正太郎

 正太郎は上履きのまま、暑さのせいで生臭い海沿いを歩いた。


 可奈子の話と傳田の態度のせいで、父親のした事に対して初めて罪悪感を覚えていた。


 自分の知り合いが乱暴されたら、誰だって怒る。当たり前の事だ。


 だが一方で、違和感があった。父親は、酒に酔っていたとはいえ、可奈子が知的障害者だった事に気付かなかったのだろうか。


 確かに写真で見た限り、その容姿から障害者である事は分からなかった。だが、話し方や挙動を見れば、普通でない事はすぐに分かるはずなのだ。父親は以前から、そういった弱者に対してひときわ思いやりを持った人間だった。可奈子のような子どもを前にしたら、なおさら優しい態度で臨むはずだ。


 やはり違和感がある。いや、そもそも、なぜ父は酒を飲んだのか。


 正太郎の記憶の中に、父が酒を口にした記憶は一度もない。ましてや、泥酔して痴態を晒す姿など想像もつかない。父は酒が飲めない体質なのだと思っていた。今思えば、の事を気にして、飲まぬよう気をつけていたのだろう。


 そんな父が、いくら祝いの席だとはいえ、勧められた酒を素直に飲むだろうか。


 正太郎は思わず足を止めた。


 父は、本当に自分で酒を飲んだのだろうか。


 そして父は本当に可奈子を襲ったのだろうか。


 まさか――


 正太郎は動悸が激しくなるのを感じた。


 一度浮かんだ疑念は、どんどん大きくなっていった。




 家に着く頃には、父は罠にかけられたのだ、ハメられたのだとほとんど確信していた。


 父は、町では知らぬ者のいない有名人だった。皆から尊敬され、愛され、そして感謝される存在だった。そんな父を妬んだ者、あるいは、その立場を狙った者がいたとしたら。


 居間で一人座り込こみ、母親の帰り待ちながら、考え続けた。


 気付くとすっかり日が沈んでいた。物思いに耽るあまり、時間の経過を忘れていたようだ。正太郎は立ち上がって電気をつけ、カーテンを閉めた。時計を見ると、既に六時半を過ぎている。


「母さん、遅いな……」


 普段ならとっくに戻っている時間である。仕事を終え、買い物をしてくるとしても、これまで六時を過ぎた事などなかった。


 急に不安が広がった。


 何か、あったのだろうか。


 締めたカーテンを再び開いて、外を伺ってみる。だが、微かに紺色がかった闇が広がっているだけで、何も見えない。


 部屋の真ん中にじっと座って、母を待った。


 だが、七時を過ぎ、七時半になっても、母は戻ってこなかった。


 重苦しい不安に耐え切れず、正太郎は呻いた。


 考えてみれば、ここ最近の母親は、以前にも増して不安定だった。いつも沈んだ表情をし、いきなり涙を流したり、些細な事で声を荒らげたり、食事の後に嘔吐している姿も何度も見た。頬はこけ、白髪が増えていた。正太郎はそういう事に気付いていたが、どこかで、見て見ぬふりをしていたのかもしれない。


 自分の事で、精一杯だったから。


「母さん……」


 正太郎はブルっと震えると、思わず立ち上がった。


「ちくしょう、しっかりしろ」


 防寒用のアノラックを掴むと、家を出た。




 家があるのは、町から離れ、山の裾に食い込んでいるような土地だ。街灯もないので、この時間になると何も見えない。かろうじて、ガードレールの白いラインが、道路の輪郭を浮かび上がらせている。


「母さん……母さん……」


 呟きながら、坂を降りていった。すぐに見つかるに違いない。自転車がパンクしたとか、仕事が長引いたとか、途中で急に腹が痛くなったとか、きっとそういう理由だ。


 だが、母親の姿はどこにもなかった。


 そもそもが暗闇の中での捜索である。視界はないに等しく、強い風のせいで山が鳴り、それ以外は何も聞こえない。


 海沿いの国道まで出てみたが、母親は見つからなかった。やはり商店街の方だろうか。入れ違いになってしまう可能性を考えて、正太郎は回れ右をして坂道を登り、一度家まで戻ってから、佐渡商店街の方へと進んでいった。


 さすがの商店街も、夜の九時過ぎともなれば、人気はなくなっていた。灯りがついているのは居酒屋やスナックだけで、通りを歩く者はほとんどいない。


「母さん……どこにいるんだ……」


 小走りに駆けながら母親を探したが、どうしても見つからない。店先に出てきた店員や客が不審そうに正太郎を見る。病院で見た父親の変わり果てた姿が、頭の隅で点滅していた。その顔が、母親のものへと変わる。


 正太郎は首を振った。


 そんな……そんな事があるはずがない。


 だが、考えれば考えるほど、死のイメージは強く、はっきりと迫ってきた。何かが、決壊しそうだった。


 このままでは、自分もおかしくなってしまう。


 その時ふと、菰田こもだの事を思い出した。父と同じ役所の都市計画課に勤めていた人物で、事件直後、その概要を伝えに家まで来てくれた人だ。父親が生きていた頃、菰田の家には何度も遊びに行っていた。


