正太郎

 その男は手を伸ばすと、すぐそばに浮かんでいた正太郎のシャツを掴んだ。


 次の瞬間、男は恐ろしい顔をして、キッと目を剥き辺りを見回した。その視線が、まるで銃弾のように正太郎を貫いた気がした。


 咄嗟に身を隠した。


 向こうの方で、微かに水の跳ねる音がした。男は自分に気付いただろうか。気付いたのだとして、どうするのか。逃げるのか、それとも――


 考えている間に、すぐそばで水が激しく弾ける音がし、正太郎に覆いかぶさるように男が現れた。男の身体から散った水滴が、飛び込み台の下で縮こまっている正太郎の顔に勢いよく降り注ぐ。


「だれだ……おまえ……」


 思いのほか、若い声だった。


「この学校の……生徒か……」


 驚きと恐怖で声が出なかった。正太郎はカクカクと頷いた。


 男はふん、とバカにするように鼻を鳴らし、それから長い髪をかきあげて、オールバックに撫で付けた。細い頬が露わになる。先ほどは獣のようだと思ったが、間近で見れば、それは紛れもない人間の顔だった。


 彫りが深く、外国人のようでもある。そしてやはり、これまで見た事もないほど、身体が大きかった。


「君は……」


 無意識のうちに言っていた。


「君は、だれ?」


 男は不思議そうに正太郎を見つめた。


「だれって……美作加州雄みまさかかずおつうもんだが……」


 男はやはり若かった。体の大きさは全く違うが、もしかしたらそれほど歳は違わないのかもしれない。


「みまさか……かずお……」


 正太郎は繰り返した。美作と名乗った男は、じっと正太郎を見つめた。何かを探るような、あるいは、何かを訴えるような目だった。正太郎はその視線を受け止めながら、何か懐かしい感覚が心に蘇ってくるのを感じた。どこか気恥ずかしくて、それでいてあたたかいもの。


 半年前までは、当たり前に感じていたもの。


 やがて美作は、軽い動きで飛び込み台から降りると、正太郎のそばにしゃがみこんで、言った。


「お前は?」


「え?」


「お前の名だ」


「僕は……正太郎。佐宗、正太郎」


「正太郎か」


 正太郎は頷いた。美作の山のような身体に圧倒されながらも、確かに緊張の溶けていくのを感じた。


「ねえ、加州雄くん」


「なんだ、正太郎」


「君は、ここで何をしていたんだい。こんな時間に」


「身体が痒かったから、洗いに来たんだ」


「洗いに? プールでかい」


「ああ、そうだ」


「どうしてプールなんかで、洗うんだい」


「どうしてって……別にいいじゃあねえか。それより」


 美作は話を逸らすように、正太郎を指差した。


「てめえこそ何してやがる。服も着ねえで」


 そう言う美作自身、腰ミノのようなものだけを身につけた半裸の格好だった。


「いや……それは」


「それに、怪我してるじゃあねえか」


 記憶が蘇った。部室、金井、金属製の硬いナックル。


 金井は、恐ろしかった。


 金井なら怖くない、と思った自分が馬鹿だった。


 傳田や藤城は、金井建設の一人息子という立場だけでなく、あの残虐性、一度キレたら止まらないあの性格を知っていて、丈三と行動を共にしているのかもしれない。


「どうした、正太郎。寒いのか」


 身体が震えていた。自分が震えている事に気付くと、震えはより激しくなった。


「ぼ、僕は……」


 言葉が出ない。記憶が点滅するように、全身の痛みが脈打つ。


「畜生……畜生……」


 美作は少し困ったような顔をして正太郎を見ていたが、やがて言った。


「だれかに、乱暴されたんだな。服を持っていかれたのか」


 正太郎は震える指でプールを指差した。美作が眉間にシワを寄せ、振り返る。そしてパッと嬉しそうに笑った。


「ああ、あれお前のか、なんだってあんなとこに服が浮いてんだって思ったが」


 美作はやけに楽しそうだったが、正太郎が無言でいると、やがて居心地悪そうに苦笑いを浮かべた。


「ちょっと待ってろ」


 そう言って、あっという間に水中に潜ると、正太郎の制服とシャツを手に戻ってきた。


 驚くべき早業だった。


 やはり、とても人間とは思えない。雑巾を扱うように、美作はそれらを軽々と絞った。


「ちょっと冷てえだろうが、仕方がねえな」


 バサッとバサッとシワを伸ばす。正太郎がその様子を呆然と見ていると、美作は躊躇なく正太郎の身体を抱きかかえ、まるで赤ん坊にそうするように、服を着せ始めた。背中の下を、美作の太く硬い腕が支えている。


 シャツに腕を通し、片手で器用にボタンをはめ、今度はひょいと下半身を持ち上げると、腰を自分の膝に乗せるようにして高さを稼ぎ、ズボンに足を通していく。


「どうして……こんなこと……」


 正太郎は思わず呟いた。


「お前、身体が動かんのだろう。着せてやるほか、ねえじゃねえか」


「加州雄くん……君は……」


 ほんの数分前に知り合った相手。それも、素性の知れぬ、暴力的とも言える容姿を持った男だ。だが正太郎は、美作に好感を抱き始めていた。いや、もっと能動的な、もっと強い――


