おれは即夜下宿を引き払った。宿へ帰って荷物をまとめていると、女房が何か不都合でもございましたか、お腹のたつことがあるなら、言っておくれたら改めますと言う。どうも驚く。世の中にはどうして、こんな要領を得ないものばかりそろってるんだろう。出てもらいたいんだか、いてもらいたいんだかわかりゃしない。まるでちがいだ。こんなものを相手にけんをしたって江戸っ子の名折れだから、車屋をつれて来てさっさと出て来た。

 出たことは出たが、どこへ行くというあてもない。車屋が、どちらへ参りますと言うから、だまってついて来い、今にわかる、と言って、すたすたやって来た。めんどうだから山城屋へ行こうかとも考えたが、また出なければならないから、つまりすうだ。こうしてあるいてるうちには下宿とか、なんとか看板のあるうちをめつけ出すだろう。そうしたら、そこが天意にかなったわが宿ということにしよう。とぐるぐる、閑静で住みよさそうな所をあるいてるうち、とうとう鍛冶屋町へ出てしまった。ここは士族屋敷で下宿屋などのある町ではないから、もっとにぎやかな方へ引き返そうかとも思ったが、ふといいことを考えついた。おれが敬愛するうらなり君はこの町内に住んでいる。うらなり君は土地の人で先祖代々の屋敷を控えているくらいだから、この辺の事情には通じているに相違ない。あの人を尋ねて聞いたら、よさそうな下宿を教えてくれるかもしれない。さいわい一度あいさつに来て勝手は知ってるから、捜してあるくめんどうはない。ここだろうと、いいかげんに見当をつけて、御免御免と二へんばかり言うと、奥から五十ぐらいな年寄りが古風なそくをつけて、出てきた。おれは若い女もきらいではないが、年寄りを見るとなんだかなつかしい心持ちがする。おおかた清がすきだから、その魂が方々のお婆さんに乗り移るんだろう。これはおおかたうらなり君のおっさんだろう、切り下げの品格のある婦人だが、よくうらなり君に似ている。まあお上がりと言うところを、ちょっとお目にかかりたいからと、主人を玄関まで呼び出して実はこれこれだが君どこか心当たりはありませんかと尋ねてみた。うらなり先生それはさぞお困りでございましょう、としばらく考えていたが、この裏町にはぎといって老人夫婦ぎりで暮らしているものがある、いつぞや座敷をあけておいても無駄だから、たしかな人があるなら貸してもいいから周旋してくれと頼んだことがある。今でも貸すかどうかわからんが、まあいっしょに行って聞いてみましょうと、親切に連れて行ってくれた。

 その夜から萩野のうちの下宿人となった。驚いたのは、おれがいか銀の座敷を引き払うと、あくる日から入れ違いに野だが平気な顔をして、おれのいた部屋を占領したことだ。さすがのおれもこれにはあきれた。世の中はいかさま師ばかりで、お互いに乗せっこをしているのかもしれない。いやになった。

 世間がこんなものなら、おれも負けない気で、世間並みにしなくちゃ、やりきれないわけになる。きんちやくりのうわまえをはねなければ三度のぜんがいただけないと、事がきまればこうして、生きてるのも考え物だ。といってぴんぴんした達者なからだで、首をくくっちゃ先祖へすまないうえに、外聞が悪い。考えると物理学校などへはいって、数学なんて役にもたたない芸を覚えるよりも、六百円を資本もとでにして牛乳屋でも始めればよかった。そうすれば清もおれのそばを離れずにすむし、おれも遠くから婆さんのことを心配しずに暮らされる。いっしょにいるうちは、そうでもなかったが、こうして田舎いなかへ来てみると清はやっぱり善人だ。あんな気立てのいい女は日本じゅうさがしてあるいたってめったにはない。婆さん、おれのたつときに、少々風邪かぜを引いていたが今ごろはどうしてるかしらん。せんだっての手紙を見たらさぞ喜んだろう。それにしても、もう返事がきそうなものだが──おれはこんなことばかり考えて三日さんち暮らしていた。

