八
ぜんたい人にからかうのはおもしろいものである。吾輩のような猫ですら、時々は当家の令嬢にからかって遊ぶくらいだから、落雲館の君子が、気のきかない苦沙弥先生にからかうのはしごくもっともなところで、これに不平なのはおそらく、からかわれる当人だけであろう。からかうという心理を解剖してみると二つの要素がある。第一からかわれる当人が平気ですましていてはならん。第二からかう者が勢力において
諸君は四つ
垣ができた翌日から、垣のできぬ前と同様に彼らは北側のあき地へぽかりぽかりと飛び込む。ただし座敷の正面までは深入りをしない。もし追いかけられたら逃げるのに、少々ひまがいるから、あらかじめ逃げる時間を勘定に入れて、捕えらるる危険のない所で
事件は大概逆上から出るものだ。逆上とは読んで字のごとくさかさに
逆上の説明はこのぐらいで十分であろうと思うから、これよりいよいよ事件に取りかかる。しかしすべての大事件の前には必ず小事件が起こるものだ。大事件のみを述べて、小事件を逸するのは古来から歴史家の常に陥る
落雲館に群がる敵軍は近日に至って一種のダムダム弾を発明して、
ある日の午後、吾輩は例のごとく縁側へ出て
「あれは本校の生徒です」
「生徒たるべき者が、なんでひとの邸内へ侵入するのですか」
「いやボールがつい飛んだものですから」
「なぜ断わって、取りに来ないのですか」
「これからよく注意します」
「そんなら、よろしい」
主人は座敷の障子を開いて腹ばいになって、何か思案している。おそらく敵に対して
「……で公徳というものは大切なことで、あちらへ行ってみると、フランスでもドイツでもイギリスでも、どこへ行っても、この公徳の行なわれておらん国はない。またどんな下等な者でもこの公徳を重んぜぬ者はない。悲しいかな、わが日本にあっては、またこの点において外国と
主人は耳を傾けて、この講話を謹聴していたが、ここに至ってにやりと笑った。ちょっとこのにやりの意味を説明する必要がある。皮肉家がこれをよんだらこのにやりの裏には冷評的分子が交じっていると思うだろう。しかし主人はけっして、そんな人の悪い男ではない。悪いというよりそんなに知恵の発達した男ではない。主人はなぜ笑ったかというと全くうれしくって笑ったのである。倫理の教師たる者がかように痛切なる訓戒を与えるからはこののちは永久ダムダム弾の乱射は免れるに相違ない。当分のうち頭もはげずにすむ、逆上は一時に直らんでも時機さえくれば漸次回復するだろう、ぬれ手ぬぐいをいただいて、
やがて時間が来たとみえて、講話はぱたりとやんだ。他の教室の課業も皆一度に終わった。すると今まで室内に密封された八百の同勢は
まず蜂の陣立てから説明する。こんな戦争に陣立ても何もあるものかというのは間違っている。普通の人は戦争とさえいえば
今しも敵軍から打ち出した一弾は、照準誤たず、四つ目垣を通り越して
こうなってはいかに消極的なる主人といえども応戦しなければならん。さっき座敷のうちから倫理の講義を聞いてにやにやしていた主人は奮然として立ち上がった。猛然として駆け出した。
「きさまらはぬすっとうか」と主人は尋問した。大気炎である。奥歯でかみつぶしたかんしゃく玉が炎となって鼻の穴から抜けるので、小鼻が、いちじるしく怒って見える。
「いえ
「うそをつけ。落雲館の生徒が無断で人の庭宅に侵入するやつがあるか」
「しかしこのとおりちゃんと学校の記章のついている帽子をかぶっています」
「にせものだろう。落雲館の生徒ならなぜむやみに侵入した」
「ボールが飛び込んだものですから」
「なぜボールを飛び込ました」
「つい飛び込んだんです」
「けしからんやつだ」
「以後注意しますから、今度だけ許してください」
「どこの何者かわからんやつが垣を越えて邸内に
「それでも落雲館の生徒に違いないんですから」
「落雲館の生徒なら何年生だ」
「三年生です」
「きっとそうか」
「ええ」
主人は奥の方を顧みながら、おいこらこらと言う。
埼玉生まれのおさんが
「落雲館へ行ってだれか連れてこい」
「だれを連れて参ります」
「だれでもいいから連れてこい」
