雄三
金井建設の社屋は、五葉町ほぼ中央の山中にあった。
箱根にある古いホテルを模して設計された和洋折衷の館で、数十台が停められる駐車場、焼却炉、芝生の敷かれた裏庭があり、金井家の自宅も兼ねている。
周囲は深い森に覆われており、館へ登る道は海沿いの国道からの一本のみ。国道と行っても、片道一車線の細い道路だ。
海と山肌に挟まれたその道を行くと、やがて楷書体で金井建設、と書かれた看板が見えてくる。そこを曲がり、左右にカーブを繰り返しながら百メートルほど登ると、やっと警備員が常駐する仰々しい門扉が見えてくる。来訪者はここで身分をチェックされ、問題がないと判断されない限り、この先に入場する事は叶わない。
傳田の電話を受けて戻ってきた雄三は、そこに異様な光景を見た。
門扉と一体になっている警備員用の詰め所が、ブルーシートで覆われているのだ。
周囲には警官らしき男たちが人だかりを作っている。スーツ姿の男もいるが、あれは金井建設の社員だろうか。
バイクのスピードを落として近づいた。傳田の言葉を疑っていたわけではない。だが、テレビで見る殺人事件現場と同じ風景を前に、初めて緊張がわきあがった。
「ああ、坊っちゃん。お帰りなさいませ」
人だかりの中からひとりの社員が駆け寄ってきて、頭を下げた。傳田同様の強面である。
金井建設には、会社員だと言われなければヤクザにしか見えない人間が多く集まっている。丈三がわざわざそういう人間を選んで採用しているのだ。そうやって住民の恐怖を煽り、地位を守っている。
雄三はバイクから降りると、社員の挨拶を無視して、ブルーシートに近づいていった。恐怖よりも、期待があった。
「あ、ちょっと」
制服を着た警官の間から、スーツにベージュのトレンチコートを羽織った男が現れ、雄三を遮った。
「ここから先は、ご遠慮ください」
雄三は、自分の前に立ちはだかった男の顔を見た。真面目そうな、警察という仕事に誇りを持っている事がひと目で分かる顔だ。確か、本宮という名の若手刑事だ。ウチによく出入りしている
「何だよ、別にいいじゃねえか」
雄三は本宮の腕を掴むと、ぐいと押しのけた。強引にブルーシートの中を覗く。
詰め所の中に、血が飛び散っていた。壁や天井に、コーヒーをぶちまけたような赤黒い斑点ができている。鑑識官なのだろうか、床に数名の男がしゃがみこんで作業をしている。そこにはまだ、池のように血液が溜まっていた。
「雄三さん、ダメだと言っているでしょう」
今度は本宮が雄三を無理やり引き戻した。詰め所の外にまで引っ張りだされる。
「殺されたのは誰だ、警備員か」
本宮は一瞬迷う素振りを見せた。雄三に情報を渡していいのか、考えているのだろう。だが、結局本宮は話した。
「被害者は、金井警備の山岸和伸という男です」
「山岸?」
聞き覚えのない名前だった。もっとも、金井建設本体の社員の名すらまともに知らない雄三である。その子会社の人間を気にした事などなかった。
「数年前に雇われた嘱託社員です。年齢は六十九歳、元銀行員だったそうですが、定年退職後、自ら雇用を願い出たそうで……」
「犯人は? 誰が殺ったんだ」
既に山岸への興味は失せていた。本宮は困った顔をしたが、すぐに熱っぽい表情に変わり、言った。
「不明です。現在捜査中ですが、山から侵入したらしく、監視カメラにも映っていませんでした」
口調は丁寧だが、どこか挑むような雰囲気を感じる。いけすかねえ野郎だと雄三は思った。この金井雄三を前に、顔には自信が漲っている。二十歳の雄三よりは当然年上だろうが、それでも、明日葉のような爺とは違う。まだ二十代かもしれない。
「目的は何だよ、何だってそんな爺さんを殺さなきゃならねえんだ」
苛立ちを覚えながら言った。本宮の顔が、さらに熱を持ったように赤くなった。
「犯人が不明な今、その目的もまた不明です。ただ――」
本宮はそこまで言って、言葉を切った。わざとらしく俯いて、言いよどむ。
「ただ、何だよ」
いよいよ怒りを覚えて、雄三は言った。本宮は顔を上げた。
「調べによると、殺された山岸は独り者でしたが、周辺の人間からの評判は決して悪くなかった。酒も煙草もやらず、ギャンブル好きという話もない。トラブルの影がないんです。ましてや殺されるような情報は見つかっていません」
