雄三

 やはり風邪をひいたらしい。


 雄三はベッドの中で数日を過ごす事になった。


 雨は相変わらず降り続いていたが、薬を持ってきた使用人によると、午後にはやんで晴れるとの事だった。確かに窓の外の景色は、昨日までよりも穏やかなものになっている。


 透明な袋に入った粉末を水で流し込む。かぜ薬なのか、抗生物質なのか、胃腸薬なのか、そんな事は分からない。昔から、黙っていれば何だって用意された。雄三はただそれを受け取るか、気に入らなければ突き返し、別のものを用意させればよかった。


 関節が痛み、頭痛もひどかった。全身がだるく、何もする気が起きない。眠ると決まってひどい夢を見た。目が覚めると汗だくで、だが夢の内容はもう覚えていないのだ。風呂に入るのも億劫で、使用人に熱いタオルを持ってこさせ、身体を拭かせた。


 昼ごろ、藤城が突然部屋を訪ねてきた。藤城は傳田でんだ同様、丈三の同級生で古くから社員として働いている男だ。


 柔道をやっていたとかで大きな身体をしており、声もでかい。ここ数年でひどく太り、その体型は柔道家というより関取だ。どこで買ってくるのだろうと思うようなサイズのスーツを着て、いつも汗をハンカチで拭っている。社員からはその明るく分かりやすい性格を慕われているらしいが、雄三に対してはなぜかいつも好戦的だった。


 「ちょっといいですか」と入ってきて、球体のような身体を揺すりながらソファに座る。そのふてぶてしさに苛立ちを覚える。


「よくねえよ、風邪ひいてんだ。出てけよ」


「そんな時くらいしか、家にいねえでしょうが」


 藤城は事もなげに言って、ハンカチを取り出すと額の汗を拭った。


「坊ちゃん、もういい加減、オママゴトはやめてもらえませんかね」


「はあ? 何の話だよ」


 藤城はため息をつく。


「先週、あなた居酒屋で客と揉めたでしょう。団体の観光客ですよ。ガラスの灰皿でぶん殴ったそうですね」


 やっぱりその事か、と雄三は嫌な気分になった。


 藤城は双名ふたな商店街の管理を行う部署で、責任者をやっている男だ。双名商店街での出来事はすぐに耳に入る。トラブルや事故が起きた場合には、警察よりも先に現場に駆けつける事も珍しくない。


 実際、藤城の部署は、双名商店街の自警団のようなものでもあった。金井建設には全体的に柄の悪い人間が揃っているが、藤城の部署には特に強面が揃っており、地元の悪ガキたちからも恐れられていた。


「観光客には手を出すなって、あれほど言っているでしょう。大変だったんですよ」


「あれは、向こうが悪ぃんだよ。町の事をバカにしやがってよ」


 藤城はふん、と鼻を鳴らした。


「相手は東京の法律事務所の関係者でした。本人じゃなくそこの代表がひどく怒って、訴えると言ってきました。まあ、あんだけ怪我させりゃ無理もないですが。前歯が折れて全治二週間だそうです」


「訴える?」


「法律事務所に訴えられるなんて、とんだ笑い話だ。まあ幸い、先代の知り合いがその法律事務所代表の師匠みたいな人らしく、何とか矛を収めてくれる事になりましたがね」


 先代というのは、金井建設の創業者で金井丈三の父である金井松宇しょううの事だ。雄三から見れば祖父ということになる。


 禿げあがった頭とサンタクロースのような白い髭。周囲からは今の丈三以上に恐れられていたと聞いた事がある。松宇は雄三がまだ幼い頃、肝臓の病気で死んでしまった。話では葬式に自分も参列したらしいが、覚えてはいない。


