かきめぐりという運動を説明した時に、主人の庭をいめぐらしてある竹垣のことをちょっと述べたつもりであるが、この竹垣の外がすぐ隣家、すなわち南隣のちゃんとこと思っては誤解である。家賃は安いがそこはしや先生である。っちゃんや次郎ちゃんなどと号する、いわゆるちゃんづきのれんじゆうと、薄っぺらな垣ひとを隔ててお隣りどうしの親密なる交際は結んでおらぬ。この垣の外は五、六間のあき地であって、その尽くる所にひのきがこんもりと五、六本並んでいる。えんがわから拝見すると、向こうは茂った森で、ここに住む先生はなかの一軒家に、無名の猫を友にしてじつげつを送るこうしよであるかのごとき感がある。ただし檜の枝はふいちようするごとく密生しておらんので、そのあいだからぐんかくかんという、名前だけりつやす宿しゆくの安屋根が遠慮なく見えるから、しかく先生を想像するのにはよほど骨の折れるのはむろんである。しかしこの下宿が群鶴館なら先生の居はたしかにりようくつぐらいな価値はある。名前に税はかからんからお互いにえらそうなやつをかって次第につけることとして、この幅五、六間のあき地が竹垣を添うて東西に走ること約十間、それから、たちまちかぎの手に屈曲して、臥竜窟の北面を取り囲んでいる。この北面が騒動のたねである。本来ならあき地を行き尽くしてまたあき地、とかなんとかいばってもいいくらいに家のふたかわを包んでいるのだが、臥竜窟の主人はむろんくつないれいびようたるわがはいすらこのあき地には手こずっている。南側に檜が幅をきかしているごとく、北側にはきりの木が七、八本行列している。もう周囲一尺ぐらいにのびているからさえ連れてくればいいになるんだが、借家の悲しさには、いくら気がついても実行はできん。主人に対しても気の毒である。せんだって学校の小使が来て枝を一本切って行ったが、その次に来た時は新しい桐のまないたげたをはいて、このあいだの枝でこしらえましたと、聞きもせんのに吹聴していた。ずるいやつだ。桐はあるが吾輩および主人家族にとっては一もんにもならない桐である。玉をいだいて罪ありという古語があるそうだが、これは桐をやしてぜになしといってもしかるべきもので、いわゆる宝の持ち腐れである。愚なるものは主人にあらず、吾輩にあらず、ぬしでんである。いないかな、いないかな、下駄屋はいないかなと桐のほうで催促しているのに知らんかおをして屋賃ばかり取り立てにくる。吾輩はべつに伝兵衛に恨みもないから彼のあつこうをこのくらいにして、本題にもどってこのあき地が騒動の種であるという珍談を紹介つかまつるが、けっして主人に言ってはいけない。これぎりの話である。そもそもこのあき地に関して第一の不都合なることは垣根のないことである。吹き払い、吹き通し、抜け裏、通行御免天下晴れてのあき地である。というとうそをつくようでよろしくない。じつをいうとのである。しかし話は過去へさかのぼらんと原因がわからない。原因がわからないと、医者でも処方に迷惑する。だからここへ引き越して来た当時からゆっくりと話し始める。吹き通しも夏はせいせいして心持ちがいいものだ。不用心だって金のない所に盗難のあるはずはない。だから主人の家に、あらゆるへい、垣、ないしはらんぐいさかたぐいは全く不要である。しかしながらこれはあき地の向こうに住居する人間もしくは動物の種類いかんによって決せらるる問題であろうと思う。したがってこの問題を決するためには勢い向こう側に陣取っているくんの性質を明らかにせんければならん。人間だか動物だかわからない先に君子と称するのははなはだ早計のようではあるがたいてい君子で間違いはない。りようじようの君子などといってどろぼうさえ君子という世の中である。ただしこの場合における君子はけっして警察のやつかいになるような君子ではない。警察の厄介にならない代わりに、数でこなしたものとみえてたくさんいる。うじゃうじゃいる。らくうんかんと称する私立の中学校──八百の君子をいやが上に君子に養成するためにまいつき二円の月謝を徴集する学校である。名前が落雲館だから風流な君子ばかりかと思うと、それがそもそもの間違いになる。その信用すべからざることは群鶴館につるのおりざるごとく、臥竜窟に猫がいるようなものである。学士とか教師とか号するものに主人苫沙弥君のごとき気違いのあることを知った以上は落雲館の君子が風流漢ばかりでないということがわかるわけだ。それがわからんと主張するならまず三日ばかり主人のうちへ泊まりに来てみるがいい。

 ぜん申すごとく、ここへ引っ越しの当時は、例のあき地に垣がないので、落雲館の君子は車屋の黒のごとく、のそのそときりばたけにはいり込んできて、話をする、弁当を食う、ささの上に寝ころぶ──いろいろのことをやったものだ。それからは弁当のがいすなわち竹の皮、古新聞、あるいはふるぞうふる、ふるという名のつくものを大概ここへ捨てたようだ。とんじやくなる主人は存外平気に構えて、べつだん抗議も申し込まずに打ち過ぎたのは、知らなかったのか、知ってもとがめんつもりであったのかわからない。ところが彼ら諸君子は学校で教育を受くるに従って、だんだん君子らしくなったものとみえて、次第に北側から南側の方面へ向けてさんしよくを企ててきた。蚕食という語が君子に不似合いならやめてもよろしい。ただしほかに言葉がないのである。彼らはすいそうを追うてきよを変ずるばくの住民のごとく、桐の木を去って檜の方に進んで来た。檜のある所は座敷の正面である。よほど大胆なる君子でなければこれほどの行動は取れんはずである。一両日ののち彼らの大胆はさらにいっそうの大を加えて大々胆となった。教育の結果ほど恐ろしいものはない。彼らはたんに座敷の正面に迫るのみならず、この正面において歌をうたいだした。なんという歌か忘れてしまったが、けっしてひとのたぐいではない、もっと活発で、もっとぞくに入りやすい歌であった。驚いたのは主人ばかりではない、吾輩までも彼ら君子の才芸に嘆服して覚えず耳を傾けたくらいである。しかし読者も御案内であろうが、嘆服ということと邪魔ということは時として両立する場合がある。この両者がこの際図らずも合して一となったのは、今から考えてみてもかえすがえす残念である。主人も残念であったろうが、やむをえず書斎から飛び出して行って、ここは君らのはいる所ではない、出たまえと言って、二、三度追い出したようだ。ところが教育のある君子のことだから、こんなことでおとなしく聞くわけがない。追い出されればすぐはいる。はいれば活発なる歌をうたう。こうせいに談話をする。しかも君子の談話だから一風違って、だののと言う。そんな言葉はいつしんまえおりすけと雲助と三助の専門的知識に属していたそうだが、二十世紀になってから教育ある君子の学ぶ唯一の言語であるそうだ。一般から軽蔑せられたる運動が、かくのごとく今日歓迎せらるるようになったのと同一の現象だと説明した人がある。主人はまた書斎から飛び出してこの君子流の言葉に最もかんのうなる一人をつらまえて、なぜここへはいるかと詰問したら、君子はたちまち「」の上品な言葉を忘れて「ここは学校の植物園かと思いました」とすこぶる下品な言葉で答えた。主人は将来を戒めて放してやった。放してやるのはかめの子のようでおかしいが、じっさい彼は君子のそでをとらえて談判したのである。このくらいやかましく言ったらもうよかろうと主人は思っていたそうだ。ところが実際はじよの時代から予期と違うもので、主人はまた失敗した。今度は北側から邸内を横断して表門から抜ける、表門をがらりとあけるからお客かと思うと桐畑の方で笑う声がする。形勢はますますおんである。教育の効果はいよいよ顕著になってくる。気の毒な主人はこいつは手に合わんと、それから書斎へ立てこもって、うやうやしく一書を落雲館校長に奉って、少々お取り締まりをと哀願した。校長もていちようなる返書を主人に送って、垣をするから待ってくれと言った。しばらくすると二、三人の職人が来て半日ばかりのあいだに主人の屋敷と、落雲館の境に、高さ三尺ばかりの四つ目垣ができあがった。これでようよう安心だと主人は喜んだ。主人は愚物である。このくらいのことで君子の挙動の変化するわけがない。

