雄三

 ……

 ……あれはいつの事だっただろうか。


 雄三は父・金井丈三と激しく衝突した。仲の良かったクラスメイトが前触れなく転校した時だ。丈三がその権力を使って、学校から追い出したに違いなかった。


 社長室に押しかけ、父を問い詰めた。必死に訴える中で、涙が出てきた。


 丈三は明らかに動揺していた。困った顔で雄三を見て、自分ではどうしようもないと思ったのか、内線で傳田を呼びつけた。雄三は傳田が現れる前に社長室を飛び出した。


 幼い頃から何不自由なく育った。金と権力。大人でさえ言う事を聞いた。だがそれは金井建設の力だった。皆が好いていたのは、そして恐れていたのは、金井雄三ではなく、金井建設の跡取り息子だった。


 皆の目に雄三の姿など映っていない。その背後にあるものに怯えているだけだった。


 自分の力。


 自分の力が、欲しかった。


 高校一年の夏頃から不登校になった。顔の割れていない地区へと繰り出しては、チンピラに喧嘩を売った。殴られ蹴られ、歯を折られた事もある。だが、それが嬉しかった。喧嘩の最中、相手の目には確かに自分の姿が映っていた。向けられる感情が怒りや憎しみであっても、無視されるよりはずっとよかった。


 だがしばらくすると、誰も本気で向かってこなくなった。少し前まで殴りあっていた相手が、ある日突然、媚びたような態度を取り始めた。あるいは雄三を露骨に避ける者もあった。理由を問い詰めた。彼らが言う言葉はいつも一緒だった。


 だってお前、金井建設の息子なんだろ――


 ……

 ……


「雄三さん、やめてください、雄三さん!」


 気が付くと雄三は尾藤に羽交い締めにされていた。自分の足の下に、鼻から血を吹き出した男の顔があった。周囲のオヤジたちが、突然の出来事に呆然としている。


「このガキ……」


 男の目に怒りの色が宿った。畳の上に手をついて、身体を持ち上げる。だがその瞬間に店主が飛んできて、男の耳元で何かを言った。


 男の顔に怯えが走り、本当か、と確認するように店主を見た。店主は重々しく頷いた。男の顔からみるみる戦意が失われていく。


 こういう風景を、これまで何度も見た。


 恐らく店主は、雄三の素性を、いや、金井建設の事を話したのだろう。どう表現したかは分からない。ヤクザまがいの企業だと言ったのかもしれない。あるいは金井丈三を政治家か何かのように言ったのかもしれない。いずれにせよ、男の顔からは怒りが消えていた。雄三の灰皿による攻撃のせいではなく、店主の伝えた話のせいで。


 何かが爆発しそうだった。もう耐えられないと思った。


 何に? 分からない。


 雄三は持っていたガラス灰皿を壁に向かって投げつけると、ポケットから一万円札の束を取り出した。金は望めばいくらでも手に入る。金井建設の稼いだ金。父親の稼いだ金。雄三はそれを握り締めると、まだ転がったままの男に投げつけた。


「行くぞ」


 誰ともなく言うと、ブーツをつっかけ、足早に店を出ていった。



「どうしたんだよ」


 店の前、既にバイクに跨った雄三の肩を石神が強く掴んだ。


「なんでもねえよ、うるせえな」


「雄三さん、やっぱり変だぜ、何かあったのか?」


 どう話しても、この感情が理解される事はないだろうと思った。石神の心配そうな顔が嫌だった。そんな目で俺を見るな。どいつもこいつも馬鹿にしやがって。


「うるせえつってんだろ、出しゃばんじゃねえよタコ」


 雄三の物言いに、さすがの石神も眉間にシワを寄せた。手を離し、ゆっくりと離れる。石神の後ろには、SCARSのメンバーたちが無言で立っていた。その目に、自分への怒りを見た気がして、雄三は目を逸らした。何かを言われる前に、エンジンを掛けた。




 国道を山側へと曲がった頃に雨が降りだした。


 空に立ち込めた青黒い雲が、ただでさえ暗い林道から光を奪っていく。


 坂道を二百メートルほど登ると道は平行になる。ここから突き当りのT字路までのニキロほどを、できるだけ速いスピードで走り抜けるのだ。


 スタート前、雄三は一度バイクを止め、雨足の強まった空を見上げる。分厚い雲。そこから落ちてくる雨も、いつの間にか大粒のものに変わっていた。路面は濡れて真っ黒になっている。転倒の危険性は高まっていた。ゆっくりとアクセルを開ける。


「クソが……」


 呟いて、一気に絞り上げた。スピードが上がり、身体に重圧がかかる。雨粒のせいで目を開けていられない。だが雄三はスピードを緩めなかった。


 自分を壊してしまいたい。


 この金井雄三というかせを、バイクもろとも壊してしまいたい。


 スピードはさらに上がっていく。雨がバチバチと顔中に当たり、まるで無数の針に刺されているような痛みを感じる。


 山の形に沿って折れ曲がる道を、今までにないようなスピードで走り抜ける。風が強まり、左右に生い茂る木々がしなるようにうごめく。


 雨とスピードのせいで歪む視界の中、向かって正面に、ガードレールらしき灰色のラインが見える。あれが右に大きく迂回するカーブだという事は分かっている。だが、雄三には、ガードレールが自分の行く手を阻む壁のように見えた。