「だからなんだ」
雄三は本宮を睨んだ。だが、本宮は目を逸らす事なく、言った。
「私個人の見解ですが、今回の事件は彼を狙ったものではないと考えています」
雄三は、ニヤリと笑った。
こいつ、いい度胸だ。
「つまりお前はこう言いたいわけだ。犯人の目的はその山岸って爺さんじゃない。――本当は、金井建設が標的なんだと」
「そ、そこまでは言っていません。ただ、山岸には殺される理由が――」
本宮は初めて怯えた表情を浮かべ、俯いた。
雄三は振り返ると、本宮を置き去りにバイクの方に歩いていった。本宮とのやりとりを見ていたのだろう、警察官や金井建設の社員が、さっと視線を逸らす。五葉町の「王子」が、癇癪を起こさないかと怯えるように。
雄三は愛車に跨がり、エンジンを掛けた。
「よお」
まだ俯いたままの本宮に声をかけた。
「は、なんですか」
「どうやって殺したんだ。犯人は、その爺さんを」
本宮が顔を歪めた。ゴクリとつばを飲み込むのが見えた。
「分かりません、何かの道具を使ったのか、あんな遺体、初めて見ました。まるで――」
「まるで?」
「巨大な化け物に殴り殺されたような――」
そう言って本宮は、吐き気を感じたのか口元を押さえた。
館の玄関前に、制服姿の警官が二人立っていた。
普段は裏手のガレージまで進み、裏口から入って自分の部屋に行く。そうすれば金井建設の事務所を通る必要がないからだ。
だが今日は、社員たちが、そして父・丈三がどんな状態にあるのか、興味がわいた。警官のすぐそばで停車し、エンジンを切る。二人の警官はそれが雄三だと分かると慌てて敬礼した。雄三はそれを無視して表玄関を開けた。
吹き抜けの玄関ホールは、三百平米以上ある巨大な空間だ。
向かって左側には、喫茶店のようにいくつもの応接セットが並んでおり、右側の空間が、金井建設の事務所になっている。腰ほどの高さのカウンターで仕切られてはいるが、基本的にはオープンなスペースで、社員たちの姿が見渡せる。
無意識に丈三の姿を探したが、いなかった。二階の社長室にいるのだろう。
社員の一人が雄三に気づき、急いで立ち上がった。
「お帰りなさいませ、坊っちゃん」
声に気付いた他の社員たちも、次々に立ち上がって頭を下げた。五十名近い人間が自分に向かって頭を下げている。そのいつも通りの風景に、雄三は嫌悪感を覚えた。
彼らは一瞬前まで、事件の事を話し合っていたのかもしれない。だがこんな時でも、雄三が現れれば口を止めて挨拶する。丈三が厳しくそう命じているからだ。
雄三は無言で正面の階段に向かった。社員たちのいつも通りの反応に、事件の事などどうでもよくなった。「坊っちゃん」後ろからの声が追いかけてきた。階段を登りながら振り返ると、傳田だった。
傳田は雄三と歩を合わせて階段を登りながら、「社長が、ひどくショックを受けていて」と切り出した。
「ショック? 親父が?」
「ええ、やはり、社内で人が亡くなったわけですから」
「そんなの、別に大した事ねえよ。警備員が一人、減っただけだろ」
「犯人が捕まっていない以上、油断はできません。犯人の目的は、警備員を殺す事じゃないかもしれない」
階段の踊り場で、雄三は立ち止まった。傳田の顔を覗き込む。
「お前も、マトは金井建設だって言うのか」
「え?」
「だから、犯人の目的は金井建設だって、その社長の金井丈三だって言いたいんだろ?」
雄三は自嘲的に笑ってみせた。だが傳田は笑わなかった。
「その可能性は充分にあります。ウチを恨んでいる人間は、少なくないでしょうから」
傳田の冷たい無表情に、雄三は頬が引きつるのを感じた。思わず黙ると、傳田は小さくため息をつき、それから軽く頭を下げた。
「坊っちゃん、社長に会ってやってください。あなたは、あの方の唯一の家族なんですから。ショックな事件が起きて、塞ぎこんでいます。どうか、優しい言葉をかけて――」
ほとんど無意識に、舌打ちが出た。俯いた傳田の目が、僅かに見開かれた。
「何が優しい言葉だ。こんな時だけ家族だとか抜かすんじゃねえよ。誰が行くか」
傳田を置き去りに、階段を駆け登った。
廊下は奥にまっすぐ続いている。赤黒い絨毯。等間隔で並ぶ扉。
雄三の部屋は突き当りの角にある。大股で歩いた。それだけでは足りずにタバコを咥えて火をつける。
ショックを受けている、だと?