 ぜんたい人にからかうのはおもしろいものである。吾輩のような猫ですら、時々は当家の令嬢にからかって遊ぶくらいだから、落雲館の君子が、気のきかない苦沙弥先生にからかうのはしごくもっともなところで、これに不平なのはおそらく、からかわれる当人だけであろう。からかうという心理を解剖してみると二つの要素がある。第一からかわれる当人が平気ですましていてはならん。第二からかう者が勢力においてにんにおいて相手より強くなくてはいかん。このあいだ主人が動物園から帰って来てしきりに感心して話したことがある。聞いてみるとらくと小犬のけんかを見たのだそうだ。小犬が駱駝の周囲をしつぷうのごとく回転してほえ立てると、駱駝はなんの気もつかずに、依然として背中へこぶをこしらえて突っ立ったままであるそうだ。いくらほえても狂っても相手にせんので、しまいには犬もあいをつかしてやめる、じつに駱駝は無神経だと笑っていたが、それがこの場合の適例である。いくらからかうものがじようでも相手が駱駝ときては成立しない。さればといってとらのように先方が強すぎてもものにならん。からかいかけるや否や八つ裂きにされてしまう。からかうと歯をむき出しておこる、おこることはおこるが、こっちをどうすることもできないという安心のある時に愉快は非常に多いものである。なぜこんなことがおもしろいというとその理由はいろいろある。まずひまつぶしに適している。退屈な時にはひげの数さえかんじようしてみたくなるものだ。昔獄に投ぜられた囚人の一人はりようのあまり、へやの壁に三角形を重ねてかいてその日を暮らしたという話がある。世の中に退屈ほど我慢のできにくいものはない、何か活気を刺激する事件がないと生きているのがつらいものだ。というのもつまりこの刺激を作って遊ぶ一種の娯楽である。ただし多少先方をおこらせるか、じらせるか、弱らせるかしなくては刺激にならんから、昔からという娯楽にふける者は人の気を知らないばかだいみようのような退屈の多い者、もしくは自分のなぐさみ以外は考うるにいとまなきほど頭の発達が幼稚で、しかも活気の使い道に窮する少年かに限っている。次には自己の優勢なことを実地に証明する者には最も簡便な方法である。人を殺したり、人を傷つけたり、または人をおとしいれたりしても自己の優勢なことは証明できるわけであるが、これらはむしろ殺したり、傷つけたり、おとしいれたりするのが目的の時によるべき手段で、自己の優勢なることはこの手段を遂行したのちに必然の結果として起こる現象にすぎん。だから一方には自分の勢力が示したくって、しかもそんなに人に害を与えたくないという場合には、のがいちばんおかつこうである。多少人を傷つけなければ自己のことは事実の上に証拠だてられない。事実になってでてこないと、頭のうちで安心していても存外快楽のうすいものである。人間は自己をたのむものである。否たのみがたい場合でもたのみたいものである。それだから自己はこれだけたのめる者だ、これなら安心だということを、人に対して実地に応用してみないと気がすまない。しかもくつのわからない俗物や、あまり自己がたのみになりそうもなくて落ち付きのない者は、あらゆる機会を利用して、この証券を握ろうとする。柔術使いが時々人を投げてみたくなるのと同じことである。柔術の怪しいものは、どうか自分より弱いやつに、ただの一ぺんでいいから出会ってみたい、しろうとでもかまわないから投げてみたいとしごく危険な了見をいだいて町内を歩くのもこれがためである。その他にも理由はいろいろあるが、あまり長くなるから略することにいたす。聞きたければかつぶしひとおりも持って習いに来るがいい、いつでも教えてやる。以上に説くところを参考して推論してみると、吾輩の考えではおくやまさると、学校の教師がからからうはいちばん手ごろである。学校の教師をもって、奥山の猿に比較してはもったいない。──猿に対してもったいないのではない、教師に対してもったいないのである。しかしよく似ているからしかたがない、御承知のとおり奥山の猿は鎖でつながれておる。いくら歯をむき出しても、きゃっきゃっ騒いでも引っかかれる気づかいはない。教師は鎖でつながれておらない代わりに月給で縛られている。いくらからかったって大丈夫、辞職して生徒をぶんなぐることはない。辞職をする勇気のあるような者なら最初から教師などをして生徒のおりは勤めないはずである。主人は教師である。落雲館の教師ではないが、やはり教師に相違ない。にはしごく適当で、しごく安直で、しごく無事な男である。落雲館の生徒は少年である。ことは自己の鼻を高くするゆえんで、教育の効果として至当に要求してしかるべき権利とまで心得ている。のみならずでもしなければ、活気にみちた五体と頭脳を、いかに使用してしかるべきかじつぷんの休暇中もて余して困っているれんじゆうである。これらの条件が備われば主人はおのずから、生徒はおのずから、だれからいわしてもごうも無理のないところである。それをおこる主人はの極、間抜けの骨頂でしょう。これから落雲館の生徒がいかに主人にからかったか、これに対して主人がいかに野暮をきわめたかを逐一書いて御覧に入れる。

 諸君は四つがきとはいかなるものであるか御承知であろう。風通しのいい、簡便な垣である。吾輩などは目のあいだから自由自在に往来することができる。こしらえたって、こしらえなくたって同じことだ。しかし落雲館の校長は猫のために四つ目垣を作ったのではない、自分が養成する君子がくぐられんために、わざわざ職人を入れていめぐらせたのである。なるほどいくら風通しがよくできていても、人間にはくぐれそうにない。この竹をもって組み合わせたる四寸角の穴をぬけることは、しんこくの奇術師ちようせいそんその人といえどもむずかしい。だから人間に対しては十分垣の効能をつくしているに相違ない。主人がそのできあがったのを見て、これならよかろうと喜んだのも無理はない。しかし主人の論理には大いなる穴がある。この垣よりも大いなる穴がある。どんしゆうの魚をももらすべき大穴がある。彼は垣はゆべきものにあらずとの仮定からしゆつたつしている。いやしくも学校の生徒たる以上はいかに粗末の垣でも、垣という名がついて、分界線の区域さえ判然すればけっして乱入される気づかいはないと仮定したのである。次に彼はその仮定をしばらく打ちくずして、よし乱入する者があっても大丈夫と論断したのである。四つ目垣の穴をくぐりうることは、いかなる小僧といえどもとうていできる気づかいはないから乱入のおそれはけっしてないと速定してしまったのである。なるほど彼らが猫でない限りはこの四角の目をぬけてくることはしまい、したくてもできまいが、乗りこえること、飛び越えることはなんのこともない。かえって運動になっておもしろいくらいである。

 垣ができた翌日から、垣のできぬ前と同様に彼らは北側のあき地へぽかりぽかりと飛び込む。ただし座敷の正面までは深入りをしない。もし追いかけられたら逃げるのに、少々ひまがいるから、あらかじめ逃げる時間を勘定に入れて、捕えらるる危険のない所でゆうよくをしている。彼らが何をしているか東の離れにいる主人にはむろん目に入らない。北側のあき地に彼らが遊弋している状態は、木戸をあけて反対の方角からかぎの手に曲がって見るか、またはこうの窓から垣根越しにながめるよりほかにしかたがない。窓からながめる時はどこに何がいるか、いちもくめいりように見渡すことができるが、よしや敵をいくたり見いだしたからといって捕えるわけにはゆかぬ。ただ窓のこうの中からしかりつけるばかりである。もし木戸からかいして敵地を突こうとすれば、足音を聞きつけて、ぽかりぽかりとつらまる前に向こう側へおりてしまう。オットセイがひなたぼっこをしている所へ密猟船が向かったようなものだ。主人はむろん後架で張り番をしているわけではない。といって木戸を開いて、音がしたらすぐ飛び出す用意もない。もしそんなことをやる日には教師を辞職して、そのほう専門にならなければ追っつかない。しゆじんかたの不利をいうと書斎からは敵の声だけ聞こえて姿が見えないのと、窓からは姿が見えるだけで手が出せないことである。この不利を看破したる敵はこんな軍略を講じた。主人が書斎に立てこもっているとたんていした時には、なるべく大きな声を出してわあわあ言う。その中には主人をひやかすようなことを聞こえよがしに述べる。しかもその声のしゆつしよをきわめて不分明にする。ちょっと聞くと垣の内で騒いでいるのか、あるいは向こう側であばれているのか判定しにくいようにする。もし主人が出かけて来たら、逃げ出すか、または初めから向こう側にいて知らん顔をする。また主人が後架へ──吾輩は最前からしきりに後架後架ときたない字を使用するのをべつだんの光栄とも思っておらん。じつは迷惑千万であるが、この戦争を記述する上において必要であるからやむをえない。──すなわち主人が後架へまかり越したと見て取る時は、必ずきりの木の付近をはいかいしてわざと主人の目につくようにする。主人がもし後架からりんに響く大音をあげてどなりつければ敵はあわてるけしきもなく悠然と根拠地へ引きあげる。この軍略を用いられると主人ははなはだ困却する。たしかにはいっているなと思ってステッキを持って出かけるとせきぜんとしてだれもいない。いないかと思って窓からのぞくと必ず一、二人はいっている。主人は裏へ回ってみたり、後架からのぞいてみたり、後架からのぞいてみたり、裏へ回ってみたり、何度言っても同じことだが、何度言っても同じことを繰り返している。ほんめいに疲れるとはこのことである。教師が職業であるか、戦争が本務であるかちょっとわからないくらい逆上してきた。この逆上の頂点に達した時にしもの事件が起こったものである。

