雄三

 雄三はベッドの中で目を覚ました。


 全身に汗をかいている。うなされていたのかもしれない。


「ああ、クソ……」


 警備員殺しの事件が起きてから三日が経っていた。


 ベッドの上で体を捻って目覚まし時計を掴んだ。顔の前に持ってくる。針は朝の七時過ぎを指している。昨晩、部屋に戻ってきたのは朝方だ。普段なら、昼すぎまでぐっすり眠っているところなのに、なぜこんな時間に目が覚めるのか。


 ふと、心当たりがあった。


 悲鳴? そうだ、悲鳴がしたような気がする。夢だろうか。いや、しかし――


 タオルケットの中をまさぐって、タバコを探した。それは腰のあたりで潰れた状態で見つかった。仰向けになりシワのよったタバコに火をつけ強く吸った。乾いた草の香りが喉に張りついて、息苦しい。だが大きく息を吐きだすと、身体は弛緩し、少し楽になった。


「ああ、まじい」


 口の中が乾いていた。咥えタバコで身体を起こす。昨日の酒が残っている。立ち上がり、よろめきながら、窓際の冷蔵庫まで行く。ペットボトルの炭酸水を一本取り出して、栓を開ける。


 一口飲むと、喉の不快感が消えた。頭も少しクリアになり、昨日の記憶が蘇った。


 SCARSのメンバーと五葉港そばの海岸に集まって、騒ぎながら酒を飲んだ。やがて尾藤らが浜に打ち上げられた流木を集めて、火をつけた。その明かりを頼りに、元野球部の石神が、海に向かって石ころを打つ「海ノック」を始めた。下っ端たちは、石神の打った石を追って海中に突っ込んでいく。皆がずぶ濡れになりながら、大笑いする。


 皆の笑い声が、先ほど聞こえたかもしれない悲鳴に変化する。


「クソ……」


 雄三は持っていた炭酸水を置くと、代わりにバイクのキーを手にとった。



 異変に気付いたのは、非常階段を降り、バイクガレージに入った時だった。


 早朝の冷たい空気に乗って、妙な臭いが届いた。


「なんだ?」


 雄三はガレージから出て、そこに広がる裏庭を見回した。バスケットコートほどの土地が整地され、芝生が敷いてある。白い木製のテーブルとチェア、その上に開かれた日除け用のパラソル。その周囲を深い森が囲んでいる。目で見る限り、いつも通りの景色だ。


 雄三は一度バイクに戻り、メットをハンドルに引っ掛けると、微かな緊張を覚えながら歩き始めた。すんすんと鼻を鳴らしながら庭を横切っていく。


 庭と森とのさかい目に、造園用の倉庫が建っているのが見える。アルミ製の、どこにでもある倉庫だ。扉が開いていて、中の芝刈り機やスコップ、ポリバケツなどが見えている。側面には、この館の管理を任されているゴールド美装のロゴマークが書かれてある。


 芝生の上を歩いていく。太陽の光が眩しくて手をかざす。倉庫に近づくに従って、明らかに臭いが強くなった。獣臭というのか、汗と泥と血が混じったような嫌な臭いだ。


 開けた庭の明るさが嘘のように、森の中は暗い。倉庫を過ぎ、雄三はゆっくりとその暗がりの中に入っていく。そのまま十メートルほど進んだ時、視線の先に何かが落ちているのを雄三は発見した。距離がある上に暗いので、よく見えない。草の塊、いや、草の生えた土を掘り起こして固めた巨大な饅頭のようなもの。


「なんだ、あれ」


 雄三は一歩二歩と近づいていった。視界の中心にあるその饅頭が、徐々に、細部を獲得していく。その正体は、唐突に、判明した。


「おい……マジかよ……」


 それは、饅頭ではなかった。人間だった。


 膝を折り、仰向けに転がった人間。正座した状態から後ろ向きに背中を落とせば、ああいう形になるだろう。草の塊だと見えたのは、その人間が身につけている制服のせいだった。薄緑色の作業着で、ゴールド美装の清掃員の制服だ。そしてその作業着に黒いツタのように絡まっているもの。それは大量の血液であった。


