正太郎

「どうして……こんな……」


 佐宗正太郎さそうしょうたろうは、呟いた。


 校舎裏の空き地で見つけた自転車は、ひどい状態だった。カゴがひしゃげ、タイヤのゴムが切り裂かれ、サドルが消えている。踏みつけられたのか泥で汚れており、何か不快な臭いがした。よく見ればそれは泥ではなく、犬の糞が塗りつけられているのだった。


 この自転車は三年前、父に買ってもらったものだった。父が企画した商店街が完成した年の、誕生日プレゼントだ。高校卒業まで使えるようにと、二十六インチのものを選んだ。普段はあまり金を使わない父が、「せっかくだから一流のものにしよう」と、店で一番高いモデルを買ってくれた。


 この変わり果てた自転車を父が見たら、どんなに傷つくだろう。そう考えると、息苦しさとともに、怒りがわいた。なぜこんな事をするのか。父の買ってくれた大切な自転車なのに。


「畜生……」


 思わず汚い言葉が漏れた。だが、すぐに首を振った。父は生前、「怒ってはいけない」とよく言っていた。


 正太郎、怒ってはいけない。もしもお前が正しくて、理不尽な目にあったのだとしても、怒れば正しさは濁ってしまうから。


 正太郎は唇を噛んだ。嫌な臭いのする自転車を立ち上げると、パンクしてぺちゃんこになったタイヤを引きずるようにして、校舎を挟んだ反対側にある焼却炉に向かった。


 生徒たちの楽しそうな笑い声が聞こえる。


 人懐っこく思いやりのある正太郎の周りには、いつもたくさんの仲間が集まっていた。よく相談を受けたし、遊びに行こうと誘われる事も多かった。仲間はずれにされているクラスメイトに積極的に話しかけ、救ってやった事もある。


 それが、変わってしまった。今では誰一人、正太郎と話そうとする者はいない。


 焼却炉では、作業着姿の用務員が、ゴミ箱の中のくずを火の中にくべていた。正太郎はその裏で躊躇していたが、気配がしたのか、それとも異臭を感じたのか、用務員は振り返った。その用務員は、生徒たちからも人気のある優しい老人だったが、そこに立っている生徒が佐宗正太郎である事に気付くと、途端に顔を強張らせた。


「すみませんが、この自転車、処分してくださいませんか」


 正太郎は礼儀正しく頭を下げて、言った。用務員は居心地悪そうにしていたが、やがて無言で頷いた。ありがとうございます、よろしくお願いします、再度頭を下げる正太郎に何かを言おうとしたが、結局黙った。正太郎もそれ以上何も言わず、焼却炉を後にした。


 玄関口に回ると、水飲み場でクラスメイトが数人談笑していた。だが、正太郎が手を洗おうと近づくと、彼らは急におとなしくなり、誰ともなく離れていってしまった。正太郎は俯いて、犬の糞のこびり付いた指先を洗った。


 どうしてこんな事になってしまったのだろう。


 救いを求めるように、考えた。だが、その答えは、誰か他人からではなく、自分自身の声で、すぐに届いた。


 そんな事、分かりきっているじゃないか。


 父が半年前に起こした事件。それがこんな状況を招いたのだ。



 正太郎の父、佐宗稔さそうみのるは、この五葉町に初めて本格的な商店街を作ろうとした人物だった。


 役所の都市計画課に籍を起き、過疎化の進む寂れた町をどうにか活性化させようと、町中に分散していた各商店に足繁く通い、五葉町西側に集まって商売する事を提案した。


 同じ町内とはいえ、慣れ親しんだ土地を離れる事に、多くの住民は難色を示した。だが、稔はそんな事を気にせず具体的な計画を練っていき、まるで子どものような無邪気さを持って、その計画書を皆に見せて回った。稔は決して、笑顔を絶やさなかった。うまくいかない事があっても、いつでも明るい笑顔で、前向きに努力した。