 事件は大概逆上から出るものだ。逆上とは読んで字のごとくさかさにのぼるのである、この点に関してはゲーレンもパラセルサスも旧弊なるへんじやくも異議を唱うる者はひともない。ただどこへさかさに上るかが問題である。また何がさかさに上るかが議論のあるところである。古来欧州人の伝説によると、じんの体内には四種の液がじゆんかんしておったそうだ。第一に怒液というやつがある。これがさかさに上るとおこりだす。第二に鈍液と名づくるのがある。これがさかさに上ると神経が鈍くなる。次には憂液、これは人間を陰気にする。最後が血液、これはさかんにする。その後人文が進むに従って鈍液、怒液、憂液はいつのまにかなくなって、現今に至っては血液だけが昔のように循環しているという話だ。だからもし逆上する者があらば血液よりほかにはあるまいと思われる。しかるにこの血液の分量は個人によってちゃんときまっている。性分によって多少の増減はあるが、まずたいてい一にんまえにつき五升五合の割合である。だによって、この五升五合がさかさにのぼると、上った所だけはさかんに活動するが、その他の局部は欠乏を感じて冷たくなる。ちょうど交番焼き打ちの当時巡査がことごとく警察署へ集まって、町内には一人もなくなったようなものだ。あれも医学上から診断をすると警察の逆上というものである。でこの逆上をいやすには血液を従前のごとく体内の各部へ平均に分配しなければならん。そうするにはさかさに上ったやつを下へおろさなくてはならん。その法にはいろいろある。今は故人となられたが主人の先君などはぬれ手ぬぐいを頭にあててたつにあたっておられたそうだ。かんそくねつえんめいそくさいちようしようかんろんにも出ているとおり、ぬれ手ぬぐいは長寿法において一じつも欠くべからざるものである。それでなければ坊主の慣用する手段を試みるがよい。一所不住のしやもんうんすいあんぎやのうそうは必ず樹下石上を宿とすとある。樹下石上とはなんぎようぎようのためではない。全くを下げるためにろくが米をつきながら考え出した秘法である。試みに石の上にすわってごらん、しりが冷えるのはあたりまえだろう。尻が冷える、のぼせが下がる、これまた自然の順序にしてごうもうたがいをさしはさむべき余地はない。かようにいろいろな方法を用いてを下げるくふうはだいぶ発明されたが、まだを引きおこす良法が案出されないのは残念である。一概に考えるとのぼせは損あって益なき現象であるが、そうばかり速断してならん場合がある。職業によると逆上はよほど大切なもので、逆上せんとなんにもできないことがある。そのうちで最も逆上を重んずるのは詩人である。詩人に逆上が必要なることは汽船に石炭が欠くべからざるようなもので、この供給が一日でもとぎれると彼らは手をこまぬいて飯を食うよりほかになんらの能もない凡人になってしまう。もっとも逆上は気違いのみようで、気違いにならないと家業が立ちゆかんとあっては世間ていが悪いから、彼らの仲間では逆上を呼ぶに逆上の名をもってしない。申し合わせてインスピレーション、インスピレーションとさももったいそうにとなえている。これは彼らが世間をまんちやくするために製造した名でそのじつはまさに逆上である。プレートーは彼らの肩を持ってこの種の逆上を神聖なる狂気と号したが、いくら神聖でも狂気では人が相手にしない。やはりインスピレーションという新発明の売薬のような名をつけておくほうが彼らのためによかろうと思う。しかしかまぼこたねやまいもであるごとく、かんのんの像が一寸八分の朽ち木であるごとく、かもなんばんの材料がからすであるごとく、下宿屋のぎゆうなべが馬肉であるごとくインスピレーションもじつは逆上である。逆上であってみれば臨時の気違いである。がもへ入院せずにすむのはたんに気違いであるからだ。ところがこの臨時気違いを製造することが困難なのである。いつしようがいの狂人はかえってできやすいが、筆をって紙に向かう間だけ気違いにするのは、いかにこうしやな神様でもよほど骨が折れるとみえて、なかなかこしらえてみせない。神が作ってくれん以上はりきでこしらえなければならん。そこで昔から今日まで逆上術もまた逆上とりのけ術と同じく大いに学者の頭脳を悩ました。ある人はインスピレーションをるために毎日しぶがきを十二個ずつ食った。これは渋柿を食えば便秘する、便秘すれば逆上は必ず起こるという理論からきたものだ。またある人はかん徳利を持っててつぽうへ飛び込んだ。湯の中で酒を飲んだら逆上するにきまっていると考えたのである。その人の説によるとこれで成功しなければどうしゆの湯をわかしてはいれば一ぺんで効能があると信じ切っている。しかし金がないのでついに実行することができなくて死んでしまったのは気の毒である。最後に古人のまねをしたらインスピレーションが起こるだろうと思いついた者がある。これはある人の態度動作をまねると心的状態もその人に似てくるという学説を応用したのである。酔っぱらいのようにくだをまいていると、いつのまにか酒飲みのような心持ちになる、ぜんをして線香一本のあいだ我慢しているとどことなく坊主らしい気分になれる。だから昔からインスピレーションを受けた有名の大家のしよをまねれば必ず逆上するに相違ない。聞くところによればユーゴーはヨットの上へ寝ころんで文章の趣向を考えたそうだから、船へ乗って青空を見つめていれば必ず逆上うけあいである。スチーヴンソンは腹ばいに寝て小説を書いたそうだから、うつぶしになって筆を持てばきっと血がさかさに上ってくる。かようにいろいろな人がいろいろのことを考え出したが、まだだれも成功しない。まず今日のところでは人為的逆上は不可能のこととなっている。残念だがいたしかたがない。早晩随意にインスピレーションを起こしうる時機の到来するは疑いもないことで、吾輩は人文のためにこの時機の一じつも早くきたらんことを切望するのである。

 逆上の説明はこのぐらいで十分であろうと思うから、これよりいよいよ事件に取りかかる。しかしすべての大事件の前には必ず小事件が起こるものだ。大事件のみを述べて、小事件を逸するのは古来から歴史家の常に陥るへいとうである。主人の逆上も小事件に会うたびにいっそうのげきじんを加えて、ついに大事件を引き起こしたのであるからして、いくぶんかその発達を順序立てて述べないと主人がいかに逆上しているかわかりにくい。わかりにくいと主人の逆上は空名に帰して、世間からはよもやそれほどでもなかろうと見くびられるかもしれない。せっかく逆上しても人からあっぱれな逆上とうたわれなくては張り合いがないだろう。これから述べる事件は大小にかかわらず主人にとって名誉なものではない。事件そのものが不名誉であるならば、せめて逆上なりとも、しようめいの逆上であって、けっして人に劣るものでないということを明らかにしておきたい。主人は他に対してべつにこれといって誇るに足る性質を有しておらん。逆上でも自慢しなくてはほかに骨を折って書き立ててやる種がない。

