正太郎

 次の日の朝、目が覚めると、母親が朝飯の支度をしていた。


「正太郎、おはよう」


 少し浮腫んではいたが、顔色は悪くない。母親は何もなかったように微笑んで、ちゃぶ台の上を片付けるように言った。正太郎は頷いて、茶碗や皿が置けるよう、散らかっていたものをまとめて下に置いた。


「母さん、今日は仕事を休んで、お医者様のところに行ってみようと思うの」


 漬物と小さな焼き魚、白飯といういつも通りの食事をとりながら、母親が言った。


「ああ、それがいいよ。僕も今日は学校には行かない」


 正太郎が言うと、母親は箸を止め、不安そうな顔をした。


「どうして? どうして学校に行かないの?」


「だって、母さん病院に行くんだろう? 僕が付き添ってあげる」


「そんな、大丈夫よ。大人なんだから」


 母親は少し呆れた表情をしたが、正太郎は譲らなかった。


「勝手なことばかり言うなよ。昨日あれだけ心配をかけたんだ、僕の言う事も聞いてよ」


 少し荒い口調に、母親は悲しそうに俯いて、そうね、と言った。


 食事が終わり、母親が重ねた茶碗を持って立ち上がった。落ち込んだ表情をしている。無言で、台所に歩いていく。その背中に正太郎は言った。


「ねえ母さん、僕は父さんを、信じるよ」


 えっ、と母親が振り返る。


「父さんはもう返ってこないけど、僕は父さんを、信じる」


「正太郎……」




 家の傍の下り坂を降り、国道に出る少し前の右手、木に囲まれた窪地のような場所に小さな内科がある。辺鄙な場所にある上に、作りも古く、黒々としたツタが絡まっている不気味な外観で、患者はほとんど来ていないようだった。


 母を診た老医師は、二人が佐宗稔の妻と息子だという事を知ってか知らずか、淡々と対応した。診察を終えると、特別悪いところはないと言い、栄養をとってよく眠るようにと栄養剤を処方した。


 病院から戻り、昼飯を食べ終えると、今からでも学校に行くようにと母親が言った。


「もう今日はいいよ。疲れてしまったし」


「ダメよ、父さんはそういうの、ちゃんとしていたでしょう?」


 老医師が土産にと持たせてくれたミカンを食べながら、母親は言った。


「でも……大丈夫なの、母さん」


 渋る正太郎に、母親ははっきりと頷いてみせた。


「私ね、さっきの正太郎の言葉で、目が覚めたの。お父さんの事、家族の私たちが信じなくてどうするのよ」


「母さん……」


「いまは無理でも、きっといつか、佐宗稔はすごい人だったって、あったかい人だったって、皆思い出してくれるわ。お父さんに感謝していた人は、たくさんいたんだもの」


 昨晩、玄関先で崩れていたときとは、顔色がまるで違って見えた。目に光が宿り、頬には自信が満ちていた。それが、医者からもらった栄養剤の効果なのかは分からない。だが、正太郎も嬉しくなって、頷いた。


 辛い毎日である事に変わりはない。だが、心の芯に、信じるものがあるのとないのとでは、大きな違いがある。


「分かった。行ってくる」


 正太郎はカバンを掴んで、勢いよく立ち上がった。





 その日、午後の授業を終えた放課後、いつもとは違った気持ちで下駄箱に向かった。


 そこには既に、金井らの姿があった。


「お前、何サボってんだよ」


 藤城が言う。正太郎が昼過ぎに登校した事を知っているのだろう。


「ちょっと殴られただけで、情けねえやつだな」


 藤城は大きな身体を揺らして笑った。昨日の放課後の件が、遅刻の理由だと思っているのだ。その隣には金井のニヤニヤ顔と、傳田の冷たい無表情がある。


 傳田の顔を見た時、妙な使命感が首をもたげた。


 傳田は、可奈子の知り合いだと言っていた。知り合いを乱暴した相手として、佐宗稔を憎んでいる。酒に酔った佐宗稔が、障害を持った弱者である可奈子を、無理やり犯した、それがだと思っている。