 そんな稔の健気さのおかげか、やがてぽつぽつと商店街に参画する商店が出始めた。もともと五葉町の住民は、保守的で疑り深く、腰の重い気質を持っている。だが、稔のひたむきさは少しずつ皆の心を溶かしていった。


 稔は彼らの説得と平行して、金井建設という地元の建設会社と契約を結び、設計と施工業務を発注した。ブルドーザーが土地をならし、ユンボが穴を掘り、その変化が目に見えるようになってくると、それまで移動を渋っていた他の商店達も、この話に乗らねばむしろ自分達が除け者にされるのではと不安がり、雪崩式に参画を決めていった。


 結局、稔が計画を練り始めてから五年ほどで、五葉町初めての商店街、佐渡さわたり商店街は完成したのである。


 二十軒ほどの商店が軒を連ねる佐渡商店街は、日用品から食料品まで普段の生活に必要なものは充分に揃う、立派な商店街となった。それまでは、ただでさえ少ない人口が町の様々な所に分散していたが、この商店街ができた事で地域住民が一ヶ所に集まるようになり、少しずつ活気も出てきた。


 稔は時間さえあれば商店街に出てきて、嬉しそうに道を歩いた。あらゆる店に顔を出し、店主や客に誰彼なく話しかけ、世間話に花を咲かせた。ゴミが落ちていれば拾い、雑草が生えていれば抜いて、夏の暑いさなか、自らリアカーを転がして皆にサイダーを振る舞った事もある。


 そんな稔を住人達も愛した。稔には少し抜けたところもあって、左右の靴下の色が違っていたり、派手な寝ぐせをつけたままだったりしたが、それもまた人気に拍車をかけた。タバコはよく吸ったが、酒は飲まなかった。その当時、佐宗稔といえば、佐渡商店街界隈では「名士」と讃えられるほどの人気があった。稔が現れれば肉だ魚だと差し入れが集まり、稔はそれをまた別の商店や近隣住民に配って回った。


 正太郎はそんな父親を尊敬し、好いていた。佐宗稔の息子という事で正太郎の顔も随分と広く知られており、「いつも稔さんに世話になっているから」と皆が優遇した。ふと見れば、背広姿の父が泥だらけになって清掃をしていたり、草むしりをしていたりして、そんな時は正太郎も進んで父を手伝った。


 だが、商店街の完成から約一年後、事件は起こった。


 佐宗稔が失踪したのだ。


 家に戻ってこない稔を心配して、正太郎は母ミトと共に駐在所を訪ねた。担当の警察官も顔馴染みで、町で行き会えば正太郎の頭を撫でてくれるような優しい男だったが、母親が稔の不明を告げると、それまで見た事のない歪んだ表情を見せた。まるで痛みに耐えているような、あるいは怯えているような顔だ。


「駐在さん、どうかしましたか」


 小心者の母親が不安そうに聞いた。


「な、なんでもありません、奥さん。稔さんが戻らないと聞いて、驚いただけで」


 昨晩稔は、佐渡商店街を共に作り上げた建設会社、金井建設の会合に出席すると言って夕暮れ時に家を出た。朝方、母が金井建設に連絡して確認したところ、確かに佐宗稔は会合に参加していたらしい。


 派手好きな金井建設らしく、民宿を借りきった大宴会だったと言う。稔はそのどんちゃん騒ぎを深夜二時過ぎまで楽しんだ後、そろそろ眠ると言って金井建設の用意した部屋に戻ったのだそうだ。そして朝、民宿の従業員が外から声をかけたが返事はなく、不審に思って部屋を覗くと、そこに稔の姿はなかった。


「それじゃ……稔さんは今朝から行方が知れんわけですな」


「忙しい人ですから、家に戻らず職場に行ったのかと思いもしましたが……。金井さんのところに電話をした後、役場にも連絡をしてみたんです。そうしたら、今日は出社していないと言われて」