 気になるから、宿のお婆さんに、東京から手紙は来ませんかと時々尋ねてみるが、聞くたんびになんにも参りませんと気の毒そうな顔をする。ここの夫婦はいか銀とは違って、もとが士族だけに双方とも上品だ。じいさんが夜になると、変な声を出してうたいをうたうには閉口するが、いか銀のようにお茶を入れましょうとむやみに出て来ないから大きに楽だ。お婆さんは時々部屋へ来ていろいろな話をする。どうして奥さんをお連れなさって、いっしょにおいでなんだのぞなもしなどと質問をする。奥さんがあるように見えますかね。かあいそうに、これでもまだ二十四ですぜと言ったら、それでもあなた二十四で奥さんがおありなさるのはあたりまえぞなもしと冒頭を置いて、どこのだれさんは二十はたちでお嫁をおもらいたの、どこのなんとかさんは二十二で子供を二人お持ちたのと、なんでも例を半ダースばかりあげてはんぱくを試みたには恐れ入った。それじゃ僕も二十四でお嫁をおもらいるけれ、世話をしておくれんかなと田舎言葉をまねて頼んでみたら、お婆さん正直に本当かなもしと聞いた。

 「ほんとう本当ほんまのって僕あ、嫁がもらいたくってしかたがないんだ」

 「そうじゃろうがな、もし。若いうちはだれもそんなものじゃけれ」この挨拶には痛み入って返事ができなかった。

 「しかし先生はもう、お嫁がおありなさるにきまっとらい。わたしはちゃんと、もう、ねらんどるぞなもし」

 「へえ、活眼だね。どうして、ねらんどるんですか」

 「どうしててて。東京から便りはないか、便りはないかてて、毎日便りを待ちこがれておいでるじゃないかなもし」

 「こいつあ驚いた。たいへんな活眼だ」

 「あたりましたろうがな、もし」

 「そうですね。あたったかもしれませんよ」

 「しかし今どきのおなは、昔と違うて油断ができんけれ、お気をおつけたがええぞなもし」

 「なんですかい、僕の奥さんが東京でおとこでもこしらえていますかい」

 「いいえ、あなたの奥さんはたしかじゃけれど……」

 「それで、やっと安心した。それじゃ何を気をつけるんですい」

 「あなたのはたしか──あなたのはたしかじゃが──」

 「どこにふたしかなのがいますかね」

 「ここらにもだいぶおります。先生、あのとおやまのお嬢さんを御存知かなもし」

 「いいえ、知りませんね」

 「まだ御存知ないかなもし。ここらであなた一番のべつぴんさんじゃがなもし。あまり別嬪さんじゃけれ、学校の先生がたはみんなマドンナマドンナと言うといでるぞなもし。まだお聞きんのかなもし」

 「うん、マドンナですか。僕あ芸者の名かと思った」

 「いいえ、あなた。マドンナというと唐人の言葉で、別嬪さんのことじゃろうがなもし」

 「そうかもしれないね。驚いた」

 「おおかた画学の先生がおつけた名ぞなもし」

 「野だがつけたんですかい」

 「いいえ、あの吉川先生がおつけたのじゃがなもし」

 「そのマドンナがふたしかなんですかい」

 「そのマドンナさんがふたしかなマドンナさんでな、もし」

 「やっかいだね。あだ名のついてる女にゃ昔からろくなものはいませんからね。そうかもしれませんよ」

 「本当にそうじゃなもし。鬼神のお松じゃの、だつのお百じゃのててこわい女がおりましたなもし」

 「マドンナもその同類なんですかね」

 「そのマドンナさんがなもし、あなた。そらあの、あなたをここへ世話をしておくれた古賀先生なもし──あのかたの所へお嫁に行く約束ができていたのじゃがなもし──」

 「へえ、不思議なもんですね。あのうらなり君が、そんなえんぷくのある男とは思わなかった。人は見かけによらないものだな。ちっと気をつけよう」

 「ところが、去年あすこのおとうさんが、おなくなりて、──それまではお金もあるし、銀行の株も持っておいでるし、万事都合がよかったのじゃが──それからというものは、どういうものか急に暮らし向きが思わしくなくなって──つまり古賀さんがあまりお人がよすぎるけれ、おだまされたんぞなもし。それや、これやでお輿こしいれも延びているところへ、あの教頭さんがおいでて、ぜひお嫁にほしいとお言いるのじゃがなもし」

 「あの赤シャツがですか。ひどいやつだ。どうもあのシャツはただのシャツじゃないと思ってた。それから?」

 「人を頼んでかけおうておみると、遠山さんでも古賀さんに義理があるから、すぐには返事はできかねて──まあよう考えてみようぐらいの挨拶をおしたのじゃがなもし。すると赤シャツさんが、づるを求めて遠山さんのほうへ出入りをおしるようになって、とうとうあなた、お嬢さんを手なずけておしまいたのじゃがなもし。赤シャツさんも赤シャツさんじゃが、お嬢さんもお嬢さんじゃてて、みんながわるく言いますのよ。いったん古賀さんへ嫁に行くてて承知をしときながら、いまさら学士さんがおいでたけれ、そのほうに替えよてて、それじゃこんにちさまへすむまいがなもし、あなた」

