コーヒー

永島 弦人

第1話

あれは確か風の強い日だった。


その日の僕は深く良質な眠りから目を覚ますとお湯を沸かしてコーヒーを淹れようとした。いつも決まってこうなのだ。毎朝目が覚めたらコーヒーを淹れる。そしてお気に入りのビル・エヴァンスのレコードをかけて1日を始める。平日だろうが休日だろうがいつもこうしてきた。


しかしなぜだか今日はいつものコーヒー豆がない。おかしい。いつも1番に気にかけていて豆が半分でも減ると直ぐに買いに行っていたのに。仕方ない、今日はインスタントにしよう。そう思って戸棚を開けるがインスタントコーヒーもない。全く心当たりがない。僕はといえば大のコーヒー好き、言ってしまえばコーヒーきちがいであり、初めてコーヒーを口にした中学3年生の頃から今に至るまで毎日欠かさずコーヒーを飲んできた。それなのに今日という今日、週初めの月曜日だというのに僕の家にはコーヒーを飲む術がなかった。僕は1度冷静になろうと、最後にコーヒー豆を買ったのはいつだったか思い出そうとした。ダメだ。全く思い出せない。歳のせいか、と肩を落としたが家計簿をつけていたことを思い出した。遡ってみればコーヒー豆を買った日が分かるだろう、とひたすら家計簿のページをめくる。あった。6月13日。今日は7月の28だから1ヶ月と少しの間買いに行ってなかったのか。それでもおかしい。いつもの僕のコーヒーの飲むペースだと、2週間でコーヒー豆1袋が尽きてしまう。それなのにどうしてこんなにも買いに行っていなかったのだろう。


そんな事を考えている間に時計の針は7時半をまわっていた。9時までには出勤したい。どうしたものか。行く途中でコンビニに寄ってコーヒーを買うか?いや、ダメだ。やはり自分の淹れたコーヒーでなければ1日を始められない。僕は中学生時代にあの味を覚えてしまってから1度も朝のコーヒーを欠かしてはこなかったのだから。やはりコンビニか何処かでコーヒー豆を買って自分で淹れたものを飲もう。この結論に達した僕は、素早く家を出て車のエンジンをかけた。近くのスーパーはまだ開店していないから、検索して出てきた少し遠くにある個人経営の商店に行くことにした。カーナビに登録すると約20分で着くと出た。往復してコーヒーを淹れる時間も考えると出勤には少し間に合うか不安だが、背に腹はかえられない。これは重要なことなのだ。と自分に言い聞かせ、車を走らせた。


車を走らせながら、自分とコーヒーについて考えてみた。決して僕はカフェイン中毒ではない。これだけは断言できる。コーヒーを淹れるあの時間、そして自分で淹れたコーヒーを飲むという行為、それらが好きなのだ。何とも言えない多幸感、そして1日の始まりを告げるかのように体内にカフェインが駆け巡るあの感じ。想像しただけで脳が溶けそうな快感を覚える。ああ、早くコーヒーが飲みたい…!はやる気持ちを抑えながらカーナビに従い、なんとか目的地の商店に着くことができた。


着いてすぐその商店に入ると、中は少し埃っぽい空気で独特の匂いがした。外見からも分かったが、結構長い間経営してる店みたいだな。ごめんください、と僕が言うとそれに応えるように店の奥から店主らしき男がでてきた。いらっしゃい。と店主が言い終える前に僕はコーヒー豆を探しているのですが…と思わず口にしてしまった。これは反射的なもので自分の理性では抗えなかった。昔からせっかちな性格だと言われてきたが、こればかりは治らない。被せ気味に言ってきた僕に少し驚いた様子の店主だったが、すぐにコーヒー豆のあるコーナーへと案内してくれた。


そこには思っていた以上の種類の豆があった。キリマンジャロやブルーマウンテンなど有名な銘柄から、グアテマラやマンデリンなどマイナーな銘柄まで幅広く取り揃えていた。そんな中、見たことの無いコーヒー豆があった。真っ赤なパッケージに大きな文字で「グリーンマジック」と書かれていた。何だこれは、とすかさず店主に尋ねてみた。

「すみません、このコーヒー豆初めて見たんですけどどんな風味なんですか?」

店主の男はかけている眼鏡をあげ目を凝らしてそのパッケージをみる。

「これはー、確か知り合いのカナダで働いてる奴が自分で栽培した豆を売りに来たんだったかな」

と首を傾げながら答えた。

カナダ。あまりコーヒーと馴染みがなさそうなイメージだが、逆に興味深い。どんな味がするんだろう。偶然ここに来てこんな物に出会うのは奇跡だと直感的に思い、僕はそのコーヒー豆を購入した。「周りの人にはあまりこの豆のこと教えないでくださいね。」そんな事を言う店主に少し違和感を覚えたが、特に教える友人も持ち合わせていないため僕は快諾した。意外にも求めやすい値段だった。こんな珍しい豆を安く買わせてくれた店主に軽く感謝の気持ちを述べてから、急いで僕は家へと向かった。


