第2話

「今の人、どう思った?」

 女の話を資料にまとめながら、スミレが僕に問いかける。

 質問は曖昧で、彼が僕に何を答えさせたいのかが分からない。僕は言葉を濁す。

「私は苦手なタイプだな。私の母に似ている」

「へえ、意外だ。君にも苦手な人間がいるんだ」

「当たり前だ」

 スミレが短く答える。彼と母親の間に確執でもあるのだろうか。好奇心が顔を覗かせるが、僕には必要のないものだと思い直す。

「僕は……」

 僕達を欺こうとしているとは思わなかったが、彼女の認識が誤っている可能性は大いにありそうだというのが、全体的な印象だった。人間は誰だって嘘を吐く。自分さえも騙してしまえるのだから、人間の語る言葉は一から百まで信用できない。

「僕は……よく分からない。でも、コトノがいないって言ったらちゃんと引き下がったから、まともな人なのかなとは思った」

「確かに、依頼主として文句はないな」

「とりあえず身辺調査からやる?」

 僕達は淹れなおした紅茶を片手に調査を開始した。

 スミレが彼女の名刺をカードリーダーで読み込む。未だに情報の受け渡しはカードが安全だという信仰めいたものがなくならないのは、紙の名刺を交換していた時代の名残だろうか。とはいえ、それぞれが勝手にセキュリティ対策を施すので、それらに対応できるようカードリーダーの性能を上げざるを得なくなっているのは、お笑い種かもしれない。

園蛇萌えんだも、三十五歳。デザイナー。炊瀬拓たかせたくとは二十五で結婚したらしい」

「何のデザインをしているんだ?」

「建築がメインみたい。えっと……古い建物を改築したりもしているね」

 スミレが情報を読み上げてくれるが、なんとなく嫌な予感がするのは僕だけだろうか。

「直近で彼女が担当してるのも、火富村ひとみむらの廃校になった小学校を宿泊施設にリノベーションする案件だね」

 僕達は立ち込める暗雲に顔を見合わせた。彼の渋る様子を見るに、僕も同じような表情を浮かべているのだろう。

 最もシンプルに考えられるのは、仕事で訪れた村で、彼女が何かに触れてしまったということだ。家族にも影響が出ていることから、何かを持ち帰ってしまった可能性もある。

「……どうする」

「引き受けてしまったからには仕方ない。火富村ひとみむらに行って調査するしかないだろうな」

 相手が神様なのか怪異なのかは知らないが、機嫌が悪いだろうことは容易に想像が付いた。僕は重い溜息を噛み殺した。

「さて、準備しよう。とりあえず地下で魔除けの御守りでももらってくるか」

「地下室?」

「そっか、エルはあそこに入ったことなかったな。じゃあ一緒に行こう」

 地下室へと案内する男の背中を、僕は慌てて追いかける。細い階段は螺旋状にどこまでも伸びていくように思える。小さな明かりを頼りに、僕達は底冷えする中を下へ下へと降りていく。

「……僕が入ってもいいのか」

 思いの外、反響する声に自然と声を潜めることになる。スミレは気にした様子もないが、何か異様なものの気配が次第に濃くなっていく。自分の影の濃淡を、未知の生物を見るような気持ちで眺めながら進んでいく。

「ん? もしかして遠慮していた?」

「少しね」

「気にしなくて良いんだけどね。あそこの鍵は、向こう側から入ってくるのを制限するためのものだから」

「……何が入ってくるんだ?」

うつせのもの」

 その瞬間、ぞわりと背中を冷たい風が這い上がる。それがどんなものかは知らないが、本能的な恐怖が先行する。それは何だと問いたいのに、言葉が口から出てこない。機械のように淡々と足を動かして、息を殺して降りていく。寒くて震えているのか、怖くて震えているのか自分ではもう分からなかった。

 「着いたよ」という普段通りの彼の声に、少しだけ現実に引き戻される。階段の先にあったのは、重厚な木の扉だった。見たことのない文字がぐるりと輪になって書かれている。何かがこちら側に出てくるのを防ぐ門。向こうとこちらの境界線。そんな非実在めいた扉の脇には近代的なタッチパネルが付いていて、そのアンバランスさに頭がおかしくなりそうだった。

