六
野だは大きらいだ。こんなやつは
ここへ来た時第一番に氷水をおごったのは山嵐だ。そんな裏表のあるやつから、氷水でもおごってもらっちゃ、おれの顔にかかわる。おれはたった一杯しか飲まなかったから一銭五厘しか払わしちゃない。しかし一銭だろうが五厘だろうが、
おれはこれでも山嵐に一銭五厘奮発させて、百万両よりたっとい返礼をした気でいる。山嵐はありがたいと思ってしかるべきだ。それに裏へ回って卑劣なふるまいをするとはけしからん野郎だ。あした行って一銭五厘返してしまえば
おれはここまで考えたら、眠くなったからぐうぐう寝てしまった。あくる日は思うしさいがあるから、例刻より早ヤ目に出校して山嵐を待ち受けた。ところがなかなか出て来ない。うらなりが出て来る。漢学の先生が出て来る。野だが出て来る。しまいには赤シャツまで出て来たが山嵐の机の上は白墨が一本
おれは教頭に向かって、まだだれにも話さないが、これから山嵐と談判するつもりだと言ったら、赤シャツは大いに
ところへ両隣の机の所有主も出校したんで、赤シャツはそうそう自分の席へ帰っていった。赤シャツはあるき方から気取ってる。
授業の都合で一時間目は少しおくれて、控え所へ帰ったら、ほかの教師はみんな机を控えて話をしている。山嵐もいつのまにか来ている。欠勤だと思ったら遅刻したんだ。おれの顔を見るやいなやきょうは君のおかげで遅刻したんだ。罰金を出したまえと言った。おれは机の上にあった一銭五厘を出して、これをやるから取っておけ。せんだって通町で飲んだ氷水の代だと山嵐の前へ置くと、何を言ってるんだと笑いかけたが、おれが存外まじめでいるので、つまらない冗談をするなと銭をおれの机の上にはき返した。おや山嵐のくせにどこまでおごる気だな。
「冗談じゃない本当だ。おれは君に氷水をおごられる
「そんなに一銭五厘が気になるなら取ってもいいが、なぜ思い出したように、今時分返すんだ」
「今時分でも、いつ時分でも、返すんだ。おごられるのが、いやだから返すんだ」
山嵐は冷然とおれの顔を見てふんと言った。赤シャツの依頼がなければ、ここで山嵐の卑劣をあばいて大喧嘩をしてやるんだが、口外しないと受け合ったんだから動きがとれない。人がこんなにまっかになってるのにふんという理屈があるものか。
「氷水の代は受け取るから、下宿は出てくれ」
「一銭五厘受け取ればそれでいい。下宿を出ようが出まいがおれのかってだ」
「ところがかってでない、きのう、あすこの亭主が来て君に出てもらいたいと言うから、その訳を聞いたら亭主の言うのはもっともだ。それでも、もう一応たしかめるつもりで
おれには山嵐の言うことがなんの意味だかわからない。
「亭主が君に何を話したんだか、おれが知ってるもんか。そう自分だけできめたってしようがあるか。訳があるなら、訳を話すが順だ。てんから亭主の言うほうがもっともだなんて失敬千万なことを言うな」
「うん、そんなら言ってやろう。君は乱暴であの下宿でもてあまされているんだ。いくら下宿の女房だって、下女たあ違うぜ。足を出してふかせるなんて、いばりすぎるさ」
「おれが、いつ下宿の女房に足をふかせた」
「ふかせたかどうだかしらないが、とにかく向こうじゃ、君に困ってるんだ。下宿料の十円や十五円は
「きいたふうなことをぬかす野郎だ。そんなら、なぜ置いた」
「なぜ置いたか、僕は知らん、置くことは置いたんだが、いやになったんだから、出ろと言うんだろう。君出てやれ」
「あたりまえだ。いてくれと手を合わせたって、いるものか。いったいそんな言いがかりを言うような所へ周旋する君からしてが
「おれが不埒か、君がおとなしくないんだか、どっちかだろう」
山嵐もおれに劣らぬ
午後は、先夜おれに対して無札を働いた寄宿生の処分法についての会議だ。会議というものは生まれてはじめてだからとんと様子がわからないが、職員が寄ってたかって、自分勝手な説をたてて、それを校長がいいかげんにまとめるのだろう。まとめるというのは
会議室は校長室の隣にある細長い部屋で、平常は食堂の代理を勤める。黒い皮で張った
もうたいていお