車のスピードを上げていくつかの交差点を走り抜け、ようやく家に着いた。早くコーヒーも飲みたいし、会社に遅刻もしたくないと家に入るなりすぐさま買ったコーヒー豆を開けた。すると中からは嗅いだことも無いような匂いが一気に僕の鼻を突き抜けた。あんな古い商店だったから酸化しちゃってるのか? そう思い袋に手を入れ中のものに触れると、いつもの豆の感触とは全く違う感触だった。何だこれ? 恐る恐る外に出してみると、緑色とすこしの茶色が混じったような草のような固形物がでてきた。騙された。そう思うのと同時に、これは一体何なのかと疑問が浮かんだ。確実にコーヒー豆ではないことは確かだ。しかしどこかで見たことがあるような見た目だ。待てよ。嘘だろ。もしかして本当にそうか?


興奮と少しの恐怖が急に僕を襲った理由は、これが何なのかという見当がついたからだった。間違いない。これは大麻だ。この見た目、嗅いだことの無いこのなんともいえない匂い。本やインターネットで見たことがあるあの見た目とそっくりだ。カナダの知り合いが持ってきたという店主の話にも合点がきく。カナダは大麻合法国だ。しかしここは日本だ。大麻は所持しているだけで罰される。どうする。今自分は大麻を所持している、と少しの不安や緊張感で身体が身震いするのを感じたが、同時に好奇心で心臓が高鳴っていた。脳が正常な判断をする前に、僕は検索エンジンで「大麻 吸い方」と検索し、ヒットしたWebサイトの言う通りにジョイントを巻いてしまった。そこからはあっという間だった。元々喫煙経験があったため煙には抵抗がなかった。ジョイントに火をつけて吸い込むと、目の前の世界がゆっくりと反り上がってきた。とても立てない、と目を閉じると僕は夢の中にいた。しかしその夢の中は現実世界のようにはっきりとしていて、いつも見る夢とは全く違うものだった…。


目を覚ますと、次の日の夕方だった。

僕はあの夢の中に入ってから一日半くらい眠ってしまっていた。言い方を変えるとトリップしていた。当然、携帯には会社からのメールや着信が何件も来ていた。しかしそれには何もストレスを感じず、むしろ多幸感に僕は包まれていた。自分でコーヒーを淹れて飲む、あの行為の何千倍もの多幸感が僕を包み込んでいた。


その日から僕は会社に行くこととコーヒーを飲むことを辞めた。大麻を吸って夢の中へ行くことの方が僕にとっては有意義で大切だと思ったからだ。夢の中へトリップしている間は、テレビから流れる嫌なニュースや、外の車のクラクションの音も全く気にならなかった。また流れている音楽はいつもの数倍良く聴こえ、いつも聴いていたビル・エヴァンスのレコードも、まるで彼がそこで演奏しているかのように感じられた。あの商店にも通いつめた。行くたびにあの店主はカナダ人が最近来ないと言い、大麻の値段を高くしてきたが全く気にならなかった。良いことしかなかった。ただ何も言わずに僕を受け入れてくれる大きな世界が夢の中には広がっていた。


そんな生活を続けていたある日、来客が来た。午前9時頃だった。丁度トリップから目を覚ました時だったのでなんの疑問も抱かず玄関を開けた。そこには2人の警察官がいた。

「こういう者ですが、ちょっと署までご同行願えますか?」

その瞬間僕は終わった、と肩を落とした。そこからは覚えていない。簡単な取り調べを受けたあと、大麻所持で僕は捕まった。その後何年間か刑務所で暮らし、大麻を吸いたいという気持ちは自然と消滅した。と同時に、コーヒーを飲みたい欲が高まり始めていた。あのコーヒーを淹れるという崇高な行為、やはり合法的なもので楽しまなければダメだ。出所したら絶対コーヒーを飲んでやる、そしてもう一度働いて人生をやり直そう。この強い気持ちで長い刑務所生活も全く苦しくなかった。


そうして単調な生活を繰り返し、ようやく出所の日が訪れた。お世話になった刑務所の人達に別れを告げて、僕は外へ出た。天気は晴れ。久々に吸う外の空気。全てが違うものに見えた。何年間か刑務所にいたからか、街の景色も随分と変わっていた。3ヶ月くらいはこの変化した物事に驚く日々が続くんだろうな、と考えながら変わった街並みや道路をゆっくり歩いた。人生をやり直すにはまず日本の変化についていち早く知ろうと思い、コーヒーを飲みたい欲をぐっと堪えて大きな交差点へ向かった。この交差点では大きな電光掲示板に最新のニュースが映し出される。それで先ずは直近のニュースを知ろうと思った。昨日あった事件や世界の経済状況など様々なジャンルのニュースが流れている。テクノロジーの進歩や新たな生活のかたち、価値の変化など多くに驚いた。

そんな中、突如僕の目を疑うニュースが流れてきた。


「速報 コーヒーが日本の法律上違法に 国内のカフェイン中毒患者急増が原因か」


僕は目の前が真っ暗になった。

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