雄三

 雨はやみ、代わりに太陽が輝いて、季節外れの暖かさとなった。


 すっかり乾いた路面をバイクで走りながら、雄三は本宮の言葉を思い出していた。


 確かに、言われた通りだった。犯人の動機や目的が金井建設に対するものなら、自分が襲われてもおかしくはない。


 海外では、資産家の子どもを誘拐して身代金を要求する事件は珍しくない。大切な跡取りを奪われて親は半狂乱となり、言われるままに莫大な身代金を用意する。金井建設が標的である以上、犯人にとって自分は格好の「エサ」なのだ。


 エサ。金井建設の、金井丈三の意識を引くための、エサ。


 雄三は奥歯を噛み締めた。つきまとう丈三や会社の影には、うんざりだった。何をしていても、どこにいても、自分は「金井建設の社長の息子」だ。雄三を雄三として見てくれる人間は誰もいない。


 気付くとT字路まで来ていた。


 左に曲がれば旧市街へ下り、右に曲がれば焼坂峠のトンネルに出る上り坂。


 旧市街にあるSCARSのガレージには、石神や尾藤らがいるかもしれない。そう思うと、急に寂しさが募ってくる。快晴の空が、それをさらに煽る。


 だがハンドルは、焼坂峠方面へと舵を切った。


 喧嘩別れのような状態の中、自分からガレージに出向くのは、どうしても嫌だった。それは自分の非を認めた事になる気がした。


「クソ……」


 雄三はアクセルを思い切り開ける。上り坂だが、パワーがあるのでバイクはぐんぐん登っていく。ガレージから遠ざかっていく自分の背中を、石神たちが冷ややかに笑って見ている気がした。



 しばらく登ると、木々の合間に寂れたドライブインが見えてきた。


 雄三はいつも通りその駐車場にバイクを乗り入れると、自動販売機の前に停車し、缶コーヒーを買った。


 十月とは思えない気温だ。バイクを降りた途端に汗が出てきた。革ジャンを脱いでハンドルに引っ掛ける。ガードレールに腰掛け、タバコを取り出す。


 駐車場は相変わらず空いていて、ここがどうやって採算をとっているのか不思議になる。それでも今日は、いつもよりは多少客の姿が見えた。恐らく、山を超えてやってきた観光バスが、休憩か何かの為に寄ったのだろう。


 ガラス窓の向こうで、腰の曲がりかけた年寄りたちが買物をしている。楽しそうに笑いながら、珍しくもない土産物を手にとってレジに運ぶ。何がそんなにおかしいのか、ここまで声が聞こえてきそうなほど、大口を開けて笑っている。多分、老人会か何かの集まりで、あまり遠くに行けないからと、五葉町のような小さな観光地を選んだのだろう。


 だが、爺婆は、この潰れかけたドライブインですらああも喜び、饅頭や魚の干物をわんさか買う。自分の子や、あるいは孫に、土産として持って帰るのだろうか。


 あの老人たちが家で子や孫に迎えられ、買ってきた土産を得意げに見せる場面を想像すると、なぜか胸が苦しくなった。子や孫は爺婆の買ってきた地味な饅頭に文句を言うかもしれない。だがきっと、それでも結局は笑いながら、一緒の部屋でそれを食べるのだ。


 そういう当たり前の風景が、うらやましかった。


 やがて老人たちはゾロゾロと店から出てきて、駐車場のバスまで戻っていった。観光バスとも呼べないような、古びたマイクロバス。それは思いのほか乱暴なエンジン音をたてながら雄三の前を横切り、駐車場を出ていった。


 雄三はバスが見えなくなるまでその様子を見ていた。


 ふと人の気配を感じて顔を戻すと、十メートルほど向こうに、女がいた。深々と頭を下げている。


 一瞬、自分に対してそうしているのかと考えた。金井建設の社員たちがいつもそうするように。


 だが、違った。その女は売店の店員で、買物をしてくれた客を見送るために、わざわざ店の外にまで出てきたのだ。


 長い黒髪が、風に柔らかく揺れていた。白いセーターに、スリムジーンズ。足元は薄汚れた白のオールスターだ。


 やがて女は顔を上げた。雄三は思わず息を呑んだ。


 初めて見る女だった。


 ドライブインの店員の顔を全て覚えているわけではない。だが、その女には一度見たら忘れられないような独特の雰囲気があった。痩せていて少し猫背で、背中まで黒髪が伸びている。真っ白な肌をしていて、化粧気はない。切れ長の目をした、地味なタイプの美人だった。