このくらい関係の深い人のことだから、会議室へはいるやいなや、うらなり君のいないのは、すぐ気がついた。実をいうと、この男の次へでもすわろうかと、ひそかに
ところへ待ちかねた、うらなり君が気の毒そうにはいって来て少々用事がありまして、遅刻いたしましたと
おれは校長の言葉を聞いて、なるほど校長だの狸だのというものは、えらいことを言うもんだと感心した。こう校長がなにもかも責任を受けて、自分の
おれは、じれったくなったから、いちばん大いに弁じてやろうと思って、半分尻をあげかけたら、赤シャツが何か言いだしたから、やめにした。見るとパイプをしまって、縞のある絹ハンケチで顔をふきながら、何か言っている。あのハンケチはきっとマドンナから巻き上げたに相違ない。男は白い麻を使うもんだ。「私も寄宿生の乱暴を聞いてはなはだ教頭として
なるほど狸が狸なら、赤シャツも赤シャツだ。生徒があばれるのは、生徒がわるいんじゃない教師がわるいんだと公言している。
おれはこう考えて何か言おうかなと考えてみたが、言うなら人を驚かすようにとうとうと述べたてなくっちゃつまらない、おれの癖として、腹がたったときに口をきくと、
おれは野だの言う意味はわからないけれども、なんだか非常に腹がたったから、腹案もできないうちに立ち上がってしまった。「私は徹頭徹尾反対です……」と言ったあとが急に出てこない。「……そんな
「いったい生徒が全然わるいです。どうしてもあやまらせなくっちゃあ、癖になります。退校さしてもかまいません。……なんだ失敬な、新しく来た教師だと思って……」と言って着席した、すると右隣にいる博物が「生徒がわるいことも、わるいが、あまり厳重な罰などをするとかえって反動を起こしていけないでしょう。やっぱり教頭のおっしゃるとおり、
すると今までだまって聞いていた山嵐が奮然として、立ち上がった。野郎また赤シャツ賛成の意を表するな、どうせ、貴様とは喧嘩だ、かってにしろと見ていると山嵐はガラス窓を振るわせるような声で「私は教頭およびその他諸君のお説には全然不同意であります。というものはこの事件はどの点から見ても、五十名の寄宿生が新来の教師某氏を
しばらくして山嵐はまた起立した。「ただいまちょっと失念して言い落としましたから、申します。当夜の宿直員は宿直中外出して温泉に行かれたようであるが、あれはもってのほかのことと考えます。いやしくも自分が一校の
妙なやつだ、ほめたと思ったら、あとからすぐ人の失策をあばいている。おれはなんの気もなく、前の宿直が出あるいたことを知って、そんな習慣だと思って、つい温泉まで行ってしまったんだが、なるほどそう言われてみると、これはおれがわるかった。攻撃されてもしかたがない。そこでおれはまた立って「私はまさに宿直中に温泉に行きました。これはまったくわるい。あやまります」と言って着席したら、一同がまた笑いだした。おれが何か言いさえすれば笑う。つまらんやつらだ。貴様らこれほど自分のわるいことを公けにわるかったと断言できるか、できないから笑うんだろう。
それから校長は、もうたいてい御意見もないようでありますから、よく考えたうえで処分しましょうと言った。ついでだからその結果をいうと、寄宿生は一週間の禁足になったうえに、おれの前へ出て謝罪をした。謝罪をしなければその時辞職して帰るところだったがなまじい、おれの言うとおりになったのでとうとう大変なことになってしまった。それはあとから話すが、校長はこの時会議の引き続きだと号してこんなことを言った。生徒の風儀は、教師の感化で正していかなくてはならん、その一着手として、教師はなるべく飲食店などに出入りしないことにしたい。もっとも送別会などの節は特別であるが、単独にあまり上等でない場所へ行くのはよしたい──たとえば
おれは脳がわるいから、狸の言うことなんか、よくわからないが、蕎麦屋と団子屋へ行って、中学の教師が勤まらなくっちゃ、おれ見たような食いしんぼうにゃとうていできっこないと思った。それなら、それでいいから、
だまって聞いてるとかってな熱を吹く。沖へ行って
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