 だが、別の真実が存在する可能性を知ったら、どう思うだろう。


 黒幕が、自分がつるんでいる仲間の父親かもしれないと言ったら、どんな反応を見せるだろうか。


「何だよ、何睨んでんだよ」


 腕っ節ではとても敵わない。藤城や傳田は、人を殴るのに躊躇のない不良たちだ。


 だが、金井丈三は、どうだろうか。


「おい丈三、こいつ、やっぱり調子に乗ってるぜ」


 黙ったまま彼らを見ていると、藤城が呆れたように言って、鼻で笑った。


「よし、やっちまおう」


 藤城が独り事のように言って、頷いた。


 正太郎は、以前のおとなしい金井丈三を覚えていた。ひょろりとした長身、媚びたような笑み。他の生徒と揉め事を起こすタイプではなかった。どちらかと言えば勉強もできる方だったし、教師から目をつけられていたわけでもない。


 藤城が指を鳴らしながら大股に近づいてきた。正太郎より頭二つ分は背が大きい。


「もうやめてくれないか」


 正太郎は咄嗟に言った。


 藤城ではなく、その後ろで壁にもたれている金井に向かって。


「なに?」


 正太郎が自分を見ている事に気付いた金井が、戸惑った顔で言った。


「もうやめてくれ。もういいだろう。あの日何があったのか、君だって知らないのだろ」


 一歩踏み出すと、金井の目を真っ直ぐに見て、言った。その目に迷いのようなものが浮かんだように見えた。


「今の僕たちに対する空気は、キミのお父さんが作ったんだ。絶縁状だなんて……僕と母さんはあの紙切れのせいで、ひどい毎日を送ってる。でも、あの日あの場にいたのは、ほんの一握りの人たちだ。町のほとんどの人は、何があったのか詳しく知らないまま、僕たちをこんな風に、虐めて、憎んで、無視してるんだ。そんなの、おかしいじゃないか」


 正太郎は畳み掛けた。金井の顔がわずかに強張ったのが分かった。


「だからその一握りの人たちってのが、丈三の親父さんたちなんだろうが。バカかお前」


 傳田が口を挟んだ。正太郎は大きく息を吸って、傳田を見た。緊張で息が詰まる。


「そう。つまり、そこにいた人たちが口を合わせれば、何だってできてしまう」


 意図が伝わったのかどうか、傳田は眉間にシワを寄せ、黙った。


「はあ? こいつ何言ってんだ」


 藤城がどん、と肩を押した。その巨大な手の平の衝撃で、正太郎は下駄箱の間の硬い床に、転がった。


「藤城、やっちまえ!」


 金井が言った。藤城が目を見開いて、飛びかかってくる。その手が届く直前、正太郎は叫んだ。


「自分でやれよ!」


 その言葉に、藤城は動きを止め、ぽかんと口を開けたまま静止した。


「金井、僕が憎いなら、自分で殴ればいいだろう。どうしていつも人にやらせるんだ」


 正太郎は手をついて立ち上がると、藤城の横を抜け、金井に歩み寄っていった。そして、やはり正太郎よりかなり高い位置にある金井の顔に、顎を突き出して見せた。


「ほら、殴れよ。自分の手で、殴れよ」


「はあ? お前、何言って……」


「皆が恐れているのは、君のお父さんだ。僕だって、そうだ。君の事なんて、怖くない。これっぽっちも」


 正太郎の行動に、金井は戸惑っているようだった。視線が定まらず左右に揺れている。


「考えてみろよ、もし君のお父さんが何か事件を起こして権力を失ったら、次に虐められるのは君なんだぞ。今の僕のように、君自身が何も悪い事をしないのに、僕のように町中から憎まれるんだぞ、そんなの、おかしいだろ!」


 視界の端に、ギョッとした顔つきでこちらを見ている生徒たちの顔が見えた。いつの間にか野次馬が集まり始めていたのだった。正太郎は再び大きく息を吸うと、声量を落として、言った。


「僕がクラスでどんな扱いを受けているか、知ってるだろ。半年前まですごく仲の良かった友達も、今じゃ目も合わせてくれない。居場所は自分の机の大きさ分しかないんだ。なあ、少し考えてくれ。逆の立場だったらどうかって。藤城くんや傳田くんにある日突然無視されるようになったら、君だって悲しいだろ?」