「大丈夫?」

「ああ」

 僕は口先だけそう答える。この男相手に強がりたいというわけではない。ただ、それ以外の返事の仕方を知らないだけだ。

 扉は音もなく開く。僕は緊張で息を飲んだ。化物が飛び出してくる覚悟はできていたから、恐怖で目を瞑ったりはしなかった。

 だが、実際に広がっていたのは静謐に包まれた湖だった。

 どこに光源があるのかは確認できないが、暗い水面が鈍く反射してどこまでも続いている。事務所の何倍の広さなのか想像もできないほどに広大で向こう岸は見えない。

「これは天然の湖?」

「実際には存在しないけれどね。向こう側はうつせだから」

「うつせ?」

「私も詳しくは知らない。こちら側とよく似た異なる世界があって、それらが交わる場所がここってことだけ。実態の定かでないそれらをまとめて虚(うつせ)と呼んでいるだけ」

 人間の未知のものに対する恐怖は、過大になりがちだ。名前のないもの、言語化できないものへの漠然とした捉えどころのなさが恐ろしさに結びつく。だから、スミレがこの異質な空間で平然と立っていられるのはそういう理由かもしれない。彼は名前を付けて、彼らと共存することを選んだのだ。

 スミレは湖に手を入れる。ちゃぽんと水の揺れる音が静かに伝わっていく。

「さ、触ったらいけないものとか、見てはいけないものとかないのか?」

「うん、好きにして良いよ」

 彼は笑って言うが、好き勝手できる雰囲気ではない。僕はできるだけ大人しくしようと心に決めて、彼の行動を見つめることに専念する。彼が湖に沈めた腕をそっと手を引き上げると、ゼリー状の透明な物体が握られていた。

「それは何」

 僕が震える声で問いかけているうちに、その柔らかそうな何かはうねうねと姿を変えていく。一瞬たりとも目を離していなかったのに、些か自信がないのは目の前で起こった出来事があまりにも信じがたかったからだ。その何かは、彼の手の上で木のお札に姿を変えて、もうぴくりとも動かなかった。

「ど、どうして!?」

「……理由は考えたことがなかったな。ここはそういう場所なんだよ」

「欲しいものが何でも手に入る?」

「何でもではないよ。ここから取り出せるのは、向こう側で捨てられたものだけ」

 スミレはそう言って、粗雑に湖に手を突っ込む。ばしゃばしゃと水をかき回し、ぱっと広げた手の中で水の塊のような何かが綺麗な石の付いた指輪に変わっていく。信じられない。

「見かけ程良いものじゃないけれど、ね」

 暗い表情を浮かべた男は、美しい仕草で宝石を湖に戻した。水に戻った石は、溶けてなくなってしまった。

 茫然自失とはこのことで、思考放棄した僕はぼんやりとただ立ち尽くしていた。

 水から欲しいものを作り出す錬成術。しかし、彼は向こう側で捨てられたものを拾っているだけだと言う。ではなぜ、都合よく自分の欲しいものを取り出せるのか。

「なぜ」

 自分の声が洞窟の天井に反響する。自分で思っているより冷たい音が出た。目の前の現象全てに対して、疑問しかない。

「彼らが向こう側でどんなものを捨てているのか、正確には知らない」

 でも、とスミレは続ける。

「多くの人にとって価値あるものであっても、それを保有している本人がどう思うかなんて分からない。だから、価値あるものだってここにはあるのさ」

「君はそれを自由に取り出すことができる?」

「私は……うつせが見えるから。向こう側で捨てられたときの形が分かるだけ」

「良いね」

「え」

「うん、僕も見えたら良かった。それが君の持つ先天的な才能なら羨ましい」

「……そういう反応をされるのは予想外だった」

「皆はこのこと、知っているのか?」

「いや」

「では、なぜ僕に打ち明けたんだ? 出会ったばかりなのに」

 自分自身が彼に信頼されるに値する人間だとはちっとも思えなかったから、これは純粋な疑問だ。人間に残された機能はこれしかないのだと思ってしまうほどに、なぜと思えて仕方ない。

「……エルは嘘を吐かないだろ。隠し事だらけだけど、嘘を吐かないことは信じられるから」

「買い被りだよ」

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