 音が遠くなり、ガードレールがぐんぐんと近づいてくる。アクセルを握った右手は石のように動かない。このままのスピードで突っ込めば、ただではすまないだろう。


 ガードレールに衝突して血まみれになった自分の姿が浮かんだ。


 その瞬間――


 自分はあの清掃員になっていた。


 ハッとしてアクセルを緩める。線状だった雨が徐々に粒になる。


 バイクはスピードを落とし、カーブの手前十メートルほどの位置で停車した。


 ――身体は震えていた。


 ああいう事なのだ。人間が壊されるというのは、想像していたよりずっと生々しく、強烈で、恐ろしい事なのだ。


 雄三はシートに跨ったまま、自分を抱くように腕を回した。


 雨はいよいよ強まっていた。





 ずぶ濡れになって家に戻り、使用人に熱い風呂を沸かすように言った。長い時間雨に打たれたせいか、身体が芯から冷え、固まっていた。


 銭湯のような大浴場で一人湯につかったが、身体はなかなか温まらなかった。風邪をひいたのかもしれない。浴場のすぐ傍にある厨房に寄り、ワインセラーの中から適当な一本を引きぬいた。


 何か作りましょうか、と常駐の料理人から言われたが、断った。料理人は重々しく頷いて頭を下げ、すぐにコンロに向き直った。柔らかく揺れる火の上で、小さな鍋がコトコトと音をたてている。


「何作ってんだ?」


 思わず雄三が聞くと、料理人は少し困った表情を浮かべながら振り返り、「おかゆです」と答えた。


「おかゆ?」


「ええ……あの……社長の体調が優れないとの事で、消化の良い物を」


 料理人は頭を下げ、顔を戻した。


 厨房を出ると、二階に登った。部屋に戻り、ワインのコルクを引き抜く。グラスに注ぐと、埃くさい、甘ったるい匂いが漂った。恐らく、それなりの値段のするワインなのだろうが、どうでもよかった。まるでコーラでも飲むように、一気に煽った。


 雨はさらに強さを増して、窓の外は嵐のようだった。館は森に隠れるように建てられているので、見えるのは木々だけだ。大量の雨によって灰色になった空気が、それらを押しつぶそうとしているようだ。森はそれに抗うように、しきりに身をよじっている。


 自然の激しい闘いを見ていると、少しだけ気分が安らぐのを感じた。雨が降っていてよかった、と雄三は思った。これだけの大雨なら、部屋で一人でいても、孤独を感じなくてすむ。


 ワインを三杯ほど飲むと、寒さはかなり和らいだ。いや、アルコールで感覚が麻痺しているだけかもしれない。グラスを置いてベッドに横になり、酔いに身体を任せた。様々な事が頭に浮かんだが、それらはいつものような刺を持たず、スムーズに流れ去っていった。そのうち眠気がやってきて、雄三は今更に、昨晩ほとんど眠っていなかった事を思い出しながら、意識を失った。



 ノックの音で目が覚めた。


 無意識に時計を掴んで文字盤を見る。夜十一時過ぎ。ここでワインを開けたのが四時頃だったから、かなりの時間眠っていた事になる。


 そう、ノックだ。


 酔いがまだ残っている。いや、熱のせいかもしれない。寝ぼけた意識のまま立ち上がり、扉に近づく。堅い木を叩く音はもう止んでいた。もしかしたら気のせいだったのかもしれない。だが扉を開けると、そこに寝巻き姿の老人が立っていた。


 驚いた雄三は言葉を失い、唾を飲み込んだ。


「雄三、ああ、雄三」


 その老人は呻くように言った。


 老人? いや、この人は――でもまさか――


「雄三、起きていたか」


 百八十センチに届く長身、だが、ひどく痩せていて枝のようだ。頬まで垂れた髪は真っ白で、風呂に入っていないのか脂ぎっている。顔色がひどく悪い。茶色というよりは、黄ばんで見える。


「親父か?」


 思わず聞いた。


 久しぶりに顔を合わせた父は、それほどに変わってしまっていた。


「雄三、お前、大丈夫か?」


「大丈夫って……何がだよ。てめえこそ、何だその……」


 そして雄三は、丈三がカタカタと震えている事に気付いた。それにこのアルコール臭。ワインを飲んだ自分ではない。これは丈三から発せられたものだ。


「おい、一体何だってんだ。何震えてんだ、酔ってんのか?」


「酔って? ああ、そうだ。たくさん酒を飲んだからな」


 そう言って丈三は、黄色い歯を見せて笑った。笑いながら、震えていた。


 丈三の後ろには、深い穴のようにも見える長い長い廊下が続いている。丈三は、その穴から這い上がってきた死神のようだった。いや、死神に連れて行かれる側の人間方だ。身につけているのはビロードのような光沢あるパジャマだったが、その高級感と、憔悴した表情はまるでマッチしていなかった。


「ああ、雄三、雄三」


 丈三の震えはどんどん大きくなった。倒れこむようにして雄三の腕をとった。そのまま、まるで女のように顔を胸に埋めてくる。丈三は、父は、自分に抱きついて激しく震えていた。アルコールのせいか、寝起きだからなのか、目の前での出来事に現実感を持つ事ができない。丈三は明らかに怯えていた。今にも発狂しそうなほど、何かを怖がっていた。


 「憔悴されて――」「優しい言葉を――」明日葉や傳田の言葉が蘇る。


 雄三が混乱の中で立ち尽くす前で、丈三はゆっくりと顔を上げると、唇を震わせながら言った。


「いいか雄三、これはな、これは……」


 丈三はそして呟くように言った。


「これは、復讐だ。

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