勝手な事言いやがって。タバコの煙を強く吸い込んだ。
互いを避けるようになってどれくらい経つだろう。同じ建物の中に暮らしていても、丈三と顔を合わせる機会は少なかった。
雄三は仲間と遊びまわって家には居付かなかったし、たまに廊下や食堂で鉢合わせても、丈三の方が気まずそうに目を逸らした。言葉はおろか視線を交わす事すらなくなり、用事があるときは、傳田や他の社員を通じてやりとりした。
「クソが……」
嫌になるほど長い廊下だった。しかも、社長室の前を通らなければならない。
唯一の家族。傳田のその言葉に嘘はない。
母親は、雄三が物心つく前に出て行ったと聞いた。強権的で自分勝手な父に嫌気が差したに違いない。丈三の方が出て行けと命じたのかもしれない。いずれにせよ、雄三は母親の顔を知らずに育った。生活の世話をするのは丈三の雇った多くの使用人たちで、その使用人にしても、頻繁に顔ぶれが変わった。ほんの些細な失敗をするだけで、丈三が容赦なく解雇したからだ。
雄三はそれでも、五葉町の王としての父の姿に、どこかで憧れとも畏敬とも言えぬ感情を持っていた。この大きな会社の舵取りを行い、街に出ればあらゆる人間が手を止め、頭を下げる。社員を怒鳴りつけ、警察を顎で使い、他の企業の重役を殴りつけた事もあった。そういう父親は、嫌ってはいても、確かな存在感があった。
それなのに、何だ。何が優しい言葉だ。
左右の壁に等間隔で並んでいた扉が、急に少なくなる一角がある。普通なら十室ほど取れるスペースを「社長室」と表札の出た大きな部屋が占めている。
雄三は足を早めた。他の扉とは違う、豪華な彫り物のされている仰々しい扉を見ないよう、大股で歩いて行く。
だが、タイミングを測ったように、それは開けられた。
「おや、これはこれは」
中から出てきたのは、明日葉だった。
さっき会った本宮の上司で、五葉警察署の刑事課長を務めているベテランだ。五場警察署においては、署長以上の権力を持っているとも噂されている。
「今お帰りですか、坊っちゃん」
明日葉はそう言って微笑んだ。
明日葉は、決して感情的にならず、常に穏やかな物腰を崩さない。だがその仏のような微笑みの裏で何を考えているのか分からないところがある。金井建設との関係は深く、雄三が生まれる前から丈三とは懇意だったのだそうだ。今年定年を迎えるとかで、退職後は金井建設の相談役に、という話も出ているらしい。
明日葉は扉を閉めると、雄三の行く手を阻むように、廊下の真ん中に立った。六十歳には見えないたくましい筋肉をまとっている。まるでダルマのようで、嫌な威圧感がある。
「それにしても、大変な事になりましたなあ。聞きましたか?」
「――ああ、警備のジジイが殺されたんだってな」
雄三はしぶしぶ足を止め、受け応えた。閉められた扉の向こう側が気になった。ここから出てきたという事は、明日葉は丈三と話をしていたに違いない。
「ああ、お父上の事が気になりますか」
雄三の目線に気付いたのだろう、明日葉が言った。咄嗟に否定しかけたが、黙った。少しでも早く話を切り上げて、部屋に戻りたかった。
「かわいそうに、憔悴されとりますわ。まあ、今までもいろいろとトラブルには遭ってきたが、さすがに社員を殺されるだなんて事は初めてですから、無理もないでしょう」
「犯人は、誰なんだ」
父の話題から離れたくて、思わず言った。
「さあ。ただ、なかなか肝の据わった人間である事は確かでしょう。なんたって、天下の金井建設に牙を向けておるわけですからな」
明日葉はそう言って笑った。
「悪いけど、用事があるんだ。通してくれ」
「おや、そうですか。これは失礼」
雄三が言うと、明日葉は笑顔のまま壁際に寄り、道を開けた。無言で通り抜ける。明日葉のねっとりした視線を、横顔に感じた。
嫌な野郎だ。そう考えていると、「坊ちゃん」と、後ろから声をかけられた。
「なんだ」
「坊ちゃんも、ご用心くださいよ。犯人の目的が、あの警備員殺しだったとはとても思えませんからな」
明日葉はそう言ってニヤリと笑った。
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