下女は「へえ」と答えたが、あまり庭前の光景が妙なのと、使いの趣が判然しないのと、さっきからの事件の発展がばかばかしいので、立ちもせず、すわりもせずにやにや笑っている。主人はこれでも大戦争をしているつもりである。逆上的敏腕を大いにふるっているつもりである。しかるところ自分の召し使いたる当然こっちの肩を持つべき者が、まじめな態度をもってことに臨まんのみか、用を言いつけるのを聞きながらにやにや笑っている。ますます逆上せざるをえない。
「だれでもかまわんから呼んでこいというのに、わからんか。校長でも幹事でも教頭でも……」
「あの校長さんを……」下女は校長という言葉だけしか知らないのである。
「校長でも、幹事でも教頭でもと言っているのにわからんか」
「だれもおりませんでしたら小使でもよろしゅうございますか」
「ばかをいえ。小使などに何がわかるものか」
ここに至って下女もやむをえんと心得たものか、「へえ」と言って出て行った。使いの主意はやはり飲み込めんのである。小使でも引っぱって来はせんかと心配していると、あにはからんや例の倫理の先生が表門から乗り込んで来た。平然と座につくを待ち受けた主人はただちに談判にとりかかる。
「ただ今邸内にこの者どもが乱入いたして……」と
倫理の先生はべつだん驚いた様子もなく、平気で庭前にならんでいる勇士を一通り見回した上、もとのごとく
「さようみんな学校の生徒であります。こんなことのないように始終訓戒を加えておきますが……どうも困ったもので……なぜ君らは垣などを乗り越すのか」
さすがに生徒は生徒である、倫理の先生に向かっては一言もないとみえてなんとも言う者はない。おとなしく庭のすみにかたまって羊のむれが雪に会ったように控えている。
「
「ごもっともで、よく注意はいたしますがなにぶん多人数のことで……よくこれから注意をせんといかんぜ。もしボールが飛んだら表から回って、お断わりをして取らなければいかん。いいか。──広い学校のことですからどうも世話ばかりやけてしかたがないです。で運動は教育上必要なものでありますから、どうもこれを禁ずるわけには参りかねるので。これを許すとつい御迷惑になるようなことができますが、これはぜひ御容赦を願いたいと思います。そのかわり向後はきっと表門から回ってお断わりをいたした上で取らせますから」
「いや、そう事がわかればよろしいです。
吾輩はすでに小事件を叙しおわり、今また大事件を述べおわったから、これより大事件のあとにおこる
大事件のあった翌日、吾輩はちょっと散歩がしたくなったから表へ出た。すると向こう横丁へ曲がろうという
「ただ今お宅へ伺いましたところで、ちょうどよい所でお目にかかりました」と藤さんは丁寧に頭をぴょこつかせる。
「うむ、そうかえ。じつはこないだから、君にちょっと会いたいと思っていたがね。それはよかった」
「へえ、それは好都合でございました。何か御用で」
「いやなに、たいしたことでもないのさ。どうでもいいんだが、君でないとできないことなんだ」
「私にできることならなんでもやりましょう。どんなことで」
「ええ、そう……」と考えている。
「なんなら、御都合の時出直して伺いましょう。いつがよろしゅう、ございますか」
「なあに、そんなにたいしたことじゃあないのさ。──それじゃせっかくだから頼もうか」
「どうか御遠慮なく……」
「あの変人ね。そら君の旧友さ。苦沙弥とかなんとかいうじゃないか」
「ええ苦沙弥がどうかしましたか」
「いえ、どうもせんがね。あの事件以来
「ごもっともで、全く苦沙弥は
「そこさ。金に頭はさげん、実業家なんぞ──とかなんとか、いろいろ
「どうも損得という観念の乏しいやつですからむやみにやせ我慢を張るんでしょう。昔からああいう癖のある男で、つまり自分の損になることに気がつかないんですから度しがたいです」
「あはははほんとに度しがたい。いろいろ手をかえ品をかえてやってみるんだがね。とうとうしまいに学校の生徒にやらした」
「そいつは妙案ですな。きき目がございましたか」
「これにゃあ、やつもだいぶ困ったようだ。もう遠からず落城するにきまっている」
「そりゃ結構です。いくらいばっても
「そうさ、一人じゃあしかたがねえ。それでだいぶ弱ったようだが、まあどんな様子か君に行って見て来てもらおうというのさ」