 思わずその顔を見つめていると、女も雄三に気付いた。


 そのまま無言で見つめ合った。


 女は目を逸らさなかった。白い肌のせいで余計に黒く見える瞳で、雄三の視線をまっすぐに受け止めていた。


「なに?」


 女がそう言ったのは、かなりの時間が流れてからだった。


 雄三はまるで夢から醒めたような気分で、「いや」と口ごもった。


「別に、何でもねえよ」


 雄三が言うと、女は微かに首を傾げ、だが結局何も言わずに振り返ると、店の方へと歩き出した。


 その細い背中を見ながら、女とあんな風に見つめ合った事があっただろうかと考えた。


 今まで会ってきた女は、薄っぺらい女だった。その権力や財力、あるいはSCARSの頭という立場に群がった、中身のない女たち。雄三に対しては、媚びるか甘えるか泣くかのどれかしかなかった。あんな風に、真顔でまっすぐに見つめ合った事など、きっと一度もなかった。


「おい」


 気付くと呼びかけていた。女は立ち止まり、振り返った。


「なに?」


 どこか虚ろな、濡れたような目が、キレイな黒髪の間からこちらを見ていた。


「お前……俺の事知らねえの?」


 雄三は、自分でも馬鹿かと思うような事を聞いた。


 女はまた首を傾げ、「知らない」とハッキリ言うと、また雄三の顔をじっと見つめて、やがて振り返って歩き出すと、立ち止まる事なく店の中に戻っていった。


 ドライブインの一階部分は全面ガラス張りで、店内の様子がよく見える。女は土産物売場に戻ると、年増の店員と何かを話した。あの団体客がいなくなって、店は途端に閑散とした。何組かのカップルが、公園を散歩でもするように店内を歩いている。向かって左側にある食事コーナーにもぽつぽつとしか客は見えない。


 女は年増の店員に頭を下げ、年増の店員はまるで母親のように女の肩に手を置いて、笑いながら何かを言っている。何を話しているのかは聞こえないが、年増の店員は女を気に入っているようだ。やがて女はまた何度か頭を下げると、一人で奥に引っ込んでいった。


 雄三はガードレールに座ったまま、思い出したように缶コーヒーを飲んだ。ぬるくなって美味くない。女のいなくなった店内は、社会の教科書に載っている昭和の風景写真のような、地味でつまらないものに戻っていた。いつの間にかフィルターだけになったタバコを、黄ばんだ液体の溜まった灰皿に投げ捨てる。


 バイクに目をやった。休憩は終わりだ。


 ――だが、どこに行けばいい?


 ポケットから携帯電話を取り出した。右上にある小さなランプが、緑色に点滅していた。着信があったのだ。慌てて画面を起動させ、「不在着信:一件」という表示に、安心というよりは緊張を覚えながら、ボタンを押した。石神誠、というドット文字が現れる。


 着信時間は、三十分ほど前。恐らく、館からここに来るまでの間だろう。バイクに乗っていると、携帯のバイブレーションに気付かない事も多い。


 もう一度ボタンを押せば、自動的に石神へと発信される。簡単な事だ。だが、そんな簡単な事が、雄三にはできなかった。


 石神はどんな用事で電話をかけてきたのだろう。飯の誘いか、それともSCARSのメンバーが何かトラブルを起こしたか。


 それならいい。そういう話なら。


 だが、そうじゃなかったら?


 もうお前にはウンザリだ、雄三さんにはついていけない。俺がSCARSの頭を張るから、出て行ってくれ。そういう話だったら?