「……ううむ、なるほど」


 駐在の態度はどこかおかしかった。二人の話を後ろから黙って見ていた正太郎は、何気なく奥にある灰色の机の上へと視線を移動させ、そこにメモ帳とペンがある事に気付いた。


 今の今まで何かを書いてたように、メモは机の中央にあり、脇にペンが転がっている。駐在が母親との話をしている隙に、正太郎はすっと中に入っていった。メモには、駐在の無骨な容貌からは想像できない、神経質そうな字が書かれてあった。


「あっ、見ちゃいかん!」


 正太郎に気付いた駐在が慌ててメモ帳を取り上げたが、もう遅かった。正太郎はぼんやりした心地で、今見たものを頭の中で反芻していた。


「おまわりさん……お父さん、何かしたの?」


「え? 何だってそんな事を」


 駐在の慌てぶりは、正太郎の言葉を認めたも同然だった。


「強姦……強姦って読むんでしょ、それ。その、女の人を、無理やり……」


「正太郎? あなた、何を言ってるの」


 母親が一層青くなった顔で聞いた。


「佐宗稔、婦女暴行容疑……少女を強姦して逃走」


「こらっ、正太郎くん、何を言っとる」


「だって、そこに書かれてあるじゃないか!」


 正太郎は叫び、駐在の手の中にあるメモ帳を指差した。駐在は正太郎からメモ帳を離そうと腕を天井へ向けて掲げたが、その行為は母親にも文字列を見せる事となった。


「あ……佐宗稔、婦女暴行容……ど、どういう事なんです、それ。駐在さん……あの人に、あの人にいったい何が……」


 駐在はハッとして、目を見開いた母親の顔を振り返った。やがて、ゆっくりと手を下ろすと、メモ帳を胸元に抱きしめるようにし、絞りだすような声で、言った。


「奥さん、稔さんは先ほど、未成年者に対する暴行容疑で指名手配されました」


「え……そんな……」


 絶句する母親を前に、駐在は大きく息を吸った。それから、唐突に表情を変えた。それまでの穏やかな、人好きのする雰囲気が消え、どこか不気味な無表情で駐在は言った。


「報告を受けた時はとても信じられなかった。あの稔さんがそんな事をするはずがないと。だが家に戻ってないとすれば、話は変わってくる。話が偽りなら逃げる必要などないはずだ。稔さんは、いや佐宗稔は、金井建設で少女をレイプし、そして逃亡したんです」


 駐在の突然の変貌に恐れをなし、正太郎は茫然と立ちすくむ母親を引きずるようにして駐在所を出た。駐在は追ってはこなかった。警察が正太郎や母親に危害を加える理由はないのだが、その時はまるで、逮捕され牢屋に監禁されるような気がしたのだ。


 家に戻っても、父の姿はなかった。夜の八時を過ぎていた。二人は食欲もなく、眠れそうもなかったが、早々に布団に入った。


「お父さん、どこにいるんだろう」


 正太郎が言ったが、母親は何も答えなかった。やがてすすり泣きが聞こえてきた。正太郎はそれを聞くまいと頭まで布団をかぶった。




 次の日の早朝、言い知れぬ違和感を覚えて、正太郎は目覚めた。窓の外に人の動く気配がある。寝ぼけまなこをこすりながらカーテンを引いた。そこに人だかりができていた。


「母さん、人が……」


 訳もわからぬまま振り返って言った。母親は既に起きていて、相変わらずすすり泣きを漏らしていた。


「ねえ、人が、たくさんいるよ。どうしたんだろう」


 母親は顔を上げた。真っ青だった。目が落ち窪んでクマができている。あまりの形相に正太郎は言葉を失った。


「きっと、お父さんの事を聞いたのよ。昨日、駐在さんが言っていたでしょう。お父さんは女の子に乱暴をして、指名手配されたって」


「母さん、もしかして、本当にそうだと思っているの?」


 正太郎はカーテンを閉めると、言った。自分がずっと、母の態度に対して違和感を持っていた事に、このとき気付いた。


 母は、否定しなかったのだ。


 あの佐宗稔が、町中の人に好かれ、自分や息子にも優しい夫が、少女を強姦などするものか。母の父に対する愛情、そして控えめながら真っ直ぐな性格を思えば、そう言って否定するはずなのに。