 雄三は唾を飲み込み、男に近づいていった。足元でパキッパキッと枯れ枝が音をたてる。ふと気配を感じて見上げると、黒々とした枝葉の隙間に、カラスだろうか、多くの鳥が集まっている。


 死んでるのか? 考えたのと同時に、清掃員が呻き声を漏らした。よく見れば、清掃員の身体は息継ぎに合わせて上下している。カラス達は、血の臭いに集まったものの、獲物がまだ生きているので待機しているのかもしれなかった。


 その時、背後で物音がした。森の中からではない。ハッと振り返って目を凝らすと、薄暗いこちら側から見れば輝いて見える裏庭の方に、四五人の人影が見えた。雄三は反射的に木の影に隠れたが、遅かった。


「あっ? 誰かがいます」


 誰かが甲高い声で叫んだ。


「何? あっ、本当だ。誰だっ、貴様!」


 別の男が怒号を放ち、それに驚いたカラス達がギャアギャアと喚いた。


「警察だ! 動くな!」


 警察、というのを聞いて雄三は安堵した。木の影からゆっくり顔を出す。


「あっ!? 坊ちゃん」


 見れば、そこに明日葉が立っていた。後ろに四人の部下を連れている。パトロールでもしていたのだろうか。


「坊ちゃん、どうしてこんな所に――」


 驚く明日葉に対し、雄三は背後に向かって顎をしゃくった。


「大怪我した清掃員が転がってる」


「え?」


「まだ生きてるけど、多分、結構な怪我だぜ。早くしねえと手遅れになるかも」


「課長、あそこです」


 若い警官が雄三の背後を指差して言った。


 明日葉は部下と雄三を交互に見つめ「とにかく、その被害者を……」と呟くと、部下の一人を先頭に立たせ、雄三の横を抜けて奥へと進んでいった。雄三もその後ろを追った。清掃員の手前で、警官が腰の懐中電灯を掴むと、スイッチを入れた。


 そこに居た全員が息を呑んだ。


 清掃員は、思った以上にひどい状態だった。腹が裂け、内蔵が見えている。傷は胸元から脇腹まで一直線に走っており、刃物で切り裂かれたもののように見える。


「こりゃ……ひどい」


 警官の一人が呻くように言った。


 さすがと言うべきか、明日葉は冷静に近づいて、「おいあんた、聞こえるか」と清掃員の顔をのぞき込んだ。その口元に耳を近づけて、何度か頷く。明日葉は部下の名を呼び、すぐに救急車を手配するよう指示した。それから別の部下に対しては、丈三の診療のためにちょうど館に来ているらしい医者を呼んでくるように言った。



 二十分後、医師の応急処置を受けた清掃員は、館までやってきた救急隊によって救急車に乗せられ、病院に運ばれていった。雄三はその様子をただ呆然と見ていた。


 人の血には慣れていると思っていた。互いの顔が血まみれになるような喧嘩をした事も、一度や二度ではない。金井雄三の名が知れ渡って、誰もちょっかいを出してこなくなって以降も、血気盛んなメンバーたちが、地元の不良やヤクザものとしょっちゅう悶着を起こすので、暴力や怪我は身近なものだったのだ。


 だが、雄三の脳裏には、清掃員の腹にできた巨大な割れ目、どろりとした血が縁を覆う、脂肪なのか何なのか黄ばんだ組織がつぶつぶと湧き出すように付着した傷が、そしてその中でとぐろを巻く腸の様子が、ハッキリと刻まれていた。