 落雲館に群がる敵軍は近日に至って一種のダムダム弾を発明して、じつぷんの休暇、もしくは放課後に至ってさかんに北側のあき地に向かって砲火を浴びせかける。このダムダム弾は通称をボールととなえて、すりこ木の大きなやつをもって任意これを敵中に発射する仕掛けである。いくらダムダムだって落雲館の運動場から発射するのだから、書斎に立てこもってる主人にあたる気づかいはない。敵といえども弾道のあまり遠すぎるのを自覚せんことはないのだけれども、そこが軍略である。りよじゆんの戦争にも海軍から間接射撃を行なって偉大な功を奏したという話であれば、あき地へころがり落つるボールといえども相当の効果を収めえぬことはない。いわんや一発を送るたびに総軍力を合わせてわーとかくせいだいおんじようをいだすにおいてをやである。主人は恐縮の結果として手足に通う血管が収縮せざるをえない。はんもんの極そこいらをまごついている血がさかさに上るはずである。敵のはかりごとはなかなか巧妙というてよろしい。昔ギリシアにイスキラスという作家があったそうだ。この男は学者作家に共通なる頭を有していたという。吾輩のいわゆる学者作家に共通なる頭とははげという意味である。なぜ頭がはげるかといえば頭の営養不足で毛が生長するほど活気がないからに相違ない。学者作家は最も多く頭を使うものであって大概は貧乏にきまっている。だから学者作家の頭はみんな営養不足で、みんなはげている。さてイスキラスも作家であるから自然の勢いはげなくてはならん。彼はつるつる然たるきんかんあたまを有しておった。ところがある日のこと、先生例の頭──頭によそゆきもふだん着もないから例の頭にきまってるが──その例の頭を振り立て振り立て、太陽に照らしつけて往来を歩いていた。これが間違いのもとである。はげ頭を日にあてて遠方から見ると、たいへんよく光るものだ。高い木には風があたる、光る頭にも何かあたらなくてはならん。この時イスキラスの頭の上に一羽のわしが舞っていたが、見るとどこかでいけ捕った一ぴきのかめつめの先につかんだままである。亀、すっぽんなどは美味に相違ないが、ギリシア時代から堅いこうをつけている。いくら美味でも甲羅つきではどうすることもできん。の鬼がら焼きはあるが亀の子のこうは今でさえないくらいだから、当時はむろんなかったにきまっている。さすがの鷲も少々持て余したおりから、はるかの下界にぴかと光ったものがある。その時鷲はしめたと思った。あの光ったものの上へ亀の子を落としたなら、甲羅はまさしく砕けるにきわまった。砕けたあとから舞いおりて中味を頂戴すればわけはない。そうだそうだとねらいを定めて、かの亀の子を高い所からあいさつもなく頭の上へ落とした。あいにく作家の頭のほうが亀の甲よりやわらかであったものだから、はげはめちゃめちゃに砕けて有名なるイスキラスはここにざんの最後を遂げた。それはそうと、しかねるのは鷲の了見である。例の頭を、作家の頭と知って落としたのか、またははげ岩と間違えて落としたものか、解決しよう次第で、落雲館の敵とこの鷲とを比較することもできるし、またできなくもなる。主人の頭はイスキラスのそれのごとく、またおれきれきの学者のごとくぴかぴか光ってはおらん。しかし六畳敷きにせよいやしくも書斎と号する一室を控えて、居眠りをしながらも、むずかしい書物の上へ顔をかざす以上は、学者作家の同類と見なさなければならん。そうすると主人の頭のはげておらんのは、まだはげるべき資格がないからで、そのうちにはげるだろうとはきんきんこの頭の上に落ちかかるべき運命であろう。してみれば落雲館の生徒がこの頭を目がけて例のダムダムがんを集注するのは策の最も時宜に適したものといわねばならん。もし敵がこの行動を二週間継続するならば、主人の頭はと煩悶のため必ず営養の不足を訴えて、金柑ともかんともどうとも変化するだろう。なお二週間の砲撃を食らえば金柑はつぶれるに相違ない。薬罐は漏るに相違ない。銅壺ならひびが入るにきまっている。この見やすき結果を予想せんで、あくまでも敵と戦闘を継続しようと苦心するのは、ただ本人たる苦沙弥先生のみである。

 ある日の午後、吾輩は例のごとく縁側へ出てひるをしてとらになった夢を見ていた。主人にけいにくを持ってこいと言うと、主人がへえと恐る恐る鶏肉を持って出る。めいていが来たから、迷亭にがんが食いたい、雁なべへ行ってあつらえて来いと言うと、かぶこうの物と、塩せんべいといっしょに召し上がりますと雁の味がいたしますと例のごとくちゃらッぽこを言うから、大きな口をあいて、うーとうなっておどかしてやったら、迷亭は青くなってやましたの雁なべは廃業いたしましたがいかが取りはからいましょうかと言った。それなら牛肉で勘弁するから早く西にしかわへ行ってロースを一斤取って来い、早くせんときさまから食い殺すぞと言ったら、迷亭はしりをはしょって駆け出した。吾輩は急にからだが大きくなったので、縁側いっぱいに寝そべって、迷亭の帰るのを待ち受けていると、たちまちうちじゅうに響く大きな声がしてせっかくのぎゆうも食わぬに夢がさめて我に帰った。すると今まで恐る恐る吾輩の前に平伏していたと思いのほかの主人が、いきなり後架から飛び出して来て、吾輩のよこばらをいやというほどたから、おやと思ううち、たちまちにわをつっかけて木戸から回って、落雲館の方へかけて行く。吾輩は虎から急に猫と収縮したのだからなんとなくきまりが悪くもあり、おかしくもあったが、主人のこのけんまくと横腹をけられた痛さとで、虎のことはすぐ忘れてしまった。同時に主人がいよいよしゆつして敵と交戦するなおもしろいわいと、痛いのを我慢して、あとを慕って裏口へ出た。同時に主人がとどなる声が聞こえる、見ると制帽をつけた十八、九になる屈強なやつが一人、四つ目垣を向こうへ乗り越えつつある。やあおそかったと思ううち、かの制帽は駆け足の姿勢をとって根拠地の方へてんのごとく逃げて行く。主人はが大いに成功したので、またもと高く叫びながら追いかけて行く。しかしかの敵に追いつくためには主人のほうで垣を越さなければならん。深入りをすれば主人みずからが泥棒になるはずである。ぜん申すとおり主人は立派なる逆上家である。から勢いに乗じてを追いかける以上は、ふう自身がになっても追いかけるつもりとみえて、引き返すけしきもなく垣の根もとまで進んだ。今一歩で彼はの領分にはいらなければならんというぎわに、敵軍の中から、薄いひげを勢いなくはやした将官がのこのこと出馬して来た。両人ふたりは垣を境に何か談判している。聞いてみるとこんなつまらない議論である。

 「あれは本校の生徒です」

 「生徒たるべき者が、なんでひとの邸内へ侵入するのですか」

 「いやボールがつい飛んだものですから」

 「なぜ断わって、取りに来ないのですか」

 「これからよく注意します」

 「そんなら、よろしい」

 りゆうとうとうの壮観があるだろうと予期した交渉はかくのごとく散文的なる談判をもって無事に迅速に結了した。主人のさかんなるはただ意気込みだけである。いざとなると、いつでもこれでおしまいだ。あたかも吾輩が虎の夢から急に猫に返ったような観がある。吾輩の小事件というのはすなわちこれである。小事件を記述したあとには、順序としてぜひ大事件を話さなければならん。

 主人は座敷の障子を開いて腹ばいになって、何か思案している。おそらく敵に対してぼうぎよさくを講じているのだろう。落雲館は授業中とみえて、運動場は存外静かである。ただ校舎の一室で、りんの講義をしているのが手に取るように聞こえる。朗々たる音声でなかなかうまく述べたてているのを聞くと、全くきのう敵中から出馬して談判のしように当たった将軍である。

