正太郎


 五葉港に佐宗稔の水死体が浮いたのは、その二日後だった。


 失踪時と同じ服装で外傷もなく、何より例の疑惑を理由に警察は自殺と断定した。


 葬式には住人が列を作ったが、彼らは稔の死を悼んでいるわけではなかった。


 逆である。


 あれほど手にかけてやった稔に裏切られた、あの愛想の良さは全部演技で、いたいけな少女をレイプするような鬼畜な人間だったのだ、どうしてくれると、まるで手のひらを返したように、人々は佐宗稔を責めた。


 一辺を海、残り三辺を深い山々に囲まれた五葉町は、いわば壁のない檻であった。隣町とは遠く離れており、さしたる産業もなく、狭い範囲の住人同士、互いの顔を伺いながら黙々と暮らしてきたのだ。自分がどう思うかより、町の皆がどう思うかが重要だった。


 そして、仲間同士その感情を確かめ合った彼らは、佐宗稔への憎しみを強くしていった。だが、肝心の佐宗稔本人は死亡している。


 憎しみの受け皿として彼らが選んだのは、残された家族、妻のミトと息子の正太郎だった。




 一人徒歩で学校を出た正太郎は、国道の交差点にさしかかると、少し考えてから、いつもの通学路とは違う方向へと歩いていった。自転車に乗れば、国道沿いを通っても三十分ほどで家に到着する。だが、徒歩では一時間半近くかかってしまう。やはり近道である佐渡商店街を通って行くほかなかった。


 商店街は、通っている高校から目と鼻の先である。普段はそこを避けて海側から大きく迂回して帰るのだが、自転車を失ってしまっては仕方がなかった。商店街を突っ切って帰る他ない。早くも気分が落ち込み、嫌悪感を伴う緊張に、吐き気がする。


 父親の事件の後、正太郎やミトを取り巻く環境は一変した。


 皆が大歓迎で迎えてくれていた商店街も、今では様子がすっかり変わってしまった。正太郎やミトの姿を見つければ、皆が驚きの視線を投げ、それから周囲の人間とヒソヒソと話し、こちらが話しかけても、必要最低限の言葉を無表情に返すだけだ。中には、露骨に無視をする者もいる。


 商店街の入口には、ロータリーのようになった丸い広場があり、その縁にそって様々な商店が軒を連ね、そこから山の方へと緩やかに登っていく坂道の左右にも、店が並んでいる。正太郎の家は、その道をさらに登っていった先にある古びた借家だ。


 父が生きていた頃は、学校を挟んで反対側、五葉町中央付近の住宅地の中に住んでいた。


 豪邸とは呼べないまでも、立派な二階建ての住宅で、正太郎にも自分の部屋が与えられていた。だが事件後、よく分からない賠償金の請求などが重なり、その家を含む財産のほとんどが奪われてしまった。頼れる親戚もおらず、ミトと正太郎は逃げるように山際に引っ越した。不便な場所にある崩れかけた借家の家賃すら、払うのがやっとだった。


 商店街のロータリーには、夕食の買物だろう、多くの客が集まっていた。皆が笑顔で、楽しそうに話しながら歩いている。


 やっぱり海側から回ってくるんだった、と正太郎は思った。


 楽しそうな客達の中に入っていくのが、どこか申し訳なく思った。そして、そんな風に考える自分に、少し驚いた。どうして申し訳なくなど思わねばならないのか。何も悪い事なんてしていないのに。


 勇気を出して足を進めた。だが、自分に気付いた時の皆の顔が見たくなくて、俯いたまま、早足で歩いた。広場を抜け、坂道に入る。自分の周囲だけ、すっと音が薄くなる感覚がある。「佐宗稔の息子が来やがった」と、皆が白い目で見ている気がする。


 もう少しで商店街を抜ける、というところで、誰かの怒声が聞こえた。ハッとして顔を上げた。自分に向けられた言葉だと思ったからだ。だが、違った。


 肉屋の軒先に人だかりができていて、その奥から声は聞こえてくるのだった。


 女の声だった。どうやら、店の女店主と客が揉めているようだ。自分には関係なかった。ホッとしながらまた俯いて、歩いていった。店の前を通り過ぎる時、それまでは判然としなかった女店主の言葉が耳に入った。


「強姦魔の家族め、よくもその汚い面を――」


 正太郎は足を止めた。そして、もう一度人だかりを見た。


 その中心で小さく縮こまっている、母の姿が目に入った。


 見れば、周囲の客たちも、女店主を制するどころか、そうだそうだと頷きながら母を睨んでいる。


 母さん――


 正太郎は数秒間だけ立ち止まったが、顔を背け、また歩き始めた。

 



 走って家に戻った。小さな家。屋根を覆う木の葉と、長く伸びた雑草に飲み込まれそうになっている。小屋のような平屋だ。間取りは六畳の居間と、小さなテーブルを置くのがやっとの狭い台所、便所はくみ取り式である。正太郎は鍵を開けて中に入ると、鼻をつまみながら小便をした。


