づく。
結局、石神に電話をかける事はできなかった。だが、かといって一人部屋に閉じこもっている事もできず、どうしていいか分からぬままバイクで飛び出した。気付けばここ、SCARSのアジトのある旧市街にいた。
ガレージの壁を前に、雄三は耳を澄ませた。
激しいロックミュージックの間に、誰かの声が聞こえる。怒っているような怒鳴り声。
……なんだ?……
雄三は壁に沿って移動し、そして、扉の隙間から中を伺った。広いガレージの中央に、メンバーが集まっていた。床に直置きされたステレオから、テンポの早いメロディックパンクが流れている。その明るい曲調とは裏腹に、メンバー達の背中からは緊張した印象を受ける。
……何やってんだ?……
気付かれぬよう注意しながら体勢を変えると、人だかりの中心にいる石神の姿が見えた。いつもの人懐っこい笑顔ではなく、眉間にシワを寄せた難しい表情をして何かを話している。音楽がうるさく何を話しているのかは分からない。
その時、メンバーの一人が一歩前に出た。SCARS歴数年の中堅どころ、
次の瞬間、石神の素早いフックが飛んだ。
卜部は反応できずに拳をもろに受けた。頬を押さえ、数歩後ずさる。周囲のメンバーたちに緊張が走り、数人が卜部を支え、数人が石神を止めようとその周囲を取り囲む。
石神は何事かを怒鳴り、やがてメンバーたちはもとの位置に戻った。最後に卜部が石神の前まで行き、膝に手を置いて頭を下げた。内容は分からないが、先ほどの発言を詫びているのだろう。石神は頷いて、卜部の肩に手を置いた。言い聞かせるように何かを言っている。
その様子を見ながら、雄三は強烈な疎外感を覚えていた。
どう見ても、石神がリーダーだった。
卜部は、石神の話を素直に聞いていた。何度も頷き、頭を下げ、メンバーたちの中に戻ってくるときの顔に、不満の色は見えない。それから石神はまたメンバーたちに向かって何かを話し始めた。その顔には自信が満ちていて、聞く者の情熱を掻き立てる何かがある。メンバーの心が石神に向かってまっすぐまとまっていくのが、雄三にははっきり分かった。
疎外感は、怒りへと姿を変えつつあった。
何だこりゃ。
俺の入る隙間なんて、ねえじゃねえか。
拳を握った。奥歯を噛み締めた。話が終わったのだろう、メンバーは解散し、思い思いの場所に戻っていく。その中の数人が、ガレージの入口に立つ雄三に気付いて、驚いた表情を浮かべた。
もう耐えられない、と思った。
雄三はずかずかとガレージの中に入っていった。呆気にとられるメンバーの合間を縫って、ソファに座っている石神へと近づいていく。石神は瓶入りのコーラを飲んでいた。一仕事終えたような、充実した表情。それがまっすぐに近づいてくる雄三に気づくと、微かに不穏の色を帯びた。
もういいよ、石神。馬鹿にしやがって。
雄三は無言で殴りかかった。石神が立ち上がってガードを上げる直前、雄三の拳が顎を捉えた。石神の手からコーラが投げ出され、コンクリ床の上で転がる。
「何すんだこの野郎!」
石神は怒鳴ったが、顔をしかめ顎を押さえているだけで、殴り返してこようとはしない。それがまた腹立たしかった。
「馬鹿にしてんじゃねえよ」
再度飛びかかりパンチを繰り出したが、石神はボクサーのように上半身を動かしてそれらを避けた。
「おい、雄三さん、やめろって」
腕を振り回すが、全く当たらない。なぜ石神は殴り返してこない。悔しさが疲労となって襲ってくる。息が荒くなり、動きが鈍る。
やがて雄三は動けなくなった。肩で息をしながら、石神を睨んだ。
「おいコラ、舐めた顔してんじゃねえよ、かかって来い」
雄三の言葉に、石神は顔を歪ませた。視線を逸らしてチッと舌打ちすると、ゆっくりと近づいてくる。
肩を掴まれた。
殴られる、そう思って目を閉じた。
だが、どれだけ待っても拳は飛んでこなかった。
目を開けると、目を細めた石神の顔が、そばにあった。
「雄三さん、どうしちまったんだよ。最近のあんた、本当にメチャクチャじゃねえかよ」
石神は本気で心配しているようだった。一瞬心が溶けかけたが、すぐに疑心暗鬼が顔をもたげる。石神の手を振り払うと、メンバーたちにも聞こえるような大きな声で言った。
「お前にとっちゃ、その方がいいんじゃねえか?」
笑いがこみ上げてくる。頭が痛い。
「はあ? 何の話だよ」
「俺がクビになりゃ、お前がSCARSの頭だろ? いや、もうお前が頭みてえなもんじゃねえか」