 「まったくすまないね。今日様どころか明日様にも明後日様にも、いつまでいったってすみっこありませんね」

 「それで古賀さんにお気の毒じゃてて、お友だちの堀田さんが教頭の所へ意見をしにお行きたら、赤シャツさんが、あしは約束のあるものを横取りするつもりはない。破約になればもらうかもしれんが、今のところは遠山家とただ交際をしているばかりじゃ、遠山家と交際をするにはべつだん古賀さんにすまんこともなかろうとお言いるけれ、堀田さんもしかたがなしにお戻りたそうな、赤シャツさんと堀田さんは、それ以来折合いがわるいという評判ぞなもし」

 「よくいろいろな事を知ってますね。どうして、そんな詳しい事がわかるんですか。感心しちまった」

 「狭いけれなんでもわかりますぞなもし」

 わかりすぎて困るくらいだ。この様子じゃおれの天麩羅や団子の事も知ってるかもしれない。やっかいな所だ。しかしおかげさまでマドンナの意味もわかるし、山嵐と赤シャツの関係もわかるし大いに後学になった。ただ困るのはどっちが悪者だか判然しない。おれのような単純なものには白とか黒とかかたづけてもらわないと、どっちへ味方をしていいかわからない。

 「赤シャツと山嵐たあ、どっちがいい人ですかね」

 「山嵐て何ぞなもし」

 「山嵐というのは堀田のことですよ」

 「そりゃ強いことは堀田さんのほうが強そうじゃけれど、しかし赤シャツさんは学士さんじゃけれ、働きはあるかたぞな、もし。それから優しいことも赤シャツさんのほうが優しいが、生徒の評判は堀田さんのほうがええというぞなもし」

 「つまりどっちがいいんですかね」

 「つまり月給の多いほうがえらいのじゃろうがなもし」

 これじゃ聞いたってしかたがないから、やめにした。それから三日さんちして学校から帰るとお婆さんがにこにこして、へえお待ちどうさま。やっと参りました。と一本の手紙を持って来てゆっくり御覧と言って出て行った。取り上げて見ると清からの便りだ。せんが二、三枚ついてるから、よく調べると、山城屋から、いか銀のほうへ回して、いか銀から、萩野へ回って来たのである。そのうえ山城屋では一週間ばかりとうりゆうしている。宿屋だけに手紙まで泊めるつもりなんだろう。開いて見ると、非常に長いもんだ。坊っちゃんの手紙をいただいてから、すぐ返事をかこうと思ったが、あいにく風邪かぜを引いて一週間ばかり寝ていたものだから、ついおそくなってすまない。そのうえ今どきのお嬢さんのように読み書きが達者でないものだから、こんなまずい字でも、かくのによっぽど骨が折れる。おいに代筆を頼もうと思ったが、せっかくあげるのに自分でかかなくっちゃ、坊っちゃんにすまないと思って、わざわざ下書きを一ペんして、それから清書をした。清書をするには二日ですんだが、下書きをするには四日かかった。読みにくいかもしれないが、これでも一生懸命にかいたのだから、どうぞしまいまで読んでくれ。という冒頭で四尺ばかりなにやらかやらしたためてある。なるほど読みにくい。字がまずいばかりではない、たいてい平仮名だから、どこで切れて、どこで始まるのだかとうをつけるのによっぽど骨が折れる。おれはせっかちな性分だから、こんな長くて、わかりにくい手紙は五円やるから読んでくれと頼まれても断わるのだが、この時ばかりはまじめになって、始めからしまいまで読み通した。読み通したことは事実だが、読むほうに骨が折れて、意味がつながらないから、また頭から読み直してみた。部屋のなかは少し暗くなって、まえの時より見にくくなったから、とうとうえんばなへ出て腰をかけながら丁寧に拝見した。するとはつあきの風がしようの葉を動かして、はだに吹きつけた帰りに、読みかけた手紙を庭の方へなびかしたから、しまいぎわには四尺あまりの半切れがさらりさらりと鳴って、手を放すと、向こうのいけがきまで飛んで行きそうだ。おれはそんなことにはかまっていられない。坊っちゃんは竹を割ったような気性だが、ただ肝癪が強すぎてそれが心配になる。──ほかの人にむやみにあだ名なんか、つけるのは人に恨まれるもとになるから、やたらに使っちゃいけない。もしつけたら、清だけに手紙で知らせろ。──田舎者は人がわるいそうだから、気をつけてひどい目にあわないようにしろ。──気候だって東京より不順にきまってるから、寝冷えをして風邪を引いてはいけない。坊っちゃんの手紙はあまり短かすぎて、様子がよくわからないから、この次にはせめてこの手紙の半分ぐらいの長さのを書いてくれ。──宿屋へ茶代を五円やるのはいいが、あとで困りゃしないか、田舎へ行って頼りになるはお金ばかりだから、なるべく倹約して、万一の時にさしつかえないようにしなくっちゃいけない。──お小遣いがなくて困るかもしれないから、為替かわせで十円あげる。──せんだって坊っちゃんからもらった五十円を、坊っちゃんが、東京へ帰って、うちを持つ時の足しにと思って、郵便局へ預けておいたが、この十円を引いてもまだ四十円あるから大丈夫だ。──なるほど女というものは細かいものだ。