「ねえ、母さん、なにか知っているの? どうして昨日おまわりさんに、何かの間違いだって言わなかったの」


 途中から、責めるような口調になった。母は無言ですすり泣くだけだった。


 その時、玄関をノックする音が聞こえた。チャイムでなくノックだったせいか、有無を言わさぬ決意のようなものが感じられた。


 やがて母親は頬の涙を拭うと立ち上がった。


 やってきたのは、父の同僚の男だった。同じ都市計画課に勤めており、佐渡商店街の計画にも進んで協力してくれた人物だ。稔より十歳上だったが、稔の事を佐宗先生と呼び、いつでも真摯に対応した。名を菰田こもだと言う。


「この度は、大変な事になりましたな」


 応接間に入って椅子に座ると、菰田は深い溜息をついた。


「とりあえず、外の者たちには家に戻るよう言いました。ここにいても何にもならんと」


 母親は茶を出す事もせず、ただ無言で俯いていた。菰田が背広の内ポケットから、一枚の写真を取り出した。正太郎とそう歳の変わらなそうな、若い女が写っている。


 しばらく菰田は無言でいたが、やがて意を決したように言った。


「この子が、佐宗先生に暴行されたと言ってます。昨晩、金井建設が宴会をやった民宿の娘で、まだ十四歳だそうです」


 そして菰田は、昨日の午後この娘の親が警察に訴えた事で事件が発覚した事、すぐに病院で検査したところ確かに性的暴行の跡があった事、そして、この事件はもう既に町中に知れ渡ってしまっている事を告げた。


「娘の母親が、半狂乱になって触れ回っておりまして」


 菰田はまた深い溜息をついた。


 それまで黙っていた母が顔を上げた。


「主人は、酒を、飲んだのでしょうね」


 それを言われた菰田は一瞬目を見開き、それから泣きそうな表情になり、頷いた。


「ええ、ひどく酔っ払っていたと、宴会に同席していた金井建設の社員が証言しています。稔さん、人が変わったようだったと、驚いていて」


「無理に飲まされた、と言っても、無駄なのでしょうね」


「……ええ……無駄でしょうね。暴行が事実で、稔さんが逃走している以上、何を言っても仕様がありません」


 菰田は立ち上がると、「しばらく、何もせんで静かにしといてください」と言い残し、出ていった。


「ねえ、母さん。何を話していたの。僕にはよく分からなくて」


「正太郎」


 母親は正太郎の肩を掴むと、ブルブルと震え始めた。


「正太郎、あのね」


「どうしたの、母さん」


「今回の事、多分、本当なの。お父さんがここに戻っていない事が、証拠」


「何を言ってるんだよ母さん。あのお父さんがそんな事するはずないじゃないか。戻ってないのだって、きっと何か事情があって――」


「あなたは知らないだろうけど、お父さんは、お酒を飲むと人が変わってしまうの。そういう病気なの。だからこれまで、どんなお祝い事のときだって、ほんの舐める程度しか口にしなかった。でも商店街が完成してこれだけ軌道に乗って、気が緩んでしまったのね」


「病気? 何だよ、それ」


「信じられないでしょうけど、昔、あの人はたくさんお酒を飲んで、私をひどくぶった事もあるわ。まだ若い頃。菰田さんが諌めてくれて、それはそれは心をこめてね、それでお父さんは変わったの」


「そんな……そんな事信じられないよ!」


「無理もないわ……だけれど、もう、あなたがそれを信じるか信じないか、という問題じゃないの。私達は、覚悟をしなければならないわ。大きな覚悟を」


「覚悟?」


 嫌な予感がして、正太郎は言った。母親は俯いて、言った。


「お酒が覚めて、自分のした事を知ったお父さんは、きっと自分を許せないわ。私は妻だから、よくわかるの。ねえ正太郎、お父さんは、少女に乱暴した自分を、許す事ができないわ」

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