「はあ、そうですか。なにわけはありません。すぐ行ってみましょう。様子は帰りがけに御報知をいたすことにして。おもしろいでしょう、あの
「ああ、それじゃ帰りにお寄り、待っているから」
「それでは御免こうむります」
おや今度もまた
鈴木君は相変わらず調子のいい男である。きょうは金田のことなどはおくびにも出さない、しきりにあたりさわりのない世間話をおもしろそうにしている。
「君少し顔色が悪いようだぜ、どうかしやせんか」
「べつにどこもなんともないさ」
「でも青いぜ、用心せんといかんよ。時候が悪いからね。よるは安眠ができるかね」
「うん」
「何か心配でもありゃしないか、ぼくにできることならなんでもするぜ。遠慮なく言いたまえ」
「心配って、何を?」
「いえ、なければいいが、もしあればということさ。心配がいちばん毒だからな。世の中は笑っておもしろくくらすのが得だよ。どうも君はあまり陰気すぎるようだ」
「笑うのも毒だからな。むやみに笑うと死ぬことがあるぜ」
「冗談言っちゃいけない。笑う
「昔ギリシアにクリシッパスという哲学者があったが、君は知るまい」
「知らない。それがどうしたのさ」
「その男が笑い過ぎて死んだんだ」
「へえー、そいつは不思議だね。しかしそりゃ昔のことだから……」
「昔だって今だって変わりがあるものか。
「ハハハしかしそんなにとめどもなく笑わなくってもいいさ。少し笑う──適宜に、──そうするといい心持ちだ」
鈴木君がしきりに主人の動静を研究していると、表の門ががらがらとあく、
「ちょっとボールがはいりましたから、取らしてください」
下女は台所から「はい」と答える。書生は裏手へ回る。鈴木は妙な顔をしてなんだいと聞く。
「裏の書生がボールを庭へ投げ込んだんだ」
「裏の書生? 裏に書生がいるのかい」
「落雲館という学校さ」
「ああそうか、学校か。ずいぶん騒々しいだろうね」
「騒々しいのなんのって。ろくろく勉強もできやしない。ぼくが文部大臣ならさっそく閉鎖を命じてやる」
「ハハハだいぶおこったね。何かしゃくにさわることでもあるのかい」
「あるのないのって、朝から晩までしゃくにさわり続けだ」
「そんなにしゃくにさわるなら越せばいいじゃないか」
「だれが越すもんか、失敬千万な」
「ぼくにおこったってしかたがない。なあに子供だあね。うっちゃっておけばいいさ」
「君はよかろうがぼくはよくない。きのうは教師を呼びつけて談判してやった」
「それはおもしろかったね。恐れ入ったろう」
「うん」
この時また
「いやだいぶ来るじゃないか、またボールだぜ君」
「うん、表から来るように契約したんだ」
「なるほどそれであんなに来るんだね。そうーか、わかった」
「何がわかったんだい」
「なに、ボールを取りにくる原因がさ」
「きょうはこれで十六ぺん目だ」
「君うるさくないか。来ないようにしたらいいじゃないか」
「来ないようにするったって、来るからしかたがないさ」
「しかたがないと言えばそれまでだが、そう頑固にしていないでもよかろう。人間は
「御免なさい。今ちょっとボールが飛びましたから、裏口へ回って、取ってもいいですか」
「そらまた来たぜ」と鈴木君は笑っている。
「失敬な」と主人はまっかになっている。
鈴木君はもうたいがい訪問の意を果たしたと思ったから、それじゃ失敬ちと来たまえと帰ってゆく。
入れ代わってやって来たのが甘木先生である。逆上家が自分で逆上家だと名乗る者は昔から例が少ない、これは少々変だなとさとった時は逆上の
「先生どうもだめですよ」
「え、何そんなことがあるものですか」
「いったい医者の薬はきくものでしょうか」
甘木先生も驚いたが、そこは温厚の
「きかんこともないです」と穏やかに答えた。
「わたしの胃病なんか、いくら薬を飲んでも同じことですぜ」
「けっして、そんなことはない」
「ないですかな。少しはよくなりますかな」と自分の胃のことを人に聞いてみる。
「そう急には、なおりません、だんだんききます。今でももとよりだいぶよくなっています」
「そうですかな」
「やはりかんしやくが起こりますか」
「おこりますとも、夢にまでかんしゃくを起こします」
「運動でも、少しなさったらいいでしょう」