 画面から思わず目を逸らすと、雄三は携帯電話を持った手を、ぶらりと下ろした。気分が悪く、口の中に冷たい唾液が溢れてくる。裏腹に、視界に入る風景はこの上なくのどかで、呆けていた。古びたドライブイン、それを囲む深緑の木々、晴れた空。鈴のような鳥の鳴き声が聞こえてくる。


 建物の左奥から、一台の自転車が出てきた。長い黒髪で、乗っているのがさっきの女だと分かる。


 ドライブインと外とを繋ぐ道は、雄三のそばにあるこの一本しかない。当然女も、自転車をこちらに向けて進めてきた。真っ白な顔、うつろな目。そこには雄三の姿がまるで写っていないようだ。アルバイトが終わったのか、進行方向に視点を固定したまま女はペダルを一定のリズムで漕ぐ。こんな辺鄙な場所から、自転車で帰るとでも言うのだろうか。


 女はセーターの上に、サイズの合っていない大きなジャケットを着ている。男物なのか、サイズも合っていない。整った顔立ちとその服装のミスマッチに、雄三はまた、意識を絡めとられてしまう。


 やがて女は雄三の前を、当然のように視線一つ寄越さずに通り過ぎた。


 警戒か、プライドか、今度はもう声をかけないと決めていた。だが反面、目は女の背中に釘付けで、風に揺られる黒髪の一本一本をも見逃すまいとしてしまう。


 十メートルほど行ったところで、女は唐突に停車した。


 ゆっくりと振り返って、雄三を見る。


「ねえ」


 気怠い、か細い声。だが、聞き流せないような強さもある。


「な、何だよ」


「どうしてそんな顔してるの?」


「はあ? 顔?」


 女は黙ったままこちらを見つめてくる。


「意味が分からねえ、お前何を言って――」


「まるで泣いているみたいよ、あなた」


 ハッとして言葉をつぐんだ。


 気付いた時、女は既に前に向き直り、自転車を漕いでいた。


 その背中が徐々に小さくなり、カーブを曲がって、消えた。




 館に戻ると、表玄関の前に、警察車両が四五台停まっていた。パトカーの腹が、夕日に染まってピンク色になっている。制服姿の警官が列を作り、ワンボックスカーから段ボールを取り出しては、扉の開け放たれた玄関から館内へと運び込んでいた。


「何だこりゃあ」


 雄三は思わず呟いた。昼過ぎ、ここで本宮と話をした時には、見張りの警官の姿もなかったのだ。一瞬、館の中で事件でも起こったのかと考えたが、そういう雰囲気ではない。だいたい、現場から荷物を運び出すならまだしも、いくつもの段ボールを運び入れるなんておかしい。


 やがて警官たちは、畳まれたテーブルやイス、ホワイトボードまでを運び入れていった。館の内側から、金井建設の社員数名が興味深そうに見ている。


「おや、これは坊ちゃん」


 明日葉が笑顔で近づいてきて、会釈をした。


「ちょっとお世話になりますよ」


「おい、こりゃあいったいなんの騒ぎだ」


「ここに捜査本部を置く事になりましてね」


 そう言って明日葉は振り返り、黙々と荷物を運ぶ部下たちを満足そうに見つめた。


「捜査本部?」


「ええ。本来は警察署内に設置するもんなんですが、今回は例外的に、こちらに置かせてもらう事になりまして」


「はあ? なんでだよ」


 明日葉の言うこちらというのが、館の中、つまり雄三にとっての自宅を指しているのは間違いなかった。


「捜査本部を置くのは、情報を集めて効率を上げるためですよ。捜査員の士気を上げるためでもある。ただ今回の場合、警護強化が一番の目的です」


「警護?」


「ええ。我々は今回の事件が、金井建設を狙ったものであるという可能性を重く考えています。いつなんどき犯人が社屋に乗り込んで来るとも限らない。ですから、明日から我々がこちらに常駐させていただいて、金井建設をお守りさせていただくと」


