正太郎

 正太郎の通う伊津いづ高等学校は五葉町の東側、佐渡さわたり商店街のそばにある。


 校門には五葉町の町の木となっている大きなオガタマの木が生えており、古くからシンボルとして知られていた。だが正太郎は、その姿を見ると息苦しさを覚えるようになった。


 どうして自分だけ、こんな仕打ちを受けねばならぬのか。


 人間の精神はすり減っていく。消しゴムと同じように、小さく、脆くなっていく。どれだけ強い気持ちを持とうと努力しても、努力自体が自分を消耗させる。


 母親は最近、この町を出て別の土地で暮らそう、と口にするようになった。ドブ川の清掃の仕事から帰り、ヘドロ独特の生臭さを発しながら、この町に私たちの居場所はない、と言った。


「ずっと遠くだけど、叔母さんが住んでいる町があるの。その町で一からやり直すのもいいと思うのよ」


 父を失った正太郎の前で、強い母親でいようと努力しているのは痛いほど分かった。だが、だからこそ正太郎は、その考えを毎回否定した。


「そんな、逃げるような事をしたくない。僕らは悪い事なんて何もしてないんだよ」


 そう言いながらも、心は疲労を感じていた。常に気を張っていないと、なぜ父さんは僕らをこんな目に遭わせるんだと、母親を責めそうになってしまう。


 精神が磨り減るものならば、反対に心の疲労は蓄積していくものだった。コップに注がれる水のように、それは徐々にかさを増し、やがては溢れてしまう。恐らく、その水の量を調整するには、強い精神が必要なのだろう。だがそれもボロボロにすり減っているせいで、正太郎のコップには疲労が注がれるばかりなのだった。


 オガタマの木が徐々に近づいてくる。


 行きたくない。学校が大好きだった自分が、登校する事を拒絶し始めていた。


 自転車の一件以来、金井からの虐めはさらにひどくなっていた。


 今までは、正太郎の靴を隠したり、持ち物を焼却炉に捨てたり、遠巻きから指さして笑ったりと、間接的なものが多かった。だが最近では、登校時と下校時、奴らは必ず下駄箱のところで待ち伏せておおり、心ない言葉を直接投げつけてくるようになった。


「よお、犯罪者」


 金井の隣で藤城が言う。藤城というのは、金井の取り巻きの一人だ。身体も声も大きく、いかにもガキ大将といった風体をしている。


「お前、よく毎日来れるよな。俺なら恥ずかしくって、とっくに自殺してるぜ」


 藤城の言葉をニヤニヤ笑いながら聞いていた金井が、「お前、自転車どうしたんだよ」と聞いた。


 正太郎が俯いて黙っていると、もう一人の取り巻きである傳田に向かって、「なあ?」と声をかける。藤城と対照的に、いつも無表情で冷たい目をした男だ。


「こんな野郎は、歩いてくるのが当然だろ。自転車なんて、もったいねえ」


 傳田は吐き捨てるように言って、手に持っていた小さな石を正太郎に投げつけた。


「うっ」


 石は正太郎の首筋に当たった。屈辱と痛みとで、頭がクラクラした。俯いた視界の端を、登校してきた生徒たちの足がいくつも通り過ぎて行く。どうしてこんな姿を晒さねばならぬのか、そして、どうして誰一人助けてくれぬのか。考えても無駄だとわかっていたが、正太郎は何度も自問した。


 父・佐宗稔の死後、役場の都市計画課は、佐渡商店街の管理業務を金井建設に委託した。


 金井建設社長の金井松宇しょううという男は、今回の件で一気に知名度を得た。その勢いに乗るように、今まで稔がそうしていたように商店街に顔を出しては、住民たちと積極的に交流した。どこか頼りない、ぼんやりした雰囲気の稔と違い、松井松宇は豪胆な印象を与える男だった。禿げ上がった頭と恵まれた体格、そして自信に満ちた物言いで知られた。


 その息子、金井丈三は、背の高さこそ父似ではあったが、線が細く、優男風で、どこか女性的な雰囲気を持っていた。


 佐渡商店街の施工業者として金井建設に光が当たるまでは、校内でも特に目立つ生徒ではなかった。だが、父親の存在感が増すに従って、むしろ周囲が丈三をもてはやすようになり、古くから丈三と仲の良かった藤城や傳田と共に、いつの間にか特別な存在として扱われるようになったのだった。


「何とか言えよ、おい」


 藤城が苛立った声で言い、正太郎は俯いたまま、また石が飛んでくるのではないかと身体を固くした。


 だが、運良く予鈴が鳴った。周囲が途端に慌ただしくなる。生徒指導の教諭が、まだ教室に入っていない生徒たちに急ぐよう怒鳴っているのが聞こえる。正太郎はそれに乗じて足を踏み出した。視線を上げずに、金井達の横を素早く通り抜けた。チッという舌打ちが聞こえたが、彼らも諦めたようだった。


 教室に入り、自分の席についても、心はささくれだったままだった。金井たちとクラスが違う事が救いだったが、同じクラスの生徒たちも、結局は金井と同じなのだ。正太郎の存在を無視し、嘲笑し、直接的ではないにしろ、金井の虐めに加担している。


 それでも、授業中だけは心が休まった。伊津高校は五葉町の中では最も偏差値の高い高校だ。勉強熱心な生徒が多く、授業中に眠ったり私語をしたりといった事は見られない。しんとした空気の中、全員が黒板を向いて先生の話に耳を傾けている間は、自分も皆と同じだと感じる事ができた。


