七
おれは即夜下宿を引き払った。宿へ帰って荷物をまとめていると、女房が何か不都合でもございましたか、お腹のたつことがあるなら、言っておくれたら改めますと言う。どうも驚く。世の中にはどうして、こんな要領を得ないものばかりそろってるんだろう。出てもらいたいんだか、いてもらいたいんだかわかりゃしない。まるで
出たことは出たが、どこへ行くというあてもない。車屋が、どちらへ参りますと言うから、だまってついて来い、今にわかる、と言って、すたすたやって来た。めんどうだから山城屋へ行こうかとも考えたが、また出なければならないから、つまり
その夜から萩野のうちの下宿人となった。驚いたのは、おれがいか銀の座敷を引き払うと、あくる日から入れ違いに野だが平気な顔をして、おれのいた部屋を占領したことだ。さすがのおれもこれにはあきれた。世の中はいかさま師ばかりで、お互いに乗せっこをしているのかもしれない。いやになった。
世間がこんなものなら、おれも負けない気で、世間並みにしなくちゃ、やりきれないわけになる。
気になるから、宿のお婆さんに、東京から手紙は来ませんかと時々尋ねてみるが、聞くたんびになんにも参りませんと気の毒そうな顔をする。ここの夫婦はいか銀とは違って、もとが士族だけに双方とも上品だ。
「
「そうじゃろうがな、もし。若いうちはだれもそんなものじゃけれ」この挨拶には痛み入って返事ができなかった。
「しかし先生はもう、お嫁がおありなさるにきまっとらい。
「へえ、活眼だね。どうして、ねらんどるんですか」
「どうしててて。東京から便りはないか、便りはないかてて、毎日便りを待ちこがれておいでるじゃないかなもし」
「こいつあ驚いた。たいへんな活眼だ」
「あたりましたろうがな、もし」
「そうですね。あたったかもしれませんよ」
「しかし今どきの
「なんですかい、僕の奥さんが東京で
「いいえ、あなたの奥さんはたしかじゃけれど……」
「それで、やっと安心した。それじゃ何を気をつけるんですい」
「あなたのはたしか──あなたのはたしかじゃが──」
「どこにふたしかなのがいますかね」
「ここらにもだいぶおります。先生、あの
「いいえ、知りませんね」
「まだ御存知ないかなもし。ここらであなた一番の
「うん、マドンナですか。僕あ芸者の名かと思った」
「いいえ、あなた。マドンナというと唐人の言葉で、別嬪さんのことじゃろうがなもし」
「そうかもしれないね。驚いた」
「おおかた画学の先生がおつけた名ぞなもし」
「野だがつけたんですかい」
「いいえ、あの吉川先生がおつけたのじゃがなもし」
「そのマドンナがふたしかなんですかい」
「そのマドンナさんがふたしかなマドンナさんでな、もし」
「やっかいだね。あだ名のついてる女にゃ昔からろくなものはいませんからね。そうかもしれませんよ」
「本当にそうじゃなもし。鬼神のお松じゃの、
「マドンナもその同類なんですかね」
「そのマドンナさんがなもし、あなた。そらあの、あなたをここへ世話をしておくれた古賀先生なもし──あのかたの所へお嫁に行く約束ができていたのじゃがなもし──」
「へえ、不思議なもんですね。あのうらなり君が、そんな
「ところが、去年あすこのお
「あの赤シャツがですか。ひどいやつだ。どうもあのシャツはただのシャツじゃないと思ってた。それから?」
「人を頼んでかけおうておみると、遠山さんでも古賀さんに義理があるから、すぐには返事はできかねて──まあよう考えてみようぐらいの挨拶をおしたのじゃがなもし。すると赤シャツさんが、
「まったくすまないね。今日様どころか明日様にも明後日様にも、いつまでいったってすみっこありませんね」