「常駐って、こんな人数でかよ」


「おや、喜んでくださると思ったのに」


 明日葉はわざとらしく驚いた顔をする。


「なんで喜ばなきゃならねえんだよ、嫌に決まってんだろ」


 雄三が声を荒げると、周囲の警官がチラリとこちらを見た。


「その様子だと、まさかご存じないのですかな」


「なんだよ、なんの話だよ」


 そのとき明日葉の頬に、いつもの仏顔とは違う、嬉しそうな笑みが一瞬だけ浮かんだ。


尾藤雅びとうみやびの事ですよ」


 意外な名が明日葉から発せられて、頭が混乱する。どうして尾藤の名が明日葉から出てくるのか。嫌な予感が血液に乗って全身を駆け巡った。一気に動悸が激しくなる。


「尾藤が、どうしたんだ」


 平静を装って聞いた。明日葉は目を細め、だがなんの躊躇もなく言った。


「襲われたんですよ、今朝」


「な……なんだと」


「かわいそうに、意識不明の重体だそうです」


「そんな……」


「旧市街の突堤で倒れているところを釣り人に発見されて、病院に担ぎ込まれました。背後から鈍器で殴られたらしいですわ。血だまりができていてね」


「血だまり……大丈夫なのか、意識不明って」


「命に別条はないらしいですが、かといっていつ目覚めるかもわからんそうです。それにしても坊ちゃん、本当に知らなかったんですか。あなたあのチンピラグループの頭なんでしょ? 石神誠は、とっくに病院に駆けつけてましたよ」


「え……石神が……」


 言いながら気付いた。あの着信。ドライブインで気付いたあの石神からの着信は、尾藤の件だったのか。石神は尾藤が襲われた事を伝えるために、雄三に電話をかけたのだ。だが雄三は、知らなかったとはいえ、それを無視した。


 自分への罪悪感か、あるいは尾藤への親愛か、一気に怒りが沸騰した。


「クソ……どこのどいつだ。見つけ出して殺してやる……」


 相手がどこのチームなのか、あるいは流れ者のチンピラなのかは分からない。だが相手が誰にしろ、この町でSCARSに楯突く事が何を意味するか、徹底的に教えてやらねばならない。


「目撃者はいねえのか、バイクの種類だけでも分かれば、探しようがあるが」


 だが明日葉は呆れたように首を振った。


「バイク? 坊ちゃん、一体何を言っているんです」


「だから、尾藤をやった相手がどこのチームなのかを――」


 明日葉は笑い出した。愉快そうに。


「坊ちゃん、あなたまさか、これがチンピラ同士の揉め事だと思ってるんですか」


「あ? だって尾藤が襲われたんだろ、だったらこれはSCARSへの宣戦布告――」


「馬鹿言っちゃいけない」


 明日葉が語気を強めた。顔が急に強張り、そして苛立ったように視線を左右に振ると、雄三に一歩近づいて、言った。


「どれだけおめでたいんですか、坊ちゃん。いいですか、尾藤が襲われたのは、奴があなたのかわいい後輩だからだ」


「なに?」


「まだ分からんのですか。警備員、清掃員、そして尾藤。これは全部、同じ事件です」


「同じ事件?」


「そう、金井建設を標的にした連続襲撃事件だ。尾藤は、金井建設の一人息子の友人だったせいで襲われた。いいですか坊ちゃん、尾藤は、あなたのせいで襲われたんだ」


「そんな……」


 明日葉の言葉に、目の前が真っ暗になった。


 俺のせい?


 俺のせいで、尾藤は襲われた。


 意識不明の重体――いつ目が覚めるかは分からない――


 周囲の雑音がすっと消えていき、暗闇に浮かんだ尾藤の顔が、ぐるぐると回る。


 俺が、俺が、金井建設の一人息子だから――


「坊ちゃん、大丈夫ですか?」


 気付くと明日葉が、俯いた顔の下から覗きこむように見ていた。


 何が大丈夫ですか、だ。このタヌキ爺が。


「まあ、とにかく、犯人はどんどん外堀を埋めてきてる。いきなりあなたや社長に行かないのは、ある種の挑発と我々は見ています。舐められたもんだ」


「じゃあ、早く犯人を捕まえろよ」


「ええ、ですからこうして、捜査本部をここに――」


 その時、部下の一人が明日葉に駆け寄って何かを耳打ちした。明日葉は仏顔でうんうんと頷いて聞いている。やがて部下が頭を下げてどこかに消えると、雄三を見て言った。


「まあ、そういうわけですから。前も言いましたがね、あまり目立った行動は避けてください。できればここ数日のように、家に引きこもっていてくれると助かるんですが」


「尾藤は、病院にいるんだな。どこだ」


「え? ああ、五葉総合病院ですよ。ただ、面会はできませんがね」


「面会できない? なんでだよ」


「集中治療室にいるんですよ。予断を許さない状況ですから。じゃあ坊ちゃん、私は仕事があるんで、ここで失礼します」


 そう言って明日葉は、嫌な笑みを残して振り返り、館の中へと消えていった。

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