 「……で公徳というものは大切なことで、あちらへ行ってみると、フランスでもドイツでもイギリスでも、どこへ行っても、この公徳の行なわれておらん国はない。またどんな下等な者でもこの公徳を重んぜぬ者はない。悲しいかな、わが日本にあっては、またこの点において外国ときつこうすることができんのである。で公徳と申すと何か新しく外国から輸入して来たように考える諸君もあるかもしれんが、そう思うのはだいなる誤りで、せきじんふうの道一もってこれをつらぬく、ちゆうじよのみと言われたことがある。この恕と申すのが取りも直さず公徳のしゆつしよである。わたしも人間であるから時には大きな声をして歌などうたってみたくなることがある。しかしわたしが勉強している時に隣室の者などが放歌するのを聞くと、どうしても書物の読めぬのが私の性分である。であるからして自分が唐詩選でもこうせいに吟じたら気分がせいせいしてよかろうと思う時ですら、もし自分のように迷惑がる人が隣家に住んでおって、知らず知らずその人の邪魔をするようなことがあってはすまんと思うて、そういう時はいつでも控えるのである。こういうわけだから諸君もなるべく公徳を守って、いやしくも人の妨害になると思うことはけっしてやってはならんのである。……」

 主人は耳を傾けて、この講話を謹聴していたが、ここに至ってにやりと笑った。ちょっとこのの意味を説明する必要がある。皮肉家がこれをよんだらこのの裏には冷評的分子が交じっていると思うだろう。しかし主人はけっして、そんな人の悪い男ではない。悪いというよりそんなに知恵の発達した男ではない。主人はなぜ笑ったかというと全くうれしくって笑ったのである。倫理の教師たる者がかように痛切なる訓戒を与えるからはこののちは永久ダムダム弾の乱射は免れるに相違ない。当分のうち頭もはげずにすむ、逆上は一時に直らんでも時機さえくれば漸次回復するだろう、ぬれ手ぬぐいをいただいて、たつにあたらなくとも、樹下石上を宿としなくとも大丈夫だろうと鑑定したから、にやにやと笑ったのである。借金は必ず返すものと二十世紀の今日にもやはり正直に考えるほどの主人がこの講話をまじめに聞くのは当然であろう。

 やがて時間が来たとみえて、講話はぱたりとやんだ。他の教室の課業も皆一度に終わった。すると今まで室内に密封された八百の同勢はときの声をあげて、建物を飛び出した。その勢いというものは、一尺ほどなはちをたたき落としたごとくである。ぶんぶん、わんわん言うて窓から、戸口から、開きから、いやしくも穴のあいている所ならなんの容赦もなく我勝ちに飛び出した。これが大事件のほつたんである。

 まず蜂の陣立てから説明する。こんな戦争に陣立ても何もあるものかというのは間違っている。普通の人は戦争とさえいえばしやとかほうてんとかまた旅順とかそのほかに戦争はないもののごとくに考えている。少し詩がかった野蛮人になると、アキリスがヘクトーのがいを引きずって、トロイの城壁をさんそうしたとか、えんびとちようちようはんきようじようはちぼうを横たえて、そうそうの軍百万人をにらめ返したとか大げさなことばかり連想する。連想は当人の随意だがそれ以外の戦争はないものと心得るのは不都合だ。たいもうまいの時代にあってこそ、そんなばかげた戦争も行なわれたかもしれん、しかし太平の今日、大日本国帝都の中心においてかくのごとき野蛮的行動はありうべからざる奇蹟に属している。いかに騒動が持ち上がっても交番の焼き打ち以上に出る気づかいはない。してみるとがりようくつしゆじんの苦沙弥先生と落雲館裏八百の健児との戦争は、まず東京市あって以来の大戦争の一として数えてもしかるべきものだ。えんりようの戦いを記するに当たってもまず敵の陣勢から述べている。古来から叙述に巧みなる者は皆この筆法を用いるのが通則になっている。だによって吾輩が蜂の陣立てを話すのもさいなかろう。それでまず蜂の陣立ていかんと見てあると、四つ目垣の外側に縦列を形づくった一隊がある。これは主人を戦闘線内に誘致する職務を帯びた者とみえる。「降参しねえか」「しねえしねえ」「だめだだめだ」「出てこねえ」「落ちねえかな」「落ちねえはずはねえ」「ほえてみろ」「わんわん」「わんわん」「わんわんわんわん」これから先は縦隊総がかりとなってとつかんの声をあげる。縦隊を少し右へ離れて運動場の方面には砲隊が形勝の地を占めて陣地をいている。臥竜窟に面して一人の将官がすりこ木の大きなやつを持って控える。これと相対して五、六間の間隔をとってまた一人立つ、すりこ木のあとにまた一人、これは臥竜窟に顔をむけて突っ立っている。かくのごとく一直線にならんで向かい合っているのが砲手である。ある人の説によるとこれはベースボールの練習であって、けっして戦闘準備ではないそうだ。吾輩はベースボールの何物たるを解せぬ文盲漢である。しかし聞くところによればこれは米国から輸入された遊戯で、今日中学程度以上の学校に行なわるる運動のうちで最も流行するものだそうだ。米国は突飛なことばかり考え出す国がらであるから、砲隊と間違えてもしかるべき、近所迷惑の遊戯を日本人に教うべくだけそれだけ親切であったかもしれない。また米国人はこれをもって真に一種の運動遊戯と心得ているのだろう。しかし純粋の遊戯でもかようにりんを驚かすに足る能力を有している以上は使いようで砲撃の用には十分立つ。吾輩の目をもって観察したところでは、彼らはこの運動術を利用して砲火の功を収めんと企てつつあるとしか思われない。物は言いようでどうでもなるものだ。慈善の名を借りてを働き、インスピレーションと号して逆上をうれしがる者がある以上はベースボールなる遊戯のもとに戦争をなさんとも限らない。ある人の説明は世間一般のベースボールのことであろう。今吾輩が記述するベースボールはこの特別の場合に限らるるベースボールすなわち攻城的砲術である。これからダムダム弾を発射する方法を紹介する。直線に布かれたる砲列の中の一人が、ダムダム弾を右の手に握ってすりこ木の所有者にほうりつける。ダムダム弾はなんで製造したか局外者にはわからない。堅い丸い石の団子のようなものを御丁寧に皮でくるんで縫い合わせたものである。ぜん申すとおりこの弾丸が砲手の一人の手中を離れて、風を切って飛んでゆくと、向こうに立った一人が例のすりこ木をやっと振り上げて、これをたたき返す。たまにはたたきそこなった弾丸が流れてしまうこともあるが、大概はポカンと大きな音を立ててはね返る。その勢いは非常に猛烈なものである。神経性胃弱なる主人の頭をつぶすぐらいは容易にできる。砲手はこれだけで事足るのだが、その周囲付近にはうま兼援兵がうんのごとく付き添うている。ポカーンとすりこ木が団子にあたるや否やわー、ぱちぱちぱちと、わめく、手をうつ、やれやれと言う。あたったろうと言う。これでもきかねえかと言う。恐入らねえかと言う。降参かと言う。これだけならまだしもであるが、たたき返された弾丸は三度に一度必ず臥竜窟邸内へころがり込む。これがころがり込まなければ攻撃の目的は達せられんのである。ダムダム弾は近来諸所で製造するがすいぶん高価なものであるから、いかに戦争でもそう十分な供給を仰ぐわけにゆかん。たいてい一隊の砲手に一つもしくは二つの割である。ポンと鳴るたびにこの貴重な弾丸を消費するわけにはゆかん。そこで彼らはたま拾いと称する一部隊を設けて落弾を拾ってくる。落ち場所がよければ拾うのに骨も折れないが、草原とか人の邸内へ飛び込むとそうたやすくはもどってこない。だから平生ならなるべく労力を避けるため、拾いやすい所へ打ち落とすはずであるが、この際は反対に出る。目的が遊戯にあるのではない、戦争に存するのだから、わざとダムダム弾を主人の邸内に降らせる。邸内に降らせる以上は、邸内へはいって拾わなければならん。邸内にはいる最も簡便な方法は四つ目垣を越えるにある。四つ目垣のうちで騒動すれば主人がおこりださなければならん。しからずんばかぶとを脱いで降参しなければならん。苦心のあまり頭がだんだんはげてこなければならん。