「それで古賀さんにお気の毒じゃてて、お友だちの堀田さんが教頭の所へ意見をしにお行きたら、赤シャツさんが、あしは約束のあるものを横取りするつもりはない。破約になればもらうかもしれんが、今のところは遠山家とただ交際をしているばかりじゃ、遠山家と交際をするにはべつだん古賀さんにすまんこともなかろうとお言いるけれ、堀田さんもしかたがなしにお戻りたそうな、赤シャツさんと堀田さんは、それ以来折合いがわるいという評判ぞなもし」
「よくいろいろな事を知ってますね。どうして、そんな詳しい事がわかるんですか。感心しちまった」
「狭いけれなんでもわかりますぞなもし」
わかりすぎて困るくらいだ。この様子じゃおれの天麩羅や団子の事も知ってるかもしれない。やっかいな所だ。しかしおかげさまでマドンナの意味もわかるし、山嵐と赤シャツの関係もわかるし大いに後学になった。ただ困るのはどっちが悪者だか判然しない。おれのような単純なものには白とか黒とかかたづけてもらわないと、どっちへ味方をしていいかわからない。
「赤シャツと山嵐たあ、どっちがいい人ですかね」
「山嵐て何ぞなもし」
「山嵐というのは堀田のことですよ」
「そりゃ強いことは堀田さんのほうが強そうじゃけれど、しかし赤シャツさんは学士さんじゃけれ、働きはあるかたぞな、もし。それから優しいことも赤シャツさんのほうが優しいが、生徒の評判は堀田さんのほうがええというぞなもし」
「つまりどっちがいいんですかね」
「つまり月給の多いほうがえらいのじゃろうがなもし」
これじゃ聞いたってしかたがないから、やめにした。それから
おれが椽鼻で清の手紙をひらつかせながら、考え込んでいると、しきりの
きょうは清の手紙で湯に行く時間がおそくなった。しかし毎日行きつけたのを一日でも欠かすのは心持ちがわるい。汽車にでも乗って出かけようと、例の
「あなたはどっか悪いんじゃありませんか。だいぶたいぎそうに見えますが……」
「いえ、べつだんこれという持病もないですが……」
「そりゃ結構です。からだが悪いと人間もだめですね」
「あなたはだいぶ御丈夫のようですな」
「ええやせても病気はしません。病気なんてものあ大きらいですから」
うらなり君は、おれの言葉を聞いてにやにやと笑った。
ところへ入口で若々しい女の笑い声が聞こえたから、何心なくふり返って見るとえらいやつが来た。色の白い、ハイカラ頭の、背の高い美人と、四十五、六の奥さんとが並んで切符を売る窓の前に立っている。おれは美人の形容などができる男でないからなんにも言えないがまったく美人に相違ない。なんだか水晶の
やがて、ピューと汽笛が鳴って、車がつく。待ち合わせた連中はぞろぞろわれがちに乗り込む。赤シャツはいの一号に上等へ飛び込んだ。上等へ乗ったっていばれるどころではない。住田まで上等が五銭で下等が三銭だから、わずか二銭違いで上下の区別がつく。こういうおれでさえ上等を奮発して白切符を握ってるんでもわかる。もっとも田舎者はけちだから、たった二銭の
温泉へ着いて、三階から、
湯の中では赤シャツに会わなかった。もっとも
食いたい団子の食えないのは情けない。しかし自分の
おれは、
だんだんあるいてゆくと、おれのほうが早足だと見えて、二つの影法師が、しだいに大きくなる。一人は女らしい。おれの足音を聞きつけて、十間ぐらいの距離にせまった時、男がたちまちふり向いた。月はうしろからさしている。その時おれは男の様子を見て、はてなと思った。男と女はまた元のとおりにあるきだした。おれは考えがあるから、急に全速力で追っかけた。先方はなんの気もつかずに最初のとおり、ゆるゆる歩を移している。今は話声も手に取るように聞こえる。土手の幅は六尺ぐらいだから、並んで行けば三人がようやくだ。おれは苦もなく後ろから追いついて、男の
赤シャツはずぶとくてごまかすつもりか、気が弱くて名乗りそくなったのかしら。所が狭くて困ってるのは、おればかりではなかった。
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