20 価値観と好み
世界というのはとても広く、自分の行動範囲はそれに比べるととても狭いものだと思う。だが家族はその狭い範囲で蠢く者を時に、把握しなければならない。自由とは互いにその中から抜け出た環境にあるときに感じるもの。
すなわち、巣立ちだ。
巣を共にしている以上、なんらかの制約はつきもの。それが人が穏やかに共存するために必要な最低限のルール。
自分なりの講釈を述べたところで、
「で、どうするの?」
と再び花穂に問われる。
「考え中。両親が忙しい人でさ。それでも子供には手料理を食べさせたいと言って、父母が交代で作ってくれるんだよね。夕飯を」
「あら、素敵ね」
奏斗は相槌を打つ花穂の手元を見つめていた。
「じゃあ、奏斗が家を出たら寂しくなるわね」
”風花ちゃん一人でしょう?”と言われ、
「うちは二世帯だから、祖父母がいる」
と返答する。
”そうなの”と言って彼女はクラッカーの上にモッツァレラチーズとトマトを乗せ、奏斗の皿へ滑らせた。
「なら、何を迷っているの?」
家のことが気がかりだから迷っていたわけではない。
「どの道、あまり家にいないなと思ってさ」
「それじゃあ少しもったいない気もするわね」
”一緒に暮らす?”と、彼女。
クラッカーに手を伸ばしかけた奏斗の指先が止まる。
「付き合っているわけではないけれど。ルームシェアはどう?」
それは嬉しい申し出であった。結菜と愛美のことがなければ、すぐに交際を申し込んでいただろう、相手。
恋愛感情はもちろんあるが、それ以前に一緒にいるのがとても楽な相手でもある。
「愛美さんが文句を言いそうだとは思う。でも、決めるのは奏斗だし」
”一緒に暮らすなら価値観の合う相手が一番よ”と花穂。それは経験に基づく話なのだろうか。家族とはいっても、他人に違いない。仲の良い家庭もあれば、仲が良くても一緒にいるのは無理という場合もあるだろう。
一緒に生活するということは、そんなに楽なことではない。
「俺は嬉しい申し出だが、一人になりたいから家を出たんじゃないのか?」
花穂が家を出たのは、新しい母に気を遣ってということではなかったらしい。単に生活スタイルが合わず、自由を感じられなかったからだという。
「奏斗なら構わないわ」
結婚にしても恋愛にしても、好きなだけでは成り立たない。
あの頃は気持ちだけで乗り切れるものだと思っていた。
奏斗は礼を述べ、グラスに手を伸ばす。
彼女の指にいつか約束の証を添えられたらいいなと思いながら。
「風花ちゃんは反対するかしら?」
ルームシェアの件を両親に話すと言えば、花穂は妹の風花のこと気遣う。
「反対はしないだろうな。あいつは俺がどこにいようが、用があれば呼び出すし」
このローストビーフなかなか美味いなと思いつつ、苦笑いをしながらそう返答すれば、
「なかなかの下僕っぷりね」
と笑う彼女。
「ところで、映画。何か観たいものでもあるの?」
付き合っていた頃も映画館へは足蹴く通った記憶がある。彼女の好きなバンドの曲は映画の挿入歌として使われてもいた。そのバンドを知ったのも映画がきっかけだと言っていたことを思い出す。
「映画の上映期間って意外と長いじゃない? 有名どころではないのだけれど」
”有名どころ”が映画なのか映画館なのか判断しかねていると、花穂はわきに置いてあったタブレットを取り上げた。
「古い映画を上映している映画館を見つけたのよ」
電源を入れ立ち上がりを待つ彼女の目は輝いている。本当に映画が好きなんだなと思いながら、こちらに向けられたタブレットの画面を奏斗はのぞき込む。
「最近の映画館ってバーなどが併設されていてお洒落なところが多いけれど、古いところもいいわよ」
映画館の外観と内装、近場のお店などがホームページにクローズアップされていた。どこかの映画好きが作ったホームページのようである。
「小さな映画館だけれど、平日は空いているみたい。近くにある喫茶店も素敵よ趣があって」
「へえ」
紹介されているのはレトロな喫茶店。
「レトロアンティークカフェ。近代的な構造が好まれる現代だけれど、やはり人は自然が一番落ち着くのよね」
木やレンガなどが使われた空間は確かにお洒落に見える。
「いいね」
奏斗が同意を示すと彼女は嬉しそうに笑ったのだった。
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