 数十分後、表で自転車を停める音がして、母が帰ってきた事を知る。正太郎は畳に転がって教科書を読みながら、何気ない風を装った。玄関が開き、母が顔を見せる。いつもの口調で遅くなった事を詫び、すぐに晩飯の料理を始める。正太郎は母の隣に立ち、野菜を洗ったり皮を剥いたりなどの手伝いをする。


 母親の買ってきた食材の中に、肉は見当たらなかった。食卓に並んだのは野菜中心の貧しい料理だった。


「さあ、食べましょ」そう言って手を合わせる母親からは、強烈な生臭さが漂ってきた。


 専業主婦だった母は、父の葬儀が終わるとすぐに働き口を探し始めた。だが、そもそも女性向けの求人が少なかった事に加え、佐宗稔に対しての感情が原因だと思われる不採用が続いた。


 結局母は、ドブ川の清掃のような仕事に就いた。誰も近づかないような、汚くて臭い人工水路である。周辺に住居はなく、それまで同じ仕事をしていた人間がいない事からも、卑しい仕事を押しつけてやろうという嫌がらせの一種である事はすぐに知れた。


 臭いを我慢しながら食事をしていると、母親が言った。


「自転車、どうしたの。外に停まっていなかったけど」


「ああ」


 正太郎は、それまで何度も練習した言葉で返した。


「学校で、チェーンが外れちゃってさ。ちょっと派手にやっちゃったみたいで、しばらく用務員さんに預ける事になったんだ」


「そう」


 二人はそれから黙って食事を続けた。ミトは肉屋での事を話さなかった。正太郎も、聞き出そうとは思わなかった。正太郎に見られていた事を知れば、母は傷つき、そして自分を責めるに違いなかったからだ。


 慣れない肉体労働で疲れていたのだろう、風呂に入ってすぐ、母は眠ってしまった。


 以前は寝る寸前まで化粧を落とさなかった。だが今は、そもそも化粧をして出かける事がなくなった。その無防備な寝顔には、無数のシワが走り、細かなシミが浮いている。ぽかんと口を開けて眠っている様子は、まるで死体のようにも見える。


 正太郎の頭に、自転車のイメージが浮かんだ。父に買ってもらった、自慢の自転車。


 その自転車に、容赦なく蹴りをくらわせる者がいる。取り巻きに犬の糞を持ってこさせ、それを塗り込める様を、爆笑して見ていたに違いない。


 正太郎やミトに対する露骨なまでの虐めの裏には、もう一つ大きな理由があった。


 金井建設の存在である。


 佐宗稔に強姦されたと言われている娘は、あの日宴会の開かれた民宿の娘だった。後で明らかになったのだが、その民宿は金井建設の傘下にある民宿で、金井建設からすれば、身内の家族が乱暴されたという状況だった。


 事件発覚後、稔の死体が海に浮かぶ前に、金井建設は佐宗稔との絶縁状を用意して、大々的に公開した。そこには、佐宗稔の起こした事件を「悪魔の所業」と断罪した上で、今後佐宗稔及びその家族を擁護するような輩が現れた場合、それは金井建設に対する批判・否定だと見做して適切に対応する、という意味の言葉も添えられていた。


 なぜ金井建設がそこまでしたのかはわからない。だが住民たちは、今や五葉町で最も力のある企業と言ってもいい金井建設からの痛烈な言葉に震え上がり、正太郎やミトに対する態度を、迷う余裕もなく決定したのである。


 正太郎への苛めを先導しているのは、他でもない金井建設の一人息子だ。


 金井はあの絶縁状に書かれた内容を大義名分に、「佐宗稔の家族はそうされても仕方がない」と言わんばかりの露骨さを持って、正太郎に対する嫌がらせを始めた。その態度を見た他のクラスメイトも、それに倣った。金井建設に逆らえば、自分も危ないという事を誰もが知っていたからだ。


 それまで正太郎と仲良くしていた者も、苛めに加担する事まではせずとも、明らかに正太郎を避けるようになった。


 大切な自転車をあんな風にしたのも、金井に違いなかった。


「畜生……」


 正太郎は固く目を閉じ、呟いた。


 悔しかった。なぜ自分が、こんな目に合わねばならぬのか。そして母親が、なぜこんな哀れな姿を晒さねばならぬのか。


 怒ってはならない、だって?


 正太郎は父の言葉を思い出していた。父はいつも「怒ってはいけない」と言っていた。理不尽な目にあっても、怒ってはいけない。怒れば正しさは濁ってしまうから。


 だが正太郎は、もはや父の言葉を受け入れられなかった。父は正しくない事をして、死んだのだ。


 正太郎は母の疲れきった寝顔を見下ろしながら、歯を食いしばり、拳を固く握った。


 逃げる訳にはいかない。それまで、父への好意、尊敬によってなんとかせき止められていた感情が、じわじわと染み出してきているのを感じた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る