「坊ちゃん、大丈夫ですか」


 慌ただしく動きまわっていた明日葉が、近づいてきた。


「あ? ああ、大丈夫だよ」


「ひどいやられようでしたな。犯人は、よほど金井建設に恨みがあるらしい」


 言葉の意味が分からず、雄三は明日葉の顔を見つめた。


「まさか坊ちゃん、たまたま二件続けて通り魔事件が起こったとでもお思いですか」


 それで、理解した。明日葉は、先日の警備員殺しと今回の事件は、同一犯による犯行だと言いたいのだ。


「警備員の時は殴り殺されたんだろ。今回のはどう見ても、素手じゃねえじゃねえか」


「おや、よくご存知で。部下の誰かが口を滑らせましたかな」


 明日葉は嫌な目つきで雄三を見た。それから首を振る。


「まあいい、ただ坊ちゃん、凶器が違うからといって犯人が別だとは限りませんよ。それに、こう立て続けに金井建設の関係者が襲われたとなると、相関関係があると考えるのが自然だ。そもそも犯人は単独とは限らないのだし」


 確かにそうだった。雄三は何も言えずに黙った。


「いずれにせよ、こないだの件同様、我々が捜査する事に変わりはありません。今のところ有力な情報は得られていませんが、小さな町ですからな、じきに進展するでしょう」


「ああ、そうだな」


 雄三は曖昧に頷いた。明日葉はいつもの顔に戻っている。目を細め、微かに笑みを浮かべたような表情。仏の明日葉などと呼ばれてはいるが、雄三はその顔が嫌いだった。視線を避けるように俯いて踵を返した。足元の不確かな森の中を、裏庭の方へと歩いていく。


「ところで坊ちゃん」


 背後から声をかけられた。


 こいつは、いつもこうだ。ため息をついて振り返る。


「なんだよ」


「さっきも聞きましたがね、あなた、ここで一体何をしてらっしゃったんですか」


「何をって……別に何だっていいだろ」


「坊ちゃんは、我々より先に事件現場にいた事になる。これはいささか気になる事実だ」


 明日葉の顔が少し歪んだ。唇の端が嬉しそうに持ち上がる。


「何が言いたいんだよ。俺が犯人だとでも言うのかよ」


 雄三が睨むと、明日葉は肩をすくめ、わざとらしいため息をついた。


「そんなことは言ってませんよ。だが警察は、あらゆる可能性を公平に受け止め、捜査せねばならんのです。ね、坊ちゃん、教えてくださいよ」


 雄三はチッと舌打ちをすると、答えた。


「……臭いがしたんだよ」


「臭い?」


「ああ、バイクでもぶっ飛ばそうと思ってガレージに降りた時、なんつうか、嫌な臭いがした。今思えば、あの清掃員の血の臭いだったんだろうけど」


「ほう、それで」


「だから気になって、こっちに来たんだよ。カラスが鳴いてて、何か変だったし」


 明日葉は胸ポケットから手帳を取り出し、頷きながら書き留める。それからふと手を止めると、上目遣いにこちらを見ながら聞いた。


「坊ちゃん……犯人を見ましたか?」


 重苦しい、低い声だった。雄三も思わず息を呑んで、それから首を振った。


「いや、見てねえよ。ここに来た時には、もう誰もいなかった。あの清掃員以外な」


「そうですか。ありがとうございます」


 ニッコリと笑う明日葉を残して、森を出た。


 今朝、眠りの中で聞いたあの悲鳴を思い出した。男の、呻くような悲鳴。


 あれは本当に夢だったのか? そう考えながらバイクにまたがり、エンジンを掛けた。いつものように、一人で林道を走る気にはならなかった。自分もああなるのではないかという恐怖があった。腹を割かれた清掃員のように、あるいは、本宮が吐き気を催すような死体で発見された警備員のように。


 今のところ有力な情報は得られていない、と明日葉は言っていた。だが、二件目の事件が起こった事で、犯人の目的が金井建設に向いている可能性は、より高くなったと言える。恨みか、金か、それとも、金井建設が邪魔なのか。いずれにせよ、三件目四件目の事件が起こらない保証はない。