「おいおい、おかしくなっちまったのか? ウチの頭はあんただろ」
雄三は唇の端に溜まった唾液を袖口で拭った。
「見てたぜ、偉そうにしやがって。いつからお前、そんな偉くなったんだよ」
「雄三さん、やめろよ。俺だっていい加減怒るぜ」
「お前らもよ」
雄三は石神の言葉を無視し、周囲で黙っているメンバーたちを見回す。
「そう思ってんだろ? 俺より石神のほうがいいって、俺の話をあんな真剣な顔で聞いた事があったかよ、てめえら」
「雄三さん……もうやめてください」
卜部が泣きそうな顔で言った。他のメンバーたちも、皆憐れむような目で雄三を見ていた。
いや、憐れみではない。それは既に、拒絶だった。少なくとも雄三にはそう感じられた。思わず視線を逸らした。彼らの目を、まともに見られない。
「もういい、分かったよ。お前らの好きにすりゃいいじゃねえか」
雄三はそう言って振り返り、メンバーの輪を割って出ていこうとした。
その時、背後で石神が言った。
「尾藤が襲われたんだ」
雄三は足を止めた。
「誰かに殴られて、意識がねえそうだ。相手は不明。何の手がかりも見つかってねえ」
石神は重々しい口調でに話した。雄三がこの件を知らないと思っているのだろう。だが実際は、逆だ。知っているからこそ、知らされたからこそ、居てもたっても居られずここに来たのだ。
「あいつ、病院の集中治療室で、意識が戻らねえんだぜ。相手が誰なのか、目的が何なのかは知らねえが、内輪揉めしてる場合じゃねえんだ」
石神の言う通りだった。確かに、揉めている場合ではない。いつもなら、大切な仲間を襲った相手をすぐにでも見つけ出し、二度と逆らえないような目に遭わせてやるところだ。
だが、石神は知らない。
尾藤が襲われたのは、雄三のせいだという事を。
そして雄三はその事を、皆に隠しておきたかった。
「俺たち今から病院に行こうって話してたんだ。もう目を覚ましてるかもしれねえ。そん時に、大丈夫だ心配ねえって、俺たちがついてるって、元気づけてやりたいだろ」
石神の言葉に、メンバーたちも真剣な顔で頷いた。
「だから雄三さん、何があったか知らねえけど、俺たちと一緒に病院に行こう。尾藤の奴も、きっとあんたを待ってるぜ」
石神の言葉には、尾藤に対するのと同じ、いやそれ以上に雄三を気遣う温度が感じられた。
どうしてこいつはこんなに優しいのだろう。
いきなり殴りかかり、ひどい暴言を吐いた自分に、こうして手を差し伸べてくれる。
強烈な自己嫌悪の裏側で、石神に対する感謝の気持ちが膨らんだ。石神の言う通り、今すぐ皆と病院に向かい、尾藤を見舞うべきだ。そもそも自分自身、本当はそうしたいと思っているのだ。
――だが。
「誰が行くか」
口から出たのは、感情とは裏腹な言葉だった。
皆の驚きが沈黙となって襲ってきた。
「雄三さん? ……あんた、何言ってんだ?」
微かに震えた石神の声。
「おい、仲間が襲われて、意識不明なんだぜ。なんで――」
雄三は俯いて、無言で応えた。石神の、皆の驚きが、やがて落胆に、そして怒りへと姿を変えたのをはっきり知覚した。
「――わかった。もういい」
行くぞ、と石神が低く言って、メンバーたちを連れて出口の方へと向かっていった。突っ立ったままの雄三の横を、まるで吐瀉物を避けるように皆が過ぎていく。
惨めだった。それ以上に、悲しかった。息が苦しく、頭が痛い。土下座でもなんでもして、今すぐに許しを請うべきだと思った。そうしなければ、取り返しの付かない事になると分かっていた。
だが、できなかった。
自分と一緒にいれば、彼らも襲われるかもしれない。頭を割られ血まみれになった石神の姿が思い浮かんだ。これ以上、こいつらに迷惑をかける訳にはいかない。金井建設の問題に、巻き込むわけにはいかない。
「雄三さん」
石神に呼ばれ、顔を上げた。
「メンバーの中にはな、最近のメチャクチャなあんたを見て、もう出てってもらった方がいいんじゃねえかっていう奴もいたんだ。だが俺はそういう事を言う奴は思い切りぶん殴ってやった。ふざけた事言ってんじゃねえってな」
先ほど、ガレージの外から見た風景が思い出された。石神が卜部を殴ったのも、もしかしたらそういう経緯だったのかもしれない。
「信じてたんだぜ、俺ぁよ」
石神はブッとつばを吐くと、雄三を睨んで、出ていった。
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