「お前……何のつもりだ……何なんだよいきなり……」


 金井の声が震えていた。掠れた、か細い声だった。正太郎はあらためて言った。


「だから、もう、やめてくれ。こんなおかしい事は、もうやめてくれよ」


「舐めやがって……」


 金井は独り事のように呟いて、それからポケットに手を入れた。それが出てくるとき、何か銀色のものが握られていた。


 なんだ? と思った時にはもう遅かった。それは拳に装着する金属製ナックルだった。次の瞬間、目の前に光の線が現れた。少し遅れて尖った衝撃が訪れ、正太郎は前後不覚に陥った。


「こいつ、部室に連れてくぞ」


 震えた金井の声が、微かに聞こえた。




「ぐっ」


 呻き声が漏れた。


 ナックルのはまった鉄の拳が、腹にめり込んでいる。


「うらっ」


 息をする間もなく、次の一発が飛んでくる。


「ぐぇっ」


 痛みというより、衝撃だ。尖った衝撃を飲み込んだような、強烈な不快感がある。

身動きをとろうにも、立っているのがやっとだった。


 よろよろと後ずさり、冷たいコンクリ製の壁にぶつかる。


 金井たちに連れて来られたのは、彼らが「部室」と呼ぶ、小さな部屋だ。去年廃部となった水泳部の元部室で、いまは倉庫として使われていた。校内のプールに併設された更衣室などの並びにあり、夏が終われば誰も近づかない。金井たちはそれをいい事に、どこかから鍵を手に入れ、たまり場として使っているらしかった。


「おらっ」


 今度は顔。殴られた瞬間、頭がどこかに飛んでいってしまったような感覚に陥る。顎に強い衝撃がかかると、瞬間的な記憶喪失状態になる事を、正太郎は初めて知った。


 ここはどこだ? 何が起きている?


 必死に考えるが、答えを見つける前に、次の一発が放たれる。


「クソがっ」


「ぐっ」


 ついに正太郎は倒れこんだ。何がトゲトゲしたものが、頬や胸を指した。床に敷かれた樹脂製のスノコだ。その突起が正太郎の肌を直に刺しているのだ。


 正太郎はそして、自分が裸である事を今更ながらに思い出した。この部屋に来てすぐ、金井たちに制服やシャツを剥ぎ取られたのだ。身につけているのはパンツと靴下だけだ。


「おらっ」


 脇腹にブーツの先端が突き刺さる。もう、悲鳴を上げる力もなかった。溢れ出た唾液が唇の端から漏れる。


「丈三、もうその辺にしとけよ」


 薄暗い室内から、傳田の声がした。


 だが金井はやめなかった。


「うるせえ、黙ってろ」


 暴行は執拗だった。


 死ぬかもしれない、という恐怖だけがあった。


 もう、痛みを感じる事もなかった。


 耳は機能していたが、聞こえてくる音の意味を正しく理解する事ができない。


 誰かの話し声、足音、金属がこすれるようなノイズ。


 時間の感覚すら狂ってしまっていた。冷たい、トゲトゲした床の上で、正太郎はじっとしていた。


 何十分、あるいは何時間経ったのかも分からない。


 もしかしたら意識を失っていたのかもしれない。


 ……

 ……


 ふと我に返ったとき、正太郎は一人で横たわっていた。


 身体が冷え、硬くなっている。そこに、痛みがふつふつと沸き出してくる。部屋に窓はないが、外がもう夜だという事は雰囲気でわかる。


 母さん――


 母さんが――心配しているに違いない。


 そう思うと、焦りを感じた。それが体を動かす動機となった。まずは手を、ゆっくり上げてみる。――上がった。肩から二の腕にかけてズキズキと傷んだが、動かせないほどではない。骨が折れているような事はないだろう。手の平を床に突っ張り、力を込めた。


「くっ」


 今度は、先程よりも強い痛みが全身を電気のように走った。反対の手を突っ張って、上半身を持ち上げる。徒競走のスタートのような感じで、膝を腹のところに畳んで、踏ん張る。手を壁について身体を支えながら、やっとの事で正太郎は立ち上がった。


「帰らなきゃ……」


 母親が心配しているから、というより、母親の事が心配なのだった。早く帰らなければいけない。今朝の、どこか晴れ晴れとした顔が、いつ前の、死人のような顔に戻ってしまうか分からない。