 おれが椽鼻で清の手紙をひらつかせながら、考え込んでいると、しきりのふすまをあけて、萩野のお婆さんが晩めしを持ってきた。まだ見ておいでるのかなもし。えっぽど長いお手紙じゃなもし、と言ったから、ええ大事な手紙だから風に吹かしては見、吹かしては見るんだと、自分でも要領を得ない返事をして膳についた。見ると今夜もさついもの煮つけだ。ここのうちは、いか銀よりも丁寧で、親切で、しかも上品だが、惜しいことに食い物がまずい、きのうも芋、おとといも芋で、今夜も芋だ。おれは芋は大好きだと明言したには相違ないが、こうたてつづけに芋を食わされては命がつづかない。うらなり君を笑うどころか、おれ自身が遠からぬうちに、芋のうらなり先生になっちまう。清ならこんな時に、おれの好きなまぐろのさし身か、かまぼこのつけ焼を食わせるんだが、貧乏士族のけちん坊ときちゃしかたがない。どう考えても清といっしょでなくっちゃあだめだ。もしあの学校に長くでもいる模様なら、東京から呼び寄せてやろう。てん蕎麦そばを食っちゃならない、団子を食っちゃならない、それで下宿にいて芋ばかり食って黄色くなっていろなんて、教育者はつらいものだ。禅宗坊主だって、これよりは口に耀ようをさせているだろう。──おれは一皿の芋をたいらげて、机のひきだしから生卵を二つ出して、ちやわんの縁でたたき割って、ようやくしのいだ。生卵ででも栄養をとらなくっちゃあ一週二十一時間の授業ができるものか。

 きょうは清の手紙で湯に行く時間がおそくなった。しかし毎日行きつけたのを一日でも欠かすのは心持ちがわるい。汽車にでも乗って出かけようと、例のあかぬぐいをぶら下げてていしやまで来ると二、三分前に発車したばかりで、少々待たなければならぬ。べンチへ腰をかけて、しきしまを吹かしていると、偶然にもうらなり君がやって来た。おれはさっきの話を聞いてから、うらなり君がなおさら気の毒になった。ふだんから天地のあいだにそうろうをしているように、小さく構えているのがいかにもあわれにみえたが、今夜は憐れどころの騒ぎではない。できるならば月給を倍にして、遠山のお嬢さんとあしたから結婚さして、一か月ばかり東京へでも遊びにやってやりたい気がしたやさきだから、やお湯ですか、さあ、こっちへおかけなさいと威勢よく席を譲ると、うらなり君は恐れ入った体裁で、いえ構うておくれなさるな、と遠慮だかなんだかやっぱり立ってる。少し待たなくっちゃ出ません、くたびれますからおかけなさいとまた勧めてみた。実はどうかして、そばへかけてもらいたかったくらいに気の毒でたまらない。それではおじゃまをいたしましょうとようやくおれの言うことを聞いてくれた。世の中には野だみたようになまいきな、出ないですむ所へ必ず顔を出すやつもいる。山嵐のようにおれがいなくっちゃにつぽんが困るだろうというようなつらを肩の上へのせてるやつもいる。そうかと思うと、赤シャツのようにコスメチックと色男の問屋をもってみずから任じているのもある。教育が生きてフロックコートを着ればおれになるんだといわぬばかりの狸もいる。皆々それ相応にいばってるんだが、このうらなり先生のようにあれどもなきがごとく、ひとじちに取られた人形のようにおとなしくしているのは見たことがない。顔はふくれているが、こんな結構な男を捨てて赤シャツになびくなんて、マドンナもよっぽど気の知れないおきゃんだ。赤シャツが何ダース寄ったって、これほどりっぱな旦那だんな様ができるもんか。

