五
君釣に行きませんかと赤シャツがおれに聞いた。赤シャツは気味のわるいように優しい声を出す男である。まるで男だか女だかわかりゃしない。男なら男らしい声を出すもんだ。ことに大学卒業生じゃないか。物理学校でさえおれぐらいな声が出るのに、文学士がこれじゃみっともない。
おれはそうですなあと少し進まない返事をしたら、君釣をしたことがありますかと失敬なとを聞く。あんまりないが、子供の時、
船頭はゆっくりゆっくりこいでいるが熟練は恐しいもので、見返ると浜が小さく見えるくらいもう出ている。
ここいらがいいだろうと船頭は船をとめて、
しばらくすると、なんだかぴくぴくと糸にあたるものがある。おれは考えた。こいつは魚に相違ない。生きてるものでなくっちゃ、こうぴくつくわけがない。しめた、釣れたとぐいぐいたぐり寄せた。おや釣れましたかね、後世恐るべしだと野だがひやかすうち、糸はもうたいがいたぐり込んでただ五尺ばかりほどしか、水に
それから赤シャツと野だは一生懸命に釣っていたが、約一時間ばかりのうちに二人で十五、六上げた。おかしいことに釣れるのも、釣れるのも、みんなゴルキばかりだ。鯛なんて薬にしたくってもありゃしない。今日はロシア文学の大当たりだと赤シャツが野だに話している。あなたの手腕でゴルキなんですから、私なんぞがゴルキなのはしかたがありません。あたりまえですなと野だが答えている。船頭に聞くとこの小魚は骨が多くって、まずくって、とても食えないんだそうだ。ただ
すると二人は小声で何か話しはじめた。おれにはよく聞こえない、また聞きたくもない。おれは空を見ながら清のことを考えている。金があって、清をつれて、こんなきれいな所へ遊びに来たらさぞ愉快だろう。いくら景色がよくっても野だなどといっしょじゃつまらない。清はしわくちゃだらけの
おれはほかの言葉には耳を傾けなかったが、バッタという野だの
「また例の堀田が……」「そうかもしれない……」「
言葉はかようにとぎれとぎれであるけれども、バッタだの天麩羅だの、団子だのというところをもって
もう帰ろうかと赤シャツが思い出したように言うと、ええちょうど時分ですね。今夜はマドンナの君にお会いですかと野だが言う。赤シャツはばかあ言っちゃいけない、間違いになると、船縁に身をもたしたやつを、少し起き直る。エヘヘヘヘ大丈夫ですよ。聞いたって……と野だがふり返った時、おれは皿のような目を野だの頭の上へまともに浴びせかけてやった。野だはまぼしそうに引っくり返って、や、こいつは降参だと首を縮めて、頭をかいた。何という
船は静かな海を岸へこぎもどる。君釣はあまり好きでないとみえますねと赤シャツが聞くから、ええ寝ていて空を見るほうがいいですと答えて、吸いかけた
「それでね、生徒は君の来たのをたいへん歓迎しているんだが、そこにはいろいろな事情があってね。君も腹のたつこともあるだろうが、ここが我慢だと思って、しんぼうしてくれたまえ。けっして君のためにならないようなことはしないから」
「いろいろの事情た、どんな事情です」
「それが少し込み入ってるんだが、まあだんだんわかりますよ。僕が話さないでも自然とわかってくるです、ね吉川君」
「ええなかなか込み入ってますからね。一朝一夕にゃとうていわかりません。しかしだんだんわかります、僕が話さないでも自然とわかってくるです」と野だは赤シャツと同じようなことを言う。
「そんなめんどうな事情なら聞かなくてもいいんですが、あなたのほうから話しだしたから伺うんです」
「そりゃごもっともだ。こっちで口を切って、あとをつけないのは無責任ですね。それじゃこれだけのことを言っておきましょう。あなたは失礼ながら、まだ学校を卒業したてで、教師ははじめての経験である。ところが学校というものはなかなか情実のあるもので、そう書生流に淡泊にはゆかないですからね」
「淡泊にゆかなければ、どんなふうにゆくんです」
「さあ君はそう率直だから、まだ経験に乏しいというんですがね……」
「どうせ経験には乏しいはずです。履歴書にもかいときましたが二十三年四か月ですから」
「さ、そこで思わぬ辺から乗ぜられることがあるんです」
「正直にしていればだれが乗じたってこわくはないです」
「むろんこわくはない、こわくはないが、乗ぜられる。現に君の前任者がやられたんだから、気をつけないといけないと言うんです」
野だがおとなしくなったと気がついて、ふり向いて見ると、いつしか
「僕の前任者が、だれに乗ぜられたんです」
「だれとさすと、その人の名誉に関係するから言えない。また判然と証拠のないことだから言うとこっちの落度になる。とにかく、せっかく君が来たもんだから、ここで失敗しちゃ僕らも君を呼んだかいがない、どうか気をつけてくれたまえ」
「気をつけろったって、これより気のつけようはありません。わるいことをしなけりゃいいんでしょう」
赤シャツはホホホホと笑った。べつだんおれは笑われるようなことを言ったおぼえはない。今日ただいまに至るまでこれでいいと堅く信じている。考えてみると世間の大部分の人はわるくなることを奨励しているように思う。わるくならなければ社会に成功はしないものと信じているらしい。たまに正直な純粋な人を見ると、
「むろんわるい事をしなければ好いんですが、自分だけわるい事をしなくっても、人のわるいのがわからなくちゃ、やっぱりひどい目にあうでしょう。世の中には
港屋の二階に
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