 そして俺は、金井雄三だ。


 金井建設社長、金井丈三の、一人息子なのだ。


 恐ろしいというよりは、強烈な不快感があった。金井建設を攻撃する犯人への不快。だがそれだけではない。あらゆる事が不快だった。父親も、金井建設の社員たちも、警察も。




 旧市街のガレージには、SCARSのメンバーが十名ほど集まっていた。


「お前ら、でかけるぜ」


彼らを引き連れて海沿いの国道を走り、双名商店街まで来ると、エンジン音を響かせながら低速で走った。


 先頭にいるのが金井建設の一人息子だと知っている住人たちは、怯えた顔をして見て見ぬふりをした。驚いた顔で視線をよこすのは、何も知らない観光客だけだ。


 雄三たちは、双名商店街の南口前でバイクを止めた。


 この先は歩行者天国になっており、車輌は入れない。そばには商店街の中でもひときわ賑やかな「大正たいしょう市場」が見えており、五葉港で揚がったカツオが、ワラで起こした火であぶられている。双名商店街の名物であるカツオのタタキを実演販売しているのだ。そこに集まっていた観光客の何人かが、エンジンを空ぶかししている雄三たちに、明らかな非難の目を向けていた。


 いつもなら、無視するところだ。金井建設にとって彼らは「客」だ。よその土地から来て、五葉町に金を落としていってくれる。傳田からも、多少の非行は目を瞑るが、観光客と揉める事だけは避けてくれと言われていた。


「雄三さん、もう行こうぜ」


 石神の言葉に、数台のバイクが方向転換をし始めた。SCARSの面々も、観光客に手出しできないことはわかっているのだ。だが、観光客のグループは、SCARSの反応を見て安心したのか、ニヤニヤしながらこちらを挑発するような態度を取り始めた。酒も入っているようだ。


「雄三さん、放っとけって。ガレージに戻ろうぜ。酒でも飲んでさあ」


 雄三が彼らから視線をはずさないのを見て、石神が言った。雄三はしばらく黙っていたが、やがて「クソが」とつぶやいて、バイクに備え付けていた鉄パイプを引き抜いた。


 それを見た石神が顔色を変え、「雄三さん!」と叫んだ。


 雄三はそれを無視してバイクを降りた。スタンドを立て、鉄パイプの先端を地面に引き釣りながら観光客に近づいていく。


「おい、尾藤、止めるぞ!」


 石神が叫んだ。そして自らもバイクを降りて駆け寄ると、雄三の前に立ちはだかる。


「雄三さん、何するつもりだよ。相手は他所の奴じゃねえか」


「うるせえな、あいつら、ウチを舐めてやがるんだ」


「ウチ? いったい何の話だよ」


「甘やかすから、舐められるんだ」


「いいから戻るぜ、そんなもんしまえって」


 妙に血が騒いでいた。相手が観光客だろうが、我慢できなかった。頭のなかに様々なイメージが浮かんだ。清掃夫の裂けた腹、明日葉の人を見透かしたような目、眠りの中で聞いた悲鳴、カラスの鳴き声、そして、あの血の臭い。そういうことを何も知らず、呑気に過ごしている住人や観光客が気に入らなかった。


 優しい言葉を、だと?


 イメージはなぜか父親の顔に収束した。その瞬間、ふくれあがった怒りは嫌悪感に変わった。雄三は危機感を覚えて深呼吸をした。観光客達の目がこちらに集中していた。これ以上騒ぎを大きくすれば、必ずどこかから父親の耳に入るだろう。


 雄三は立ち止まった。


「雄三さん……どうしたってんだよ」


 雄三の肩に手を置いて石神が言う。


「クソ……クソが……」


 雄三はブッと唾を吐くと、持っていた鉄パイプを投げ捨て、踵を返しバイクに戻っていった。

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