19 穏やかな夜に

 奏斗は一人、カウンターに腰かけスマホの画面を眺めていた。

 花穂がシャワーに行くというので、一緒に入ろうと言ったら、

「風邪ひくから嫌」

と断られたためである。


 視線の先には妹からのメッセージ。外泊するなら一言寄越せと母が言っているらしい。”お兄ちゃんばかりズルい”という恨み言付きだ。

 そんなこと言われてもなと独り言を零しながら、返信内容を打つ。

 元は高校を卒業したら家を出るつもりでいたのだ。予定が狂ったのは高校の時に付き合っていた『美月愛美』と別れたのが理由。このまま就職まで家にいても問題はないだろうが、不規則な外泊が増えればいろいろと面倒になる。

 あと二年以上もあるのかとぼんやり思いながらため息を漏らすと、

「どうかしたの?」

と声をかけられた。


 顔をあげれば、花穂が冷蔵庫に手をかけたところだった。

「奏斗も何か飲む?」

「うん」

 二つのグラスにミネラルウオーターを入れ、隣に腰かける彼女。

 奏斗の手元を覗き込みながら、

「風花ちゃん?」

と問う。

「そ。外泊するなら連絡しろという伝言」

「そっか。奏斗、実家だものね」

 奏斗は相槌を返すとグラスに手を伸ばしながら、

「出るはずだったんだけどね」

と苦笑いをする。

「出るはずだった?」

 ミネラルウォーターのグラスから唇を放した花穂が不思議そうに聞き返す。

「そ。愛美と同棲予定だったから」

 途端に嫌な顔をする花穂。


「なんだよ、その反応」

「べつにー」

 わざと唇を尖らせる彼女に奏斗は軽く口づけた。

「ちょ……油断も隙もないわね!」

 片手をあげ殴るふりをする彼女。

 奏斗はふふっと笑って拳を口元へもっていく。

「いずれは結婚するつもりだったから、さ」

「ふうん。ほんと、奏斗って見た目とのギャップがあり過ぎなんだけれど?」

「そう? 気のせいじゃね」

 あの頃は真剣につき合っていたと思う。でも、理想だけでは無理なんだと理解した。自分には他人の荷物まで抱えることはできない。そんな大人にはなれなかった。


「しかも今はその相手から逃げ回っているわけでしょ?」

「逃げているつもりはないが、人生何が起きるかわからないもんだな」

 奏斗が頬杖をついて、くるくるとミネラルウォーターをかき混ぜていると、花穂が立ち上がり上の棚からジンを取り出す。

「他人事みたいに言っているけど、自分のことよ?」

 軽く肩を竦め、瓶をカウンターに下ろすと、

「呑む?」

と一言。

「それは俺に飲酒運転を勧めている? それとも泊めてくれるわけ?」

「あら、代行という選択肢もあるわよ」

 さっきの仕返しなのか、意地悪気に言って再び冷蔵庫へ向かう彼女。


 奏斗は苦笑いを浮かべながら、彼女の様子を眺めていた。

「ナッツとローストビーフでいい? サラダもあるわ」

「手作り?」

「YES……と言いたいところだけれど、答えはNOね。purchased at a nearby supermarket」

「近所のスーパーね。あのちょっと高級な」

 この近くには病院などが立ち並んでいる。そういう層向けなのかは定かではないが、近くにランクの高いスーパーがあった。

「自分で作るなら、普通のところでもいいけれど。ああいうところの総菜は甘くて合わないの」

「その気持ちはわからないでもない」


 ”だからもっぱら自炊派”と言いながら彼女は切り分けたチーズとポテトサラダをカウンターに乗せる。

 ローストビーフとトマトの皿を置くとバジルドレッシングをトマトにかけた。

「このドレッシング、結構おいしいのよ」

 角瓶に入った緑色のドロッとした液体。非常にお高そうだ。

「へえ」

「箸が良い?」

 彼女は隣に腰かけながら、箸の入ったお洒落な籠を奏斗の方に押しやる。

「ありがとう。音楽をかけても?」

「ええ」


 音楽が部屋を包むと、

「また映画でも行きたいわね」

と花穂。

「そうだな」

 人を作るものはなんだろうか? と思う。花穂との空気はとても穏やかで好ましい。自分が選びたいものは、ここにこそある。

「家、出るの?」

 ソーダ割りのクラスを差し出しだしながら問いを口にする、花穂。

 奏斗は彼女の揺れる瞳を見つめながら、その髪に指先を絡めた。

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