 だが、授業の合間の休憩時間や昼食の時間には、孤独を感じた。いや、それは孤独というより、ある種の羞恥心だった。正太郎はクラスの全員から存在を無視された。以前のように、気軽に話しかけてくる者はおらず、売店に誘ってくれる者もいなかった。正太郎の周囲には、常に不自然な空気が漂っていた。


 生徒ばかりではない。教師たちもまた、正太郎から目を逸し続けた。授業中はそれでも、手を挙げれば当てられたし、席順に沿って問題を解いていくような際に、露骨に順番を飛ばされるような事はない。だが、例えば廊下ですれ違ったりする時など、彼らは皆、気まずそうに俯いて、決して正太郎と目を合わそうとしなかった。


 これがこの町の住民の気質なのだ。


 父が生きていた頃、正太郎の周囲にはたくさんの人間が集まった。クラスの人気者だったと言ってもいい。それは、正太郎の思いやりある性格によるものだと思っていた。


 だが、違ったのだ。


 結局あれは、佐渡商店街を作り上げた佐宗稔への尊敬が、そのまま自分に投影されたものに過ぎなかった。彼らは正太郎を好きだったのではない。「佐宗稔の息子」が好きだっただけなのだ。


 そして父は死に、そのイスに今度は金井松宇が座った。人々の関心は金井松宇に移った。そして学校では、金井松宇の息子が、佐宗稔の息子に変わる新しい人気者として、その地位を確立した。


 最後の授業が終わりに近づくと、気分が重く落ち込み、次いで、乱暴されるかもしれないという緊張が襲ってきた。今朝、石の当てられた首に、痛みが蘇る。破壊された自転車を思い出した。今度は自分が、あんな風になってしまうのかもしれない。


 不思議な事に、逃げる、という選択肢はなかった。今日逃げられたとして、明日はどうするのか。別の土地で暮らそう、という母親の話も同じだ。一度逃げれば、結局、ずっと逃げなければならなくなる。何より、母親に心配をかけたくなかった。正太郎が学校に行かなければ、きっと母親は、もっと追い詰められてしまう。


 チャイムが鳴った。教室の中が一気に騒がしくなる。


 正太郎は立ち上がった。母親の事を思い浮かべたからか、自分の身を心配する気持ちは消えていた。それよりも、母親を虐める町の住人たち、必要のない仕事を押し付け、商店街で難癖をつける住人たちに、怒りを覚えた。


 下駄箱には既に、金井、傳田、藤城の三人が、壁にもたれかかるようにして待っていた。チャイムが鳴ってからまだ五分も経っていない。奴らはそれほど急いでここに来たのだ。そう考えると何かバカバカしい気分になって、正太郎は思わず笑った。


「おい、何笑ってやがる」


 藤城がすぐに反応した。


 正太郎はその言葉を無視して靴を探したが、そこにあったはずのスニーカーは消えていた。金井たちが隠したに違いなかった。


「コラ、何調子に乗ってんだお前」


 後ろから肩を捕まれ、強い力で引っ張られた。小柄な正太郎は反対側の下駄箱に激しくぶつかり、床に崩れた。見上げると、眉間にシワを寄せた藤城の向こうに、どこか戸惑ったような表情を浮かべる金井が見えた。


「丈三、こいつ、舐めてやがる。ぶちのめしてやろうぜ」


 藤城に言われた金井は、なぜか傳田を見て、「お前、やっちゃえよ」と言った。


 傳田が近づいてくると、藤城が正太郎を無理やり立たせ、後ろから羽交い締めにした。


「おらっ」


 傳田のパンチが腹に食い込んで、正太郎は呻いた。パンチは続けて飛んできた。また腹、胸、そして二の腕。


 傳田の攻撃には迷いがなかった。むしろ、ずっとこの時を待っていたような、そんな感じがした。やがてパンチがやんで、藤城が手を離した。痛みと苦しさで立っていられず、正太郎はまた床に転がった。


「傳田は、可奈子の事を昔から知ってるんだ」


 頭の上で声がした。


「えっ?」


 思わず言って顔を上げた。ニヤニヤ笑っている金井が立っていた。


 可奈子というのは、父が強姦したとされる民宿の娘の事だ。障害があり、昔から学校には通っていないという噂だった。いつも家、つまりその民宿で過ごしており、時々お茶出しや配膳などの簡単な接客を手伝う事もあるらしいが、ほとんどの時間は部屋に引きこもっているらしい。


 その可奈子と知り合いなのか。妙な納得感があった。


 それで傳田はこんなに怒って――


「可奈子は重度の知的障害者だ。いいか、お前の親父はそういう弱者を襲ったんだぞ」


 傳田の声は微かに震えていた。怒りだけでなく、悲しみや憎しみがこもっていた。

金井が後を続けた。


「親父もすげえ怒ってる。あの民宿はうちのグループの傘下だし、そもそも金井建設が開いた祝いの席でそんな事をしたんだからな」


「最低だよな」


 藤城が同調する。


「本人が死んだからって、それで終わると思うなよ。お前らはもっと苦しまねえといけねえんだ。なあお前、しっかり覚悟しとけよ」


 金井はそう言って、傳田と藤城の向こうで勝ち誇った顔をした。

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