一二

 そうからちんに出る渡船の上で、こうさいとが議論をしている。「十室のゆう、必ず忠信きゆうごとき者あり。丘の学を好むにかざるなり。」という師の言葉を中心に、子貢は、この言葉にもかかわらずこうの偉大な完成はその先天的な素質の非凡さによるものだといい、宰予は、いや、後天的な自己完成への努力のほうがあずかって大きいのだと言う。宰予によれば、孔子の能力と弟子たちの能力との差異は量的なものであって、けっして質的なではない。孔子のっているものは万人のもっているものだ。ただその一つ一つを孔子は絶えざる刻苦によって今の大きさにまで仕上げただけのことだと。子貢は、しかし、量的な差も絶大になると結局質的な差と変わるところはないという。それに、自己完成への努力をあれほどまでに続けうることそれ自体が、すでに先天的な非凡さの何よりの証拠ではないかと。だが、何にも増して孔子の天才の核心たるものは何かといえば、「それは」と子貢が言う。「あの優れたちゆうようへの本能だ。いついかなる場合にもふうの進退を美しいものにする・みごとな中庸への本能だ。」と。

 何を言ってるんだと、そばが苦い顔をする。口先ばかりで腹のないやつらめ! 今この舟がひっくり返りでもしたら、奴らはどんなにまっさおな顔をするだろう。なんといってもいつたん有事のさいに、実際に夫子の役に立ちうるのはおれなのだ。才弁縦横の若い二人を前にして、こうげんは徳をみだるという言葉を考え、ほこらかにわが胸中一片のひようしんたのむのである。


 子路にも、しかし、師への不満が必ずしもないわけではない。

 ちんの霊公が臣下の妻と通じその女のはだを身につけてちように立ち、それを見せびらかしたとき、せつという臣がいさめて、殺された。百年ばかり以前のこの事件について一人の弟子が孔子に尋ねたことがある。泄冶のせいかんして殺されたのはいにしえの名臣かんかんと変わるところがない。じんと称してよいであろうかと。孔子が答えた。いや、比干とちゆうおうとの場合は血縁でもあり、また官からいってもしようであり、したがっておのれの身を捨ててそうかんし、殺された後に紂王のかいするのを期待したわけだ。これはじんというべきであろう。泄冶の霊公におけるは骨肉の親あるにもあらず、位も一たいにすぎぬ。君正しからず一国正しからずと知らば、いさぎよく身を退くべきに、身のほどをも計らず、区々たる一身をもって一国のいんこんを正そうとした。自らむだに生命をてたものだ。仁どころの騒ぎではないと。

 その弟子はそう言われてなつとくして引き下がったが、そばにいた子路にはどうしてもうなずけない。さっそく、彼は口を出す。仁・不仁はしばらくく。しかしとにかく一身の危うきを忘れて一国のぶんらんを正そうとしたことの中には、えた立派なものがあるのではなかろうか。むなしく命をつなどと言いきれないものが。たとい結果はどうあろうとも。

 「ゆうよ。なんじには、そういう小義の中にあるみごとさばかりが眼について、それ以上はわからぬと見える。いにしえの士は国に道あれば忠を尽くしてもつてこれをたすけ、国に道なければ身を退いてもつてこれを避けた。こうしたしゆつしよしん退たいのみごとさはまだわからぬと見える。詩にう。民よこしま多き時は自らのりを立つることなかれと。けだし、せつの場合にあてはまるようだな。」

 「では」とだいぶ長い間考えたあとで子路が言う。結局この世で最も大切なことは、一身の安全を計ることにあるのか? 身を捨てて義を成すことのうちにはないのであろうか? 一人の人間の出処進退の適不適のほうが、天下そうせいの安危ということよりも大切なのであろうか? というのは、今の泄冶がもし眼前のらんりんひんしゆくして身を退いたとすれば、なるほど彼の一身はそれでよいかも知れぬが、ちんこくの民にとっていったいそれが何になろう? まだしも、むだとは知りつつもかんしたほうが、国民の気風に与える影響から言ってもはるかに意味があるのではないか。

 「それは何も一身の保全ばかりが大切とは言わない。それならばかんじんじんめはしないはずだ。ただ、生命は道のために捨てるとしても捨て時・捨てどころがある。それを察するにをもってするのは、別に私の利のためではない。急いで死ぬるばかりが能ではないのだ。」

 そう言われれば一応はそんな気がしてくるが、やはり釈然としないところがある。身を殺して仁を成すべきことを言いながら、その一方、どこかしらめいてつしんさいじようと考える傾向が、時々師の言説の中に感じられる。それがどうも気になるのだ。他の弟子たちがこれをいっこうに感じないのは、明哲保身主義が彼らに本能として、くっついているからだ。それをすべてのこんていとした上での・仁であり義でなければ、彼らには危うくてしかたがないに違いない。

 子路がなつとくしがたげな顔色で立ち去ったとき、その後ろ姿を見送りながら、孔子がしようぜんとして言った。くにに道有る時もなおきこと矢のごとし。道なき時もまた矢の如し。あの男もえいぎよの類だな。おそらく、尋常な死に方はしないであろうと。


 ったとき、こういんしようようという者が呉の師を追うたが、同乗の王子しつに「王事なり。子、弓を手にして可なり。」といわれて始めて弓を執り、「子、これを射よ。」と勧められてようやく一人をたおした。しかしすぐにまた弓をかわぶくろに収めてしまった、ふたたびうながされてまた弓を取出し、あと二人をたおしたが、一人を射るごとに目をおおうた。さて三人を斃すと、「自分の今の身分ではこのくらいで充分反命するに足るだろう。」とて、車を返した。

 この話を孔子が伝え聞き、「人を殺すのうち、また礼あり。」と感心した。子路に言わせれば、しかし、こんな話はない。ことに、「自分としては三人たおしたくらいで充分だ。」などという言葉の中に、彼のだいきらいな・考え方があまりにハッキリしているので、腹が立つのである。彼はふつぜんとして孔子にくってかかる。「人臣の節、君の大事に当たりては、ただ力の及ぶところを尽くし、死してしかして後にむ。ふうなんぞ彼をしとする?」孔子もさすがにこれには一言もない。笑いながら答える。「しかり。なんじの言のごとし。我ただその、人を殺すに忍びざるの心あるを取るのみ。」

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