 そう、友情のようなもの。


「どうして……どうして君は、優しくしてくれるんだい……」


 声が震えていた。だがそれは、恐怖や寒さが理由ではなかった。


「なんだ正太郎、おまえ、泣いているのか」


「僕は……僕は……」


 もう我慢ができなかった。


 これまで抱え込んできた気持ちを、抑えられなかった。


「正太郎、どうして泣くんだ」


「加州雄くん……聞いてくれるかい?」


 涙は止まらず、嗚咽が漏れたが、それでも誰かに伝えたくて仕方がなかった。自分が置かれている状況、母親の事、そして金井からの暴力。美作は黙って聞いていた。何も言わず、正太郎を凝視しながら、聞いていた。


 全てを吐き出し、正太郎が黙ると、美作は正太郎に服を着せる作業を再開した。ズボンが終わり、今度は学ランに腕を通す。


 水が乾いてきたからだろうか、美作の体臭がにおい始めていた。


 汗と土と獣臭が交じり合ったような、独特の体臭だった。


 正太郎が服を着終えると、美作は満足そうに頷いて「よし、これでいいな」と笑った。


 釣り上がった目、大きな鷲鼻。だが、その顔に、既に親密さが感じられるようになっていた。


「ありがとう、加州雄くん。とても助かったよ。僕一人じゃ、プールから服を拾い上げる事もできなかった」


「いいんだ、俺は力が強いし、泳ぐのも得意だからな」


「でも、どうしてだい? どうして僕を助けてくれるの? それに、話も聞いてくれた」


「どうしてって」


 それから美作は、戸惑ったように正太郎を見た。どこか怖がっているような、怯えているような目。


「だって、そういうもんじゃねえのか」


 美作は言った。ちらりと正太郎を見て、すぐに逸らす。


「うん? そういうものって?」


 正太郎がその顔を覗き込むようにして聞くと、大きな身体に似合わぬ不安そうな顔で、美作は言った。


「友達っつうのは、そういうもんじゃねえのか」





 美作に身体を支えられながら、道を歩いた。


 学校を出て、佐渡さわたり商店街を避けるように国道に出る。街灯の数は少ないが、月明かりのおかげで、そこまで暗くはない。


 だが美作は明るい場所を嫌った。国道脇に沿って作られた、左右を背の高い雑草が挟んでいる洞窟のような遊歩道を行く。


 その道程で、二人はいろいろな話をした。美作加州雄は正太郎の二歳年上の十八歳で、林業を営む祖父と共に、深い山の中の小屋で暮らしているらしい。驚くべき事に、これまでほとんど学校には通った事がないと言う。


 美作は、自分の容姿が理由だと言った。幼いころは下界に住んでいたらしいが、身体が大きくなるにしたがって恐れられるようになった。


「バケモノ、だと言われてな。誰も近づかなかった。親までも」


「親も?」


「俺を爺さんのところに押し付けて、消えた。今じゃ、どこで何をしてるのか分からねえ」


 正太郎は、もう美作を怖いと思わなかった。最初は圧倒されたが、今ではむしろ、好意を持っていた。その強烈な体臭も含めて、正太郎は美作を受け入れていた。


「でも、別にいいんだぜ。山の中で自由に暮らしてるのが、俺には合ってるからな。こんなゴミゴミした場所、好きじゃねえや」


「――じゃあ、どうして今日は、降りてきたんだい?」


 正太郎は思わず聞いた。美作が学校のプールに現れた事に、どうしても違和感があった。体を洗うなら、山中を流れる川などで事足りるのではないだろうか。そもそも、祖父と暮らしているというその小屋に、風呂はないのだろうか。


 しばらく黙った後、美作は言った。


「爺さんが、死んだんだ」


「えっ」


「俺は本当の一人になっちまった」


 美作はそれ以上を言おうとしなかった。


 肌寒い風が、湿った服にあたって身体を冷やした。


 美作のいま感じている気持ちが、正太郎に流れ込んできた。


 いまの正太郎には、美作の孤独が分かるような気がした。


「僕がいるよ。加州雄くんには、僕がいる」


 自分も同じだ。町中から疎まれている僕も、加州雄くんと、同じなのだ。

 美作は正太郎をじっと見つめ、頷いた。それから二人は、黙って道を歩いていった。


「ねえ、家に寄っていってよ、母さんに紹介するから」


 国道沿いから角を折れ、急勾配な坂道に入ると、正太郎は言った。美作は驚いた顔で正太郎を見た。


「俺を、紹介するだって?」


「うん、友達を連れて行けば、きっと母さんも喜ぶから」


 だが、美作は疲れた笑みを浮かべて、首を振った。


「ダメだ」


「えっ、どうしてだい?」


「お前の母さんを、怖がらせたくない」


 美作は、自分の容姿を気にしているらしかった。バケモノ、と嫌われた記憶が蘇ったのだろう。


「大丈夫だよ、加州雄くん。僕の母さんはそんな人じゃない」


「いいんだ、正太郎。俺はお前だけいれば、それで充分だ」


「加州雄くん……」


 坂の上に、正太郎の住む平屋が見えた。明かりが灯っているのが見える。母親は心配しているだろう。


「また、会えるかな」


 正太郎は言った。美作は大きく頷いた。


「ああ、会える。友達だからな」


 そして美作は、自分の住んでいる小屋の位置を正太郎に教えた。ここから普通に歩けば、一時間以上かかるだろう。かなり山を登った場所だった。美作はいくつかの目印を教えてくれた。正太郎はそれを忘れまいと記憶に刷り込んだ。


「好きなときに訪ねてこい。俺はいつでも、お前を待ってる」


 そう言うと美作は、それまでとは全く違う、恐ろしいスピードで暗い山の中へと消えていった。

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