一四

 こうが四度目にえいを訪れたとき、若い衛侯やせいけいこうしゆくぎよらからわれるままに、を推してこの国に仕えさせた。孔子が十余年ぶりで故国にむかえられた時も、子路は別れて衛にとどまったのである。

 十年来、衛はなん夫人の乱行を中心に、絶えず紛争を重ねていた。まずこうしゆくじゆという者が南子はいせきを企てかえってそのざんってに亡命する。続いてれいこうの子・たいかいがいも義母南子を刺そうとして失敗ししんはしる。太子欠位の中に霊公がしゆつする。やむを得ず亡命太子の子の幼いちようを立てて後をがせる。しゆつこうがこれである。しゆつぽんした前太子かいがいしんの力を借りて衛の西部に潜入したんたんと衛侯の位をうかがう。これをこばもうとする現衛侯出公は子。位を奪おうとねらう者は父。子路が仕えることになった衛の国はこのような状態であった。

 子路の仕事はこうのためにさいとしての地を治めることである。衛の孔家は、ならばそんに当たる名家で、当主こうしゆくぎよはつとにめいたいの響が高い。蒲は、先ごろなんざんにあって亡命したこうしゆくじゆの旧領地で、したがって、主人をうた現在の政府に対してことごとに反抗的な態度をとっている。もともとじんの荒い土地で、かつて子路自身も孔子に従ってこの地で暴民に襲われたことがある。

 任地に立つ前、子路は孔子のところに行き、「むらに壮士多くして治めがたし」といわれる蒲の事情を述べて教をうた。孔子が言う。「きようにして敬あらば以て勇をおそれしむべく、寛にして正しからばもつて強をいだくべく、温にして断ならばもってかんおさうべし」と。子路再拝して謝し、きんぜんとして任におもむいた。

 に着くと子路はまず土地の有力者、反抗分子らを呼び、これとふくぞうなく語り合った。手なずけようとの手段ではない。孔子の常に言う「教えずして刑することの不可」を知るがゆえに、まず彼らにおのれの意のあるところを明らかにしたのである。気取りのない率直さが荒っぽい土地のじんに投じたらしい。壮士連はことごとく子路の明快かつたつに推服した。それにこのころになると、すでにの名は孔門随一の快男児として天下に響いていた。「へんげんもって獄をさだむべきものは、それゆうか」などという孔子の推奨の辞までが、おおひれをつけてあまねく知れ渡っていたのである。蒲の壮士連を推服せしめたものは、一つには確かにこうした評判でもあった。


 三年後、孔子がたまたま蒲を通った。まず領内にはいったとき、「かなゆうや、きようけいにして信なり」と言った。進んでむらにはいったとき、「善い哉、由や、忠信にして寛なり」と言った。いよいよ子路の邸にはいるに及んで、「善い哉、由や、明察にして断なり」と言った。くつわっていたこうが、まだ子路を見ずしてこれをめる理由を聞くと、孔子が答えた。すでにその領域にはいればでんちゆうことごとく治まりそうらいはなはだひらこうきよくは深く整っている。治者恭敬にして信なるがゆえに、民その力を尽くしたからである。その邑にはいれば民家のしようおくは完備し樹木は繁茂している。治者忠信にして寛なるがゆえに、民その営をゆるがせにしないからである。さていよいよその庭に至ればはなはだ清閑で従者ぼくどう一人としてめいたがう者がない。治者の言、明察にして断なるがゆえに、その政がみだれないからである。いまだゆうを見ずしてことごとくその政を知ったわけではないかと。

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