 今しも敵軍から打ち出した一弾は、照準誤たず、四つ目垣を通り越してきりの下葉をふるい落として、第二の城壁すなわちたけがきに命中した。ずいぶん大きな音である。ニュートンの運動律第一にいわくもし他の力を加うるにあらざれば、ひとたび動きだしたる物体は均一の速度をもって直線に動くものとす。もしこの律のみによって物体の運動が支配せらるるならば主人の頭はこの時にイスキラスと運命を同じくしたであろう。幸いにしてニュートンは第一則を定むると同時に第二則も製造してくれたので主人の頭は危うきうちに一命を取りとめた。運動の第二則にいわく運動の変化は、加えられたる力に比例す、しかしてその力の働く直線の方向において起こるものとす。これはなんのことだか少しくわかりかねるが、かのダムダム弾が竹垣を突き通して、障子を裂き破って主人の頭を破壊しなかったところをもってみると、ニュートンのおかげに相違ない。しばらくすると案のごとく敵は邸内に乗り込んで来たものと覚しく、「ここか」「もっと左の方か」などと棒でもってささの葉をたたき回る音がする。すべて敵が主人の邸内へ乗り込んでダムダム弾を拾う場合には必ず特別な大きな声を出す。こっそりはいって、こっそり拾っては肝心の目的が達せられん。ダムダム弾は貴重かもしれないが、主人にからかうのはダムダム弾以上にだいじである。この時のごときは遠くからたまの所在地は判然している。竹垣にあたった音も知っている、中った場所もわかっている、しかしてその落ちた地面も心得ている。だからおとなしくして拾えば、いくらでもおとなしく拾える。ライプニッツの定義によると空間はできうべき同在現象の秩序である。はいつでも同じ順にあらわれてくる。柳の下には必ずどじょうがいる。こうもりに夕月はつきものである。垣根にボールは不似合いかもしれぬ。しかし毎日毎日ボールを人の邸内にほうり込む者の目に映ずる空間はたしかにこの排列に慣れている。一目見ればすぐわかるわけだ。それをかくのごとく騒ぎ立てるのはひつきようずるに主人に戦争をいどむ策略である。

 こうなってはいかに消極的なる主人といえども応戦しなければならん。さっき座敷のうちから倫理の講義を聞いてにやにやしていた主人は奮然として立ち上がった。猛然として駆け出した。ばくぜんとして敵の一人をった。主人としては大できである。大できには相違ないが、見ると十四、五の子供である。ひげのはえている主人の敵として少し不似合いだ。けれども主人はこれでたくさんだと思ったのだろう。わび入るのを無理に引っぱって縁側の前まで連れて来た。ここにちょっと敵の策略について一げんする必要がある、敵は主人がきのうのけんまくを見てこの様子ではきょうも必ず自身で出馬するに相違ないと察した。その時万一逃げ損じて大僧がつらまってはことめんどうになる。ここは一年生か二年生ぐらいな子供を玉拾いにやって危険を避けるにこしたことはない。よし主人が子供をつらまえてぐずぐず理窟をこね回したって、落雲館の名誉には関係しない、こんなものをおとなげもなく相手にする主人の恥辱になるばかりだ。敵の考えはこうであった。これが普通の人間の考えでしごくもっともなところである。ただ敵は相手が普通の人間でないということを勘定のうちに入れるのを忘れたばかりである。主人にこれくらいの常識があればきのうだって飛び出しはしない。逆上は普通の人間を、普通の人間の程度以上につるし上げて、常識のある者に、非常識を与えるものである。女だの、子供だの、車引きだの、だのと、そんな見さかいのあるうちは、まだ逆上をもって人に誇るに足らん。主人のごとく相手にならぬ中学一年生を生け捕って戦争の人質とするほどの了見でなくては逆上家の仲間入りはできないのである。かあいそうなのはりよである。たんに上級生の命令によって玉拾いなるぞうひようの役を勤めたるところ、運悪く非常識の敵将、逆上の天才に追い詰められて、垣越える間もあらばこそ、庭前に引きすえられた。こうなると敵軍は安閑と味方の恥辱を見ているわけにゆかない。我も我もと四つ目垣を乗りこして木戸口からていちゆうに乱れ入る。そのすうは約一ダースばかり、ずらりと主人の前に並んだ。たいていは上着もチョッキもつけておらん。白いシャツの腕をまくって、腕組みをしたのがある。綿ネルの洗いざらしを申し訳に背中だけへ乗せているのがある。そうかと思うと白の帆もめんに黒い縁をとって胸のまん中に花文字を、同じ色に縫いつけたしゃれ者もある。いずれも一騎当千の猛将とみえて、たんの国はささやまからゆうべちやくしたてでござるといわぬばかりに、黒くたくましく筋肉が発達している。中学などへ入れて学問をさせるのは惜しいものだ。漁師か船頭にしたらさだめし国家のためになるだろうと思われるくらいである。彼らは申し合わせたごとく、素足にももひきを高くまくって、近火の手伝いにでも行きそうなふうていに見える。彼らは主人の前にならんだぎり黙然として一言も発しない。主人も口を開かない。しばらくのあいだ双方ともにらめくらをしているなかにちょっと殺気がある。

 「きさまらはか」と主人は尋問した。大気炎である。奥歯でかみつぶしたかんしゃく玉が炎となって鼻の穴から抜けるので、小鼻が、いちじるしく怒って見える。えちの鼻は人間がおこった時のかつこうをかたどって作ったものであろう。それでなくてはあんなに恐ろしくできるものではない。

 「いえどろぼうではありません。落雲館の生徒です」

 「うそをつけ。落雲館の生徒が無断で人の庭宅に侵入するやつがあるか」

 「しかしこのとおりちゃんと学校の記章のついている帽子をかぶっています」

 「にせものだろう。落雲館の生徒ならなぜむやみに侵入した」

 「ボールが飛び込んだものですから」

 「なぜボールを飛び込ました」

 「つい飛び込んだんです」

 「けしからんやつだ」

 「以後注意しますから、今度だけ許してください」

 「どこの何者かわからんやつが垣を越えて邸内にちんにゆうするのを、そうたやすく許されると思うか」

 「それでも落雲館の生徒に違いないんですから」

 「落雲館の生徒なら何年生だ」

 「三年生です」

 「きっとそうか」

 「ええ」

 主人は奥の方を顧みながら、おいこらこらと言う。

 埼玉生まれのおさんがふすまをあけて、へえと顔を出す。

 「落雲館へ行ってだれか連れてこい」

 「だれを連れて参ります」

 「だれでもいいから連れてこい」

 下女は「へえ」と答えたが、あまり庭前の光景が妙なのと、使いの趣が判然しないのと、さっきからの事件の発展がばかばかしいので、立ちもせず、すわりもせずにやにや笑っている。主人はこれでも大戦争をしているつもりである。逆上的敏腕を大いにふるっているつもりである。しかるところ自分の召し使いたる当然こっちの肩を持つべき者が、まじめな態度をもってことに臨まんのみか、用を言いつけるのを聞きながらにやにや笑っている。ますます逆上せざるをえない。

 「だれでもかまわんから呼んでこいというのに、わからんか。校長でも幹事でも教頭でも……」

 「あの校長さんを……」下女は校長という言葉だけしか知らないのである。

 「校長でも、幹事でも教頭でもと言っているのにわからんか」

 「だれもおりませんでしたら小使でもよろしゅうございますか」

 「ばかをいえ。小使などに何がわかるものか」

 ここに至って下女もやむをえんと心得たものか、「へえ」と言って出て行った。使いの主意はやはり飲み込めんのである。小使でも引っぱって来はせんかと心配していると、あにはからんや例の倫理の先生が表門から乗り込んで来た。平然と座につくを待ち受けた主人はただちに談判にとりかかる。

 「ただ今邸内にこの者どもが乱入いたして……」とちゆうしんぐらのような古風な言葉を使ったが「ほんとうにおんこうの生徒でしょうか」と少々皮肉に語尾を切った。

 倫理の先生はべつだん驚いた様子もなく、平気で庭前にならんでいる勇士を一通り見回した上、もとのごとくひとみを主人の方にかえして、しものごとく答えた。

 「さようみんな学校の生徒であります。こんなことのないように始終訓戒を加えておきますが……どうも困ったもので……なぜ君らは垣などを乗り越すのか」

 さすがに生徒は生徒である、倫理の先生に向かっては一言もないとみえてなんとも言う者はない。おとなしく庭のすみにかたまって羊のむれが雪に会ったように控えている。

 「たまがはいるのもしかたがないでしょう。こうして学校の隣りに住んでいる以上は、時々はボールも飛んで来ましょう。しかし……あまり乱暴ですからな。たとい垣を乗り越えるにしても知れないように、そっと拾ってゆくなら、また勘弁のしようがありますが……」