「運動すると、なおかんしゃくが起こります」
甘木先生もあきれ返ったものとみえて、
「どれ一つ拝見しましょうか」と診察を始める。診察を終わるのを待ちかねた主人は、突然大きな声を出して、
「先生、せんだって催眠術の書いてある本を読んだら、催眠術を応用して手癖の悪いんだの、いろいろな病気だのを直すことができると書いてあったですが、ほんとうでしょうか」と聞く。
「ええ、そういう療法もあります」
「今でもやるんですか」
「ええ」
「催眠術をかけるのはむずかしいものでしょうか」
「なにわけはありません。わたしなどもよくかけます」
「先生もやるんですか」
「ええ、一つやってみましょうか。だれでもかからなければならん理窟のものです。あなたさえよければかけてみましょう」
「そいつはおもしろい、一つかけてください。わたしもとうからかかってみたいと思ったんです。しかしかかりきりで目がさめないと困るな」
「なに大丈夫です。それじゃやりましょう」
相談はたちまち一決して、主人はいよいよ催眠術をかけらるることになった。吾輩は今までこんなことを見たことがないから心ひそかに喜んでその結果を座敷のすみから拝見する。先生はまず、主人の目からかけ始めた。その方法を見ていると、両眼の
その次に来たのが──主人のうちへこのくらい客の来たことはない。交際の少ない主人の家にしてはまるでうそのようである。しかし来たに相違ない。しかも珍客が来た。吾輩がこの珍客のことを一
「うん迷亭か、あれは池に浮いてる
「それでどうしたい」
「どうしたか聞いてもみなかったが、──そうさ、まあ
主人はこの奇警な
「そんなら君はなんだい」
「ぼくか、そうさなぼくなんかは──まあ
「君は始終
「なに普通の人間と同じようにしているばかりさ。べつにうらやまれるに足るほどのこともない。ただありがたいことに人をうらやむ気も起こらんから、それだけいいね」
「会計は近ごろ豊かかね」
「なに向じことさ。足るや足らずさ。しかし食うているから大丈夫。驚かないよ」
「ぼくは不愉快で、かんしゃくが起こってたまらん。どっち向いても不平ばかりだ」
「不平もいいさ。不平が起こったら起こしてしまえば当分はいい心持ちになれる。人間はいろいろだから、そう自分のように人にもなれと勧めたって、なれるものではない。
「しかしぼくなんか、いつまでたっても合いそうにないぜ、心細いね」
「あまり合わない背広を無理に着るとほころびる。けんかをしたり、自殺をしたり騒動が起こるんだね。しかし君なんかただおもしろくないと言うだけで自殺はむろんしやせず、けんかだってやったことはあるまい。まあまあいいほうだよ」
「ところが毎日けんかばかりしているさ。相手が出て来なくってもおこっておればけんかだろう」
「なるほど一人けんかだ。おもしろいや、いくらでもやるがいい」
「それがいやになった」
「そんならよすさ」
「君の前だが自分の心がそんなに自由になるものじゃない」
「まあぜんたい何がそんなに不平なんだい」
主人はここにおいて落雲館事件を初めとして、今戸焼きの
「ぴん助やきしゃごが何を言ったって知らん顔をしておればいいじゃないか。どうせくだらんのだから。中学の生徒なんかかまう価値があるものか。なに妨害になる。だって談判しても、けんかをしてもその妨害はとれんのじゃないか。ぼくはそういう点になると西洋人より昔の日本人のほうがよほどえらいと思う。西洋人のやり方は積極的積極的といって近ごろだいぶはやるが、あれは大なる欠点をもっているよ。第一積極的といったって際限がない話だ。いつまで積極的にやり通したって、満足という域とか完全という境にいけるものじゃない。向こうに
主人はわかったとも、わからないとも言わずに聞いていた。珍客が帰ったあとで書斎へはいって書物を読まずに何か考えていた。
鈴木の藤さんは金と衆とに従えと主人に教えたのである。甘木先生は催眠術で神経を沈めろと助言したのである。最後の珍客は消極的の修養で安心を得ろと説法したのである。主人がいずれをえらぶかは主人の随意である。ただこのままでは通されないにきまっている。
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