 「あなたはどっか悪いんじゃありませんか。だいぶたいぎそうに見えますが……」

 「いえ、べつだんこれという持病もないですが……」

 「そりゃ結構です。からだが悪いと人間もだめですね」

 「あなたはだいぶ御丈夫のようですな」

 「ええやせても病気はしません。病気なんてものあ大きらいですから」

 うらなり君は、おれの言葉を聞いてにやにやと笑った。

 ところへ入口で若々しい女の笑い声が聞こえたから、何心なくふり返って見るとえらいやつが来た。色の白い、ハイカラ頭の、背の高い美人と、四十五、六の奥さんとが並んで切符を売る窓の前に立っている。おれは美人の形容などができる男でないからなんにも言えないがまったく美人に相違ない。なんだか水晶のたまを香水であつためて、てのひらへ握ってみたような心持ちがした。年寄りのほうが背は低い。しかし顔はよく似ているから親子だろう。おれは、や、来たなと思うとたんに、うらなり君のことはすっかり忘れて、若い女の方ばかり見ていた。すると、うらなり君が突然おれの隣から、立ち上がって、そろそろ女の方へあるきだしたんで、少し驚いた。マドンナじゃないかと思った。三人は切符所の前で軽く挨拶している。遠いから何を言ってるのかわからない。

 ていしやの時計を見るともう五分で発車だ。早く汽車がくればいいがなと、話相手がいなくなったので待ち遠しく思っていると、また一人あわてて場内へかけ込んで来たものがある。見れば赤シャツだ。なんだかべらべら然たる着物へちりめんの帯をだらしなく巻きつけて、例のとおりきんぐさりをぶらつかしている。あの金鎖はにせものである。赤シャツはだれも知るまいと思って、見せびらかしているが、おれはちゃんと知ってる。赤シャツはかけ込んだなり、何かきょろきょろしていたが、切符うりさげじよの前に話している三人へいんぎんにお辞儀をして、何か二こと、三こと、言ったと思ったら、急にこっちへ向いて、例のごとくねこあしにあるいて来て、や、君も湯ですか、僕は乗りおくれやしないかと思って心配して急いで来たら、まだ三、四分ある。あの時計はたしかかしらんと、自分の金側を出して、二分ほどちがってると言いながら、おれのそばへ腰をおろした。女のほうはちっとも見返らないで杖の上へあごをのせて、正面ばかりながめている。年寄りの婦人は時々赤シャツを見るが、若いほうは横を向いたままである。いよいよマドンナに違いない。

 やがて、ピューと汽笛が鳴って、車がつく。待ち合わせた連中はぞろぞろわれがちに乗り込む。赤シャツはいの一号に上等へ飛び込んだ。上等へ乗ったっていばれるどころではない。住田まで上等が五銭で下等が三銭だから、わずか二銭違いで上下の区別がつく。こういうおれでさえ上等を奮発して白切符を握ってるんでもわかる。もっとも田舎者はけちだから、たった二銭のいりでもすこぶる苦になるとみえて、たいていは下等へ乗る。赤シャツのあとからマドンナとマドンナのおふくろが上等へはいり込んだ。うらなり君は活版で押したように下等ばかりへ乗る男だ。先生、下等の車室の入口へ立って、なんだかちゆうちよのていであったが、おれの顔を見るやいなや思い切って、飛び込んでしまった。おれはこの時なんとなく気の毒でたまらなかったから、うらなり君のあとから、すぐ同じ車室へ乗り込んだ。上等の切符で下等へ乗るに不都合はなかろう。

 温泉へ着いて、三階から、浴衣ゆかたのなりでつぼへ下りてみたら、またうらなり君に会った。おれは会議やなんかでいざときまると、咽喉のどがふさがってしゃべれない男だが、ふだんはずいぶん弁ずるほうだから、いろいろ湯壺のなかでうらなり君に話しかけてみた。なんだかあわれぽくってたまらない。こんな時に一口でも先方の心を慰めてやるのは、江戸っ子の義務だと思ってる。ところがあいにくうらなり君のほうでは、うまいぐあいにこっちの調子に乗ってくれない。何を言っても、えとかいえとかぎりで、しかもそのえといえがだいぶめんどうらしいので、しまいにはとうとう切り上げて、こっちからごめんこうむった。

