弟子の中で、ほどこうしかられる者はない。子路ほど遠慮なく師に反問する者もない。「請う。いにしえの道をててゆうの意を行なわん。可ならんか。」などと、叱られるに決まっていることを聞いてみたり、孔子に面と向かってと「これあるかな。子のなるや!」などと言ってのける人間はほかに誰もいない。それでいて、また、子路ほど全身的に孔子によりかかっている者もないのである。どしどし問い返すのは、心からなつとくできないものを表面うわべだけうべなうことのできぬしようぶんだからだ。また、他の弟子たちのように、わらわれまい叱られまいと気をつかわないからである。

 子路が他のところではあくまで人のふうに立つをいさぎよしとしないどくりつの男であり、いちだくせんきんの快男児であるだけに、ろくろくたるぼんていぜんとして孔子の前にはんべっている姿は、人々に確かに奇異な感じを与えた。事実、彼には、孔子の前にいる時だけは複雑な思索や重要な判断はいっさい師に任せてしまって自分は安心しきっているようなこつけいな傾向もないではない。母親の前では自分にできることまでも、してもらっている幼児と同じようなぐあいである。退いて考えてみて、自ら苦笑することがあるくらいだ。


 だが、これほどの師にもなお触れることを許さぬ胸中のおうしよがある。ここばかりは譲れないというぎりぎりのところが。

 すなわち、子路にとって、この世に一つの大事なものがある。そのものの前には死生も論ずるに足りず、いわんや、区々たる利害のごとき、問題にはならない。きようといえばやや軽すぎる。信といい義というと、どうも道学者流で自由な躍動の気に欠けるうらみがある。そんな名前はどうでもいい。子路にとって、それは快感の一種のようなものである。とにかく、それの感じられるものがきことであり、それのともなわないものがしきことだ。きわめてはっきりしていて、いまだかつてこれに疑いを感じたことがない。孔子のいう仁とは開きがあるのだが、子路は『論語』のこうちよう篇にある。師の教えの中から、この単純な倫理観を補強するようなものばかりを選んでり入れる。こうげんれいしよくすうきようえんかくシテノ人ヲ友トスルハ、きゆうこれヲ恥ヅとか、生ヲ求メテもつじんヲ害スルナク身ヲ殺シテ以テ仁ヲ成スアリとか、狂者ハ進ンデ取リけんじやサザル所アリとかいうのが、それだ。孔子もはじめはこのつのめようとしないではなかったが、後にはあきらめてやめてしまった。とにかく、これはこれで一匹のみごとな牛には違いないのだから。むちを必要とする弟子もあれば、づなを必要とする弟子もある。容易な手綱ではおさえられそうもない子路の性格的欠点が、実は同時にかえって大いに用うるに足るものであることを知り、子路にはだいたいの方向の指示さえ与えればよいのだと考えていた。敬ニシテ礼ニあたラザルヲトイヒ、勇ニシテ礼ニ中ラザルヲ逆トイフとか、信ヲ好ンデ学ヲ好マザレバソノへいぞくちよくヲ好ンデ学ヲ好マザレバソノ蔽ヤこうなどというのも、結局は、個人としての子路に対してよりも、いわばじゆくとうかくとしての子路に向かってのごとである場合が多かった。子路という特殊な個人にあってはかえって魅力となりうるものが、他の門生一般についてはおおむね害となることが多いからである。

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