 「ごもっともで、よく注意はいたしますがなにぶん多人数のことで……よくこれから注意をせんといかんぜ。もしボールが飛んだら表から回って、お断わりをして取らなければいかん。いいか。──広い学校のことですからどうも世話ばかりやけてしかたがないです。で運動は教育上必要なものでありますから、どうもこれを禁ずるわけには参りかねるので。これを許すとつい御迷惑になるようなことができますが、これはぜひ御容赦を願いたいと思います。そのかわり向後はきっと表門から回ってお断わりをいたした上で取らせますから」

 「いや、そう事がわかればよろしいです。たまはいくらお投げになってもさしつかえはないです。表から来てちょっと断わってくださればかまいません。ではこの生徒はあなたにお引き渡し申しますからお連れ帰りを願います。いやわざわざお呼び立て申して恐縮です」と主人は例によって例のごとくりゆうとうあいさつをする。倫理の先生は丹波の笹山を連れて表門から落雲館へ引き上げる。吾輩のいわゆる大事件はこれでひとまず落着を告げた。なんのそれが大事件かと笑うなら、笑うがいい。そんな人には大事件でないまでだ。吾輩は大事件を写したので、大事件をしるしたのではない。しりが切れてきようだのばつせいだなどとあつこうする者があるなら、これが主人の特色であることを記憶してもらいたい。主人がこつけいぶんの材料になるのもまたこの特色に存することを記憶してもらいたい。十四、五の子供を相手にするのはばかだと言うなら吾輩もばかに相違ないと同意する。だからおおまちけいげつは主人をつらまえていまだ稚気をまぬがれずと言うている。

 吾輩はすでに小事件を叙しおわり、今また大事件を述べおわったから、これより大事件のあとにおこるらんを描きいだして、全編の結びをつけるつもりである。すべて吾輩の書くことは、口から出任せのいいかげんと思う読者もあるかもしれないがけっしてそんなけいそつな猫ではない。一字一句のうちに宇宙の一大哲理を包含するはむろんのこと、その一字一句が層々連続すると首尾相応じ前後相照らして、だんせんと思ってうっかり読んでいたものがこつぜんひようへんして容易ならざる法語となるんだから、けっして寝ころんだり、足を出して五行ごと一度に読むのだなどという無礼を演じてはいけない。りゆうそうげんかん退たいの文を読むごとにしようの水で手を清めたというくらいだから、吾輩の文に対してもせめて自腹で雑誌を買って来て、友人のお余りを借りて間に合わすという不始末だけはないことにいたしたい。これから述べるのは、吾輩みずから余瀾と号するのだけれど、余瀾ならどうせつまらんにきまっている、読まんでもよかろうなどと思うととんだ後悔をする。ぜひしまいまで精読しなくてはいかん。

 大事件のあった翌日、吾輩はちょっと散歩がしたくなったから表へ出た。すると向こう横丁へ曲がろうというかどかねの旦那とすずとうさんがしきりに立ちながら話をしている。金田君は車でへ帰るところ、鈴木君は金田君のを訪問して引き返す途中で両人ふたりがばったりと出会ったのである。近来は金田の邸内も珍しくなくなったから、めったにあちらの方角へは足が向かなかったが、こうお目にかかってみると、なんとなくおなつかしい。鈴木にも久々だからよそながら拝顔の栄を得ておこう。こう決心してのそのそ御両君のちよりつしておらるるそば近く歩み寄ってみると、自然両君の談話が耳に入る。これは吾輩の罪ではない。先方が話しているのが悪いのだ。金田君はたんていさえつけて主人の動静をうかがうくらいの程度の良心を有している男だから、吾輩が偶然君の談話を拝聴したっておこらるる気づかいはあるまい。もしおこられたら君は公平という意味を御承知ないのである。とにかく吾輩は両君の談話を聞いたのである。聞きたくて聞いたのではない。聞きたくもないのに談話のほうで吾輩の耳の中へ飛び込んで来たのである。

 「ただ今お宅へ伺いましたところで、ちょうどよい所でお目にかかりました」と藤さんは丁寧に頭をぴょこつかせる。

 「うむ、そうかえ。じつはこないだから、君にちょっと会いたいと思っていたがね。それはよかった」

 「へえ、それは好都合でございました。何か御用で」

 「いやなに、たいしたことでもないのさ。どうでもいいんだが、君でないとできないことなんだ」

 「私にできることならなんでもやりましょう。どんなことで」

 「ええ、そう……」と考えている。

 「なんなら、御都合の時出直して伺いましょう。いつがよろしゅう、ございますか」

 「なあに、そんなにたいしたことじゃあないのさ。──それじゃせっかくだから頼もうか」

 「どうか御遠慮なく……」

 「あの変人ね。そら君の旧友さ。苦沙弥とかなんとかいうじゃないか」

 「ええ苦沙弥がどうかしましたか」

 「いえ、どうもせんがね。あの事件以来むなくそが悪くってね」

 「ごもっともで、全く苦沙弥はごうまんですから──少しは自分の社会上の地位を考えているといいのですけれども、まるでひと天下ですから」

 「そこさ。金に頭はさげん、実業家なんぞ──とかなんとか、いろいろなまなことを言うから、そんなら実業家の腕前を見せてやろう、と思ってね。こないだからだいぶ弱らしているんだが、やっぱりがんばっているんだ。どうもごうじようなやつだ。驚いたよ」

 「どうも損得という観念の乏しいやつですからむやみにやせ我慢を張るんでしょう。昔からああいう癖のある男で、つまり自分の損になることに気がつかないんですから度しがたいです」

 「あはははほんとに度しがたい。いろいろ手をかえ品をかえてやってみるんだがね。とうとうしまいに学校の生徒にやらした」

 「そいつは妙案ですな。きき目がございましたか」

 「これにゃあ、やつもだいぶ困ったようだ。もう遠からず落城するにきまっている」

 「そりゃ結構です。いくらいばってもぜいぜいですからな」

 「そうさ、一人じゃあしかたがねえ。それでだいぶ弱ったようだが、まあどんな様子か君に行って見て来てもらおうというのさ」

 「はあ、そうですか。なにわけはありません。すぐ行ってみましょう。様子は帰りがけに御報知をいたすことにして。おもしろいでしょう、あのがんなのが意気消沈しているところは、きっと見ものですよ」

 「ああ、それじゃ帰りにお寄り、待っているから」

 「それでは御免こうむります」

 おや今度もまたこんたんだ、なるほど実業家の勢力はえらいものだ、石炭の燃えがらのような主人を逆上させるのも、もんの結果主人の頭がはえすべりのなんじよとなるのも、その頭がイスキラスと同様の運命に陥るのも皆実業家の勢力である。地球が地軸を回転するのはなんの作用かわからないが、世の中を動かすものはたしかに金である。この金のりきを心得て、この金の威光を自由に発揮する者は実業家諸君をおいてほかに一人もない。太陽が無事に東から出て、無事に西へ入るのも全く実業家のおかげである。今まではわからずやのきゆうだいの家に養われて実業家のやくを知らなかったのは、我ながら不覚である。それにしてもめいがんれいの主人も今度は少し悟らずばなるまい。これでも冥頑不霊で押し通す了見だとあぶない。主人の最も貴重する命があぶない。彼は鈴木君に会ってどんな挨拶をするのかしらん。その模様で彼の悟り具合もおのずからぶんみようになる。ぐずぐずしてはおられん、猫だって主人のことだから大いに心配になる。早々鈴木君をすり抜けてお先へ帰宅する。

 鈴木君は相変わらず調子のいい男である。きょうは金田のことなどはおくびにも出さない、しきりにあたりさわりのない世間話をおもしろそうにしている。

 「君少し顔色が悪いようだぜ、どうかしやせんか」

 「べつにどこもなんともないさ」

 「でも青いぜ、用心せんといかんよ。時候が悪いからね。よるは安眠ができるかね」

 「うん」

 「何か心配でもありゃしないか、ぼくにできることならなんでもするぜ。遠慮なく言いたまえ」

 「心配って、何を?」

 「いえ、なければいいが、もしあればということさ。心配がいちばん毒だからな。世の中は笑っておもしろくくらすのが得だよ。どうも君はあまり陰気すぎるようだ」

 「笑うのも毒だからな。むやみに笑うと死ぬことがあるぜ」

 「冗談言っちゃいけない。笑うかどには福きたるさ」

 「昔ギリシアにクリシッパスという哲学者があったが、君は知るまい」

 「知らない。それがどうしたのさ」

 「その男が笑い過ぎて死んだんだ」

 「へえー、そいつは不思議だね。しかしそりゃ昔のことだから……」

 「昔だって今だって変わりがあるものか。が銀のどんぶりから無花果いちじゆくを食うのを見て、おかしくってたまらなくってむやみに笑ったんだ。ところがどうしても笑いがとまらない。とうとう笑い死にに死んだんだあね」