「服を……探さないと……」


 こんな格好で、外をうろつく訳にはいかない。何より、母親に見せる訳にはいかない。


 身体を抱くようにして、部屋の中をうろついた。プールで使うボールや、レーンを作るためのコースロープなどに混じって、金井たちが持ち込んだのだろう、ビールケースを逆さにしてベニヤを乗せた机や、布の破れたパイプ椅子などがぼんやり見える。だが、正太郎の制服は、どこにもなかった。


 孤独が、押し寄せてくる。


 ここには誰もいない。誰一人、僕を助けてくれる人はいない。


「畜生……」


 正太郎は部屋の中をもう一度見回し、そして、ふと目を留めた。


 扉があった。


 それは、さっき入ってきた扉ではなく、プールへと続く扉だ。ここは水泳部の部室として使われていた。部屋に入るための扉と別に、プールに直接出るための扉があるのだ。


 足を引きずりながら、近づいた。手を伸ばし、ノブを掴む。回してみると、施錠はされていない。押し込んだ。扉は、金属の擦れる音をたてながら、開いた。


「ああ……」


 扉の向こうに、室内よりは多少明るい、夜の空が見えた。やはり、随分長い時間が経ってしまっているらしい。


 扉の先には数段の石階段があった。痛む身体をかばいながら、一歩、一歩と登っていく。それに合わせて上昇していく視界に、やがて柔らかくうごめく巨大な膜のようなものが見えた。


 それは、プールの水面だった。たっぷりと貯められた水が月明かりに照らされて動いていた。


「あっ」


 思わず声が出た。水面に、何かがある。階段を登りきり、プールサイドに出ると、水に浮いている白い布のようなものが見えた。


 シャツだった。


 思わず足を踏み出し、飛び込み台のところまで近づいた。


 目を凝らすと、シャツの近くに黒い学生服も揺れていた。金井たちが投げ入れたに違いなかった。


「ああ、よかった……」


 だが、どうやって取り戻せばいいのか。シャツの浮いているのは、この二十五メートルプールの中央辺り。手を伸ばしても、とても届く距離ではない。だが、この傷ついた身体で、泳いでいく事ができるだろうか。


 その時――


 突然、バシャン、と音がした。


 ハッとして音のした方を向いた。


 目を見張った。プールサイドに沿って貼られた金網に、何かがぶら下がっている。

 

 ぶら下がっている? いや、あれは――


 正太郎は、思わず身体を低くした。段差になった飛び込み台の影に、小柄な身体はすっぽりと収まる。そこから目だけを出すようにして、怪しい影を見つめた。


 その影は、器用な調子で金網を登り切ると、器用にくるりとジャンプをして、プールサイドに降り立った。


 ……な、なんだ……なんだアレ……


 正太郎は息を呑んだ。人間、にしては、動きが軽快すぎないか。まるでそれは、野生動物の動きだ。だが、プールサイドをゆらゆらと近づいてくる影の輪郭は、どう見ても人間のそれだった。


 その男――恐らく男だろう――は、プールの縁まで来ると、水面にポチャン、とその足を差し込み、直後、穴に落ちるような滑らかな動きで、ほとんど音もなく水中に潜った。


 ……入った!……プールに……


 それからしばらく、今見たものが全部夢だったかのように、周囲からは完全に音が消失した。男の作った微かな波紋も、すぐに消えてなくなった。


 やがてプール中央辺り、正太郎のシャツや制服が浮いている傍に、ポコンと頭が浮かんだ。


 後頭部だ。


 濡れた長い髪から、ぽたぽたと水滴が落ちている。


 男はプールの中で立ち上がった。その逞しい上半身が、水面から屹立した。


 盛り上がった筋肉。長い腕。それに――


「大きい」


 思わず正太郎は呟いた。このプールは、例えば正太郎なら、かろうじて鼻先が出るくらいの水深だ。それが、あの男は、肩、いや、胸元までが顕になっている。正太郎はもちろん、藤城や金井よりもずっと大きい。


 男はしばらく空を仰ぎ、そのままゆっくりと仰向けに倒れた。水面に浮かんだまま、静かにたゆたった。


 静かな時間が、流れた。


 男は急にぐるりと回転し、再度潜った。数秒後、今度はこちらを向いて浮上した。


 男の顔を正面に見て、正太郎は絶句した。


 釣り上がった目、大きな口と鼻。獣のような顔だった。


 だが、やはり人間だ。


 獣のような顔をした、巨大な身体をした――人間。

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