 雄三が黙っていると、それをどうとったのか、藤城は満足そうに頷いた。


「とにかく、ちゃんとしてくださいよ、坊っちゃん。あなたがどう思ってようが、あなたは金井建設の跡取りなんだ。少し自覚を持って行動してください」


 藤城は言うだけ言って立ち上がると、汗を拭きながら扉の方に歩いていった。


「おい」


 その背中に声をかけた。藤城が足を止め、ゆっくりと振り返る。


「なんですか、坊っちゃん」


「親父、大丈夫なのか?」


 意外な言葉だったのだろう、藤城はぽかんとして首を傾げた。


「大丈夫とは、どういう事です?」


「いや、今回の事でショックを受けているって聞いたから」


「ショック? ああ」


 藤城はやっと合点がいったのか、どこか馬鹿にしたような笑いを漏らし、手を上げた。


「傳田に言われたんですな。あいつは昔から思い込みが激しいんです。金井丈三ともあろう人間が、そう簡単にショックを受けるはずがないでしょう」


「最近、会ったか?」


「社長にですか? もちろん会ってます。少し体調が悪いようだが、すぐに治るでしょう」


「そうか」


「じゃあ、頼みますよ、坊っちゃん」


 そう言って藤城は出ていった。


 いつもの社長。


 本当にそうだろうか。


 二日前の夜、突然この部屋を訪ねてきた丈三の異様な姿を思い出しながら、雄三は思った。


 ――これは、復讐だ。今度は俺が、殺されるのだ。


 あの言葉は、いったいどういう意味だろう。今度は俺が、殺される。


 今度は? 今度は、という言葉が、今更気になった。


 妙な胸騒ぎを覚えて、思わずベッドから立ち上がった。窓際まで歩いていって、外を見る。今朝使用人が言っていた通り、雨はかなり弱くなり、雲の隙間から太陽の光が漏れてきていた。数日間降り続いた雨がやっとやむのだ。


 普通ならそれに合わせて気分も上向くところなのだろうが、雄三はそれを見て、まるで何かの締め切りが迫ってくるような、今すぐに動かなければ取り返しの付かない事が起きてしまうような、強い焦りのようなものを感じるのだった。


 ベッドに戻り、ずっと電源を切っていた携帯電話を数日ぶりに起動する。


 画面は明るくなり、ホーム画面が一瞬だけ映しだされたが、すぐに消えた。その後、空になった電池のイラストとともに「充電してください」の文字。それも消えてしまった。雄三は舌打ちをし、電源コードを探したが、こういう時に限って見つからない。


「クソ、なんだよ」


 また立ち上がり、部屋の中をウロウロする。コードは小型冷蔵庫の脇のコンセントに刺さっていた。ジャックに挿し込み、あらためて電源ボタンを長押しする。


 しばらくすると、今度はきちんとホーム画面が立ち上がった。雄三はそのまま画面を見続けた。留守番電話があれば、右上にあるアイコンの脇に録音件数を示す数字が現れる。


 だが、どれだけ待っても、数字が表示される事はなかった。



 使用人が運んできた昼食をいらないと断り、パジャマを脱いだ。タンクトップの上に、黒い長袖Tシャツを着て、いつもの太いブラックジーンズを履く。ベルトを緩め、トランクスの上半分ほどが見えるくらいにずり下げ、再びベルトを締める。


「そんな格好、東京の方じゃもう見ないよ」


 観光客の言葉が蘇る。


 馬鹿にした目つきが許せなかった。あの一言で雄三はキレた。服装を馬鹿にされるのは、自分を、いや、自分たち全てを馬鹿にされたのと同じだった。


 雄三はあの場で観光客の歯を折って黙らせた。訴えると言ってきた法律事務所を、金井松宇の人脈を使って退けた。五葉町を貶めたあの嫌な観光客たちに、雄三は勝ったのだ。東京でどんな格好が流行っていようが、関係ない。強いのは、俺たちの方だ。


 だが、なぜか心は荒んでいた。


 強いから、勝ったから、何だというのか。


 雄三はイスの背にかけてあった革ジャンを乱暴に掴んだ。その背中には白くSCARSのロゴが書かれてある。石神や他の仲間達の顔が浮かんだが、心が拒否する感覚があった。


 あの居酒屋での一件以来、奴らとは顔を合わせてはいない。留守電さえ残そうとしないという事は、雄三の石神に対する八つ当たりが、思っていたよりも大きな問題になっているのかもしれない。


 あの優しい石神も、ついに嫌気がさしたのではないか。この、俺に。


「クソが……」


 雄三は一瞬だけクローゼットの方に視線を遣った。随分と着ていないジャケットやコートがかかっている。


 だが結局SCARSの革ジャンを羽織ると、バイクのキーを片手に部屋を出て行った。





 外はまだ小雨が降っていたが、ほとんど気にならない程度だ。だいぶ明るくなって、気温も上がっていた。


 バイクに跨って表玄関まで出ると、「雄三さん!」と後ろから声をかけられた。振り返ると、スーツ姿の男が玄関から出きたところだった。一瞬空模様を伺う素振りをしてから、駆け寄ってくる。