 正太郎は駆けていた。他に頼れる大人はいなかった。


 玄関口に出てきた菰田夫人は、正太郎の顔を見て絶句した。驚いていたが、だがその顔には、拒絶の色は浮かんでいない。


「あの、ご無沙汰しています。佐宗正太郎です。母が……母がいなくなってしまって」


「え……ミトさんが……」


 そのとき奥から菰田が顔を出して、やはり驚いた表情を浮かべた。


「正太郎くん……どうしたんだこんな時間に」


「ミトさんが、いなくなってしまったんですって」


「何? 本当かね」


「はい……ひと通り探したのですが、もう暗いし、見つけられなくて」


「ふむ……よし、僕も一緒に探そう」


 菰田はそう言うと、コートをはおり、懐中電灯をふたつ持って出てきた。その意外な展開に呆然としていると、「ほら、君もひとつ、持ち給え」と、懐中電灯を差し出した。




 菰田と正太郎は、あらためて商店街の中を周り、ロータリーの辺りまで足を伸ばした。そこから海沿いをぐるりと周り、再び坂を登って家まで戻ってきた。


「あっ」


 母親の自転車が停まっていた。思わず駆け寄って玄関を開けると、そこに倒れこむように座っている母親の姿があった。


「母さん!」


 その小さな身体を抱きしめた。


「ああ、正太郎、ごめんなさい。私……私……」


 すっかり冷えた肩が、震えていた。ずっと泣いていたのか、目が大きく腫れていた。


「大丈夫だよ、母さん。大丈夫だから、大丈夫だから」


 正太郎は急いで布団を敷き、母親を無理やり横にさせた。話を聞くより、とにかく休ませねばならない。そう思うような疲れきった顔だった。


 どこかぼんやりした状態の母親は、しばらく正太郎を不思議そうに見つめていたが、やがて糸がプツリと切れるように眠ってしまった。


「眠ったかね」


 背後から声がして、今更ながらに、菰田がいた事を思い出した。


「あっ、はい。あの……ありがとうございました」


 正太郎は言いながら靴をつっかけ、外に出た。母親を起こしたくはなかった。


「いいんだ、それより……何というか、大丈夫かね?」


「え? 大丈夫というと」


「皆の、君たちに対する態度は、とても褒められたものではない」


 ああ、と正太郎は思った。この状況の事が、菰田の耳にも入っているのだろう。


「その事ですか……でも、耐えるしかないでしょう」


「私も心を痛めてはいるのだが、こういう小さな町は、良くも悪くも皆が同じ方向を向いてしまう」


「はい……わかっています」


 今日の捜索には協力してくれた菰田だが、その言葉からは、だからいつでも協力できるわけではないんだという牽制が感じられた。心が一瞬で冷めていくのが感じられた。


 そのときふと、下校時に考えた事を思い出した。


「あの……菰田さん」


「ん……何だね」


「父の件ですが、すべて仕組まれていたという可能性はありませんか」


「仕組まれていた? どういう事だね」


「ですから、罠だったという事です。だいたい、父が酒を飲むのも変だし、あの可奈子という子が、夜中に父の部屋にいるというのもおかしい。可奈子は知的障害者だそうですね。それも、学校に通えないくらい、重度の」


 虚をつかれたように菰田が黙った。正太郎は声に力を込める。


「父はハメられたのではないですか? 父を妬んだ誰か、あるいは、父の立場を奪おうとした誰かに」


「……それは、一体、誰なんだね」


 家から漏れるぼんやりした光で、菰田の顔が歪んでいるのが分かった。その反応に、菰田も自分と同じ可能性を考えた事があるのだと確信した。正太郎はゴクリとつばを飲み込んだ。そして言った。


「金井建設」


「…………」


「金井建設しかいないでしょう。あの一件で一番得をしたのは、金井建設の金井松宇だ」


「正太郎くん」


 突然菰田が近づいてきて、正太郎の肩を掴んだ。


「な、なんですか」


「正太郎くん、気持ちは分かる。佐宗先生をずっと傍で見ていた私だ、とてもよく分かる。だが、今のような事を口にしちゃいけない。いいかね、今後もこの町で暮らしていくのなら、金井に逆らうような真似は決してしてはいけないんだ」


「でも……でも、それが真実なのだとしたら? 僕は到底我慢ができない」


「真実だって? 正太郎くん」


 菰田は再び表情を歪ませた。そして自嘲的な口調で、言った。


「それが真実か嘘か、そんなのはどうでもいい事だ。問題は、金井に逆らっては生きていけない、という事なんだよ。正太郎くん、君はまだ若いから分からないかもしれないが、真実なんてものはありゃしないんだ」


「……真実が……ない? 一体どういう事です?」


「だから、真実など、どうとでもなるという事だ。人の数だけ真実がある、と言い換えてもいい。君がいま話したのは、君から見た真実、いや、想像にすぎない」


「でも……菰田さんも同じ事を考えたんじゃないですか? あなたは父をよく知っているから、父が自らあんな事をするはずないって、きっと――」


「正太郎くん、佐宗先生の友人として言わせてもらう。あの日、実際にどういう事が行われたにしろ、全てはもう遅いんだ。佐宗稔は汚名を着せられ、死んだ。そして今、金井松宇が、金井建設が町を牛耳っている。真実というなら、それこそが唯一の真実なのだよ」


「そんな……」


 菰田は肩の手に力を込めた。まっすぐに正太郎を見つめ、言った。


「我慢してくれ。頼むから我慢してくれ、正太郎くん。いつか風向きが変わり、佐宗先生の無念が晴らされる時がくるだろう。その時までどうか、我慢してくれ。僕は、君の父上という親友を失った。その息子や奥さんまで、失いたくないんだ」

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