 湯の中では赤シャツに会わなかった。もっともの数はたくさんあるのだから、同じ汽車で着いても、同じ湯壺で会うとはきまっていない。べつだん不思議にも思わなかった。風呂を出て見るといい月だ。町内の両側に柳が植わって、柳の枝がまるい影を往来の中へ落としている。少し散歩でもしよう。北へ登って町のはずれへ出ると、左に大きな門があって、門の突き当たりがお寺で、左右がろうである。山門のなかにゆうかくがあるなんて、前代もんの現象だ。ちょっとはいってみたいが、また狸から会議の時にやられるかもしれないから、やめて素通りにした。門の並びに黒いれんをかけた、小さな格子窓の平屋はおれが団子を食って、しくじった所だ。まるぢようちんしる、おぞうとかいたのがぶらさがって、提灯の火がのきに近い一本の柳の幹を照らしている。食いたいなと思ったが我慢して通り過ぎた。

 食いたい団子の食えないのは情けない。しかし自分の許嫁いいなずけが他人に心を移したのは、なお情けないだろう。うらなり君のことを思うと、団子はおろか、三日ぐらいだんじきしても不平はこぼせないわけだ。ほんとうに人間ほどあてにならないものはない。あの顔を見ると、どうしたって、そんを不人情なことをしそうには思えないんだが──うつくしい人が不人情で、とうがんみずぶくれのような古賀さんが善良な君子なのだから、油断できない。淡白だと思った山嵐は生徒を扇動したと言うし。生徒を扇動したのかと思うと、生徒の処分を校長にせまるし。いやで練りかためたような赤シャツが存外親切で、おれによそながら注意をしてくれるかと思うと、マドンナをごまかしたり。ごまかしたのかと思うと、古賀のほうが破談にならなければ結婚は望まないんだと言うし。いか銀が難癖をつけて、おれを追い出すかと思うと、すぐ野だ公が入れ替ったり──どう考えてもあてにならない。こんなことを清にかいてやったらさだめて驚くことだろう。箱根の向こうだから化物が寄り合ってるんだと言うかもしれない。

 おれは、しようらいかまわない性分だから、どんなことでも苦にしないでこんにちまでしのいできたのだが、ここへ来てからまだ一か月たつか、たたないうちに、急に世の中を物騒に思い出した。べつだんきわだった大事件にも出あわないのに、もう五つ六つ年を取ったような気がする。早く切り上げて東京へ帰るのがいちばんよかろう。などとそれからそれへ考えて、いつか石橋を渡ってぜりがわどてへ出た。川というとえらそうだが実は一間ぐらいな、ちょろちょろした流れで、土手に沿うて十二丁ほどくだるとあいおい村へ出る。村には観音様がある。

 温泉の町をふり返ると、赤いが、月の光の中にかがやいている。太鼓が鳴るのは遊郭に相違ない。川の流れは浅いけれども早いから、神経質の水のようにやたらに光る。ぶらぶら土手の上をあるきながら、約三丁も来たと思ったら、向こうに人影が見えだした。月に透かして見ると影は二つある。温泉へ来て村へ帰る若いしゆかもしれない。それにしてはうたわない。存外静かだ。

 だんだんあるいてゆくと、おれのほうが早足だと見えて、二つの影法師が、しだいに大きくなる。一人は女らしい。おれの足音を聞きつけて、十間ぐらいの距離にせまった時、男がたちまちふり向いた。月はうしろからさしている。その時おれは男の様子を見て、はてなと思った。男と女はまた元のとおりにあるきだした。おれは考えがあるから、急に全速力で追っかけた。先方はなんの気もつかずに最初のとおり、ゆるゆる歩を移している。今は話声も手に取るように聞こえる。土手の幅は六尺ぐらいだから、並んで行けば三人がようやくだ。おれは苦もなく後ろから追いついて、男のそでをすり抜けざま、二足前へ出したくびすをぐるりと返して男の顔をのぞき込んだ。月は正面からおれの五分刈の頭からあごのあたりまで、しやくもなく照らす。男はあっと小声に言ったが、急に横を向いて、もう帰ろうと女をうながすが早いか、温泉の町の方へ引き返した。

 赤シャツはずぶとくてごまかすつもりか、気が弱くて名乗りそくなったのかしら。所が狭くて困ってるのは、おればかりではなかった。

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