 本宮だった。明日葉の下で働く、若刑事。


 なぜかホッとするのを感じた。頭を七三にしっかり撫でつけた真面目そうな男。トレンチコートの着こなしにまで固さを感じる。


「雄三さん、お出かけですか」


 わざわざ走ってきてまで言う言葉に思えず、雄三はふっと笑った。本宮は怪訝そうに首を傾げたが、すぐに照れた笑いを浮かべた。


「いやあの、お姿が見えたもので、つい」


「もう吐き気はおさまったのかよ」


「吐き気?」


 本宮と話すのは二度目だ。一度目は最初の事件直後、この下にある警備員の詰め所にまだブルーシートが貼ってあった時だ。もっとも、詰め所は現在も立入禁止になっていて、代わりにプレハブを使った即席の詰め所が建てられていた。立入禁止にしているのはもちろん警察側だが、警備員たちも、同僚の殺された部屋で働くのは嫌だろう。


「ああ、あの時の事ですか。いや、情けない姿を見せました。こういった凶悪な事件を担当したのは初めてで」


「この町で殺人事件なんてそう起こらねえからな」


「ええ、平和な町です。私が五葉署に赴任してきてまだ数年ですが、いい町です。ずっと暮らしたいくらいに」


「はあ? こんな何もねえクソ田舎にかよ。変な奴だな」


 なぜ自分が本宮とこんな風に親しげに話しているのか、雄三にも分からなかった。歳が近いせいか、あるいは、そのバカ真面目な雰囲気のせいか。意外と根性がありそうなところも、気に入っているのかもしれない。


「ところで、捜査は進んでるのか? 犯人の目星は」


 雄三が聞くと、本宮はサッと表情を曇らせた。視線を逸らし、頭を掻く。


「いや、それが……」


「まだ、情報なしか」


「いえ、そういう事ではなくて」


「なんだ?」


「実は、先日課長に注意を受けまして」


「課長……明日葉か」


「そうです。相手が金井建設の関係者でも、捜査情報をペラペラ話すんじゃないと」


 そういえば、と雄三は思った。雄三が警備員の殺害方法について話した時、明日葉は嫌な顔をした。部下が口を滑らせたのかとか何とか言っていた気がする。


 だが、こいつは本当にバカ真面目だなと雄三は思った。


「その情報は話していいのかよ。注意されたとか、情報を漏らすなと言われたとか」


「え? ああ、確かに」


「大丈夫かよ、あんた」


 雄三は抑えきれずに声を出して笑った。本宮は困ったような怒ったような顔をして、俯いた。やがて雄三を見ると、真剣な口調で、言った。


「でも雄三さん、やっぱりあなたは知るべきだ」


「あん? 何をだよ」


「捜査についてですよ。我々は今、多くの人員を割いて捜査をしてるんですが、これだけ調べて情報が出てこないって、さすがにおかしくないですか」


「出てないのか、情報」


 本宮はそこで、後ろを振り返るような素振りを見せた。誰かに見張られていないか確認するように。


「出てません。というか、私にはどこか、警察が本気で捜査をしていないようにすら見える」


「はあ? どういう事だよ。あんただって警察の人間じゃねえか」


「仰るとおりなのですが、でも、何か嫌な予感がするんです。明日葉さんの捜査法にはどこか違和感が――」


「おいおい、情報を漏らすだけじゃなく、上司の悪口まで言うのかよ」


 雄三は冗談のつもりで言ったのだが、本宮は笑わなかった。


「とにかく雄三さん、あなたも気をつけてください。前も言いましたが、私は今回の事件が、単なる通り魔事件だとは思えない」


 そして本宮は、例の熱っぽい、バカ真面目な顔をして言った。


「もし犯人が、本気で金井建設を標的にしているのだとしたら、次の被害者があなたになる可能性だってあるんです」


「俺が? 被害者に?」


 本宮は雄三の目を真っ直ぐに見て、頷いた。


「むしろ私が犯人なら、真っ先に狙うでしょうね。何しろあなたは、金井建設の未来を背負う、大切な跡取り息子なんですから」

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