 「ハハハしかしそんなにとめどもなく笑わなくってもいいさ。少し笑う──適宜に、──そうするといい心持ちだ」

 鈴木君がしきりに主人の動静を研究していると、表の門ががらがらとあく、きやくらいかと思うとそうでない。

 「ちょっとボールがはいりましたから、取らしてください」

 下女は台所から「はい」と答える。書生は裏手へ回る。鈴木は妙な顔をしてなんだいと聞く。

 「裏の書生がボールを庭へ投げ込んだんだ」

 「裏の書生? 裏に書生がいるのかい」

 「落雲館という学校さ」

 「ああそうか、学校か。ずいぶん騒々しいだろうね」

 「騒々しいのなんのって。ろくろく勉強もできやしない。ぼくが文部大臣ならさっそく閉鎖を命じてやる」

 「ハハハだいぶおこったね。何かしゃくにさわることでもあるのかい」

 「あるのないのって、朝から晩までしゃくにさわり続けだ」

 「そんなにしゃくにさわるなら越せばいいじゃないか」

 「だれが越すもんか、失敬千万な」

 「ぼくにおこったってしかたがない。なあに子供だあね。うっちゃっておけばいいさ」

 「君はよかろうがぼくはよくない。きのうは教師を呼びつけて談判してやった」

 「それはおもしろかったね。恐れ入ったろう」

 「うん」

 この時またかどぐちをあけて、「ちょっとボールがはいりましたから取らしてください」と言う声がする。

 「いやだいぶ来るじゃないか、またボールだぜ君」

 「うん、表から来るように契約したんだ」

 「なるほどそれであんなに来るんだね。そうーか、わかった」

 「何がわかったんだい」

 「なに、ボールを取りにくる原因がさ」

 「きょうはこれで十六ぺん目だ」

 「君うるさくないか。来ないようにしたらいいじゃないか」

 「来ないようにするったって、来るからしかたがないさ」

 「しかたがないと言えばそれまでだが、そう頑固にしていないでもよかろう。人間はかどがあると世の中をころがって行くのが骨が折れて損だよ。丸いものはごろごろどこへでも苦なしに行けるが四角なものはころがるに骨が折れるばかりじゃない、ころがるたびに角がすれて痛いものだ。どうせ自分一人の世の中じゃなし、そう自分の思うように人はならないさ。まあなんだね。どうしても金のある者に、たてを突いちゃ損だね。ただ神経ばかり痛めて、からだは悪くなる、人はほめてくれず。向こうは平気なものさ。すわって人を使いさえすればすむんだから。多勢に無勢どうせ、かなわないのは知れているさ。頑固もいいが、立て通すつもりでいるうちに、自分の勉強にさわったり、毎日の業務にはんを及ぼしたり、とどの詰まりが骨折り損のくたびれもうけだからね」

 「御免なさい。今ちょっとボールが飛びましたから、裏口へ回って、取ってもいいですか」

 「そらまた来たぜ」と鈴木君は笑っている。

 「失敬な」と主人はまっかになっている。

 鈴木君はもうたいがい訪問の意を果たしたと思ったから、それじゃ失敬ちと来たまえと帰ってゆく。

 入れ代わってやって来たのが甘木先生である。逆上家が自分で逆上家だと名乗る者は昔から例が少ない、これは少々変だなとさとった時は逆上のとうげはもう越している。主人の逆上はきのうの大事件の際に最高度に達したのであるが、談判も竜頭蛇尾たるにかかわらず、どうかこうか始末がついたのでその晩書斎でつくづく考えてみると少し変だと気がついた。もっとも落雲館が変なのか、自分が変なのか疑いを存する余地は十分あるが、なにしろ変に違いない。いくら中学校の隣りに居を構えたって、かくのごとく年が年じゅうかんしゃくを起こしつづけはちと変だと気がついた。変であってみればどうかしなければならん。どうするったってしかたがない、やはり医者の薬でも飲んでかんしゃくの源にわいでも使ってするよりほかに道はない。こうさとったからへいぜいかかりつけの甘木先生を迎えて診察を受けてみようという了見を起こしたのである。賢か愚か、そのへんは別問題として、とにかく自分の逆上に気がついただけは殊勝の志、どくの心得と言わなければならん。甘木先生は例のごとくにこにこと落ち付きはらって、「どうです」と言う。医者はたいていどうですと言うにきまってる。吾輩は「どうです」と言わない医者はどうも信用をおく気にならん。

 「先生どうもだめですよ」

 「え、何そんなことがあるものですか」

 「いったい医者の薬はきくものでしょうか」

 甘木先生も驚いたが、そこは温厚のちようじやだから、べつだん激した様子もなく、

 「きかんこともないです」と穏やかに答えた。

 「わたしの胃病なんか、いくら薬を飲んでも同じことですぜ」

 「けっして、そんなことはない」

 「ないですかな。少しはよくなりますかな」と自分の胃のことを人に聞いてみる。

 「そう急には、なおりません、だんだんききます。今でももとよりだいぶよくなっています」

 「そうですかな」

 「やはりかんしやくが起こりますか」

 「おこりますとも、夢にまでかんしゃくを起こします」

 「運動でも、少しなさったらいいでしょう」

 「運動すると、なおかんしゃくが起こります」

 甘木先生もあきれ返ったものとみえて、

 「どれ一つ拝見しましょうか」と診察を始める。診察を終わるのを待ちかねた主人は、突然大きな声を出して、

 「先生、せんだって催眠術の書いてある本を読んだら、催眠術を応用して手癖の悪いんだの、いろいろな病気だのを直すことができると書いてあったですが、ほんとうでしょうか」と聞く。

 「ええ、そういう療法もあります」

 「今でもやるんですか」

 「ええ」

 「催眠術をかけるのはむずかしいものでしょうか」

 「なにわけはありません。わたしなどもよくかけます」

 「先生もやるんですか」

 「ええ、一つやってみましょうか。だれでもかからなければならん理窟のものです。あなたさえよければかけてみましょう」

 「そいつはおもしろい、一つかけてください。わたしもとうからかかってみたいと思ったんです。しかしかかりきりで目がさめないと困るな」

 「なに大丈夫です。それじゃやりましょう」

 相談はたちまち一決して、主人はいよいよ催眠術をかけらるることになった。吾輩は今までこんなことを見たことがないから心ひそかに喜んでその結果を座敷のすみから拝見する。先生はまず、主人の目からかけ始めた。その方法を見ていると、両眼のうわまぶたを上から下へとなでて、主人がすでに目を眠っているにもかかわらず、しきりに同じ方向へくせをつけたがっている。しばらくすると先生は主人に向かって「こうやって、瞼をなでていると、だんだん目が重たくなるでしょう」と聞いた。主人は「なるほど重くなりますな」と答える。先生はなお同じようになでおろし、なでおろし「だんだん重くなりますよ、ようござんすか」と言う。主人もその気になったものか、なんとも言わずに黙っている。同じさつほうはまた三、四分繰り返される。最後に甘木先生は「さあもうあきませんぜ」と言われた。かわいそうに主人の目はとうとうつぶれてしまった。「もうあかんのですか」「ええもうあきません」主人はもくねんとして目を眠っている。吾輩は主人がもう盲になったものと思い込んでしまった。しばらくして先生は「あけるならあいてごらんなさい。とうていあけないから」と言われる。「そうですか」と言うが早いか主人は普通のとおり両眼をあいていた。主人はにやにや笑いながら「かかりませんな」と言うと甘木先生も同じく笑いながら「ええ、かかりません」と言う。催眠術はついに不成功におわる。甘木先生も帰る。

 その次に来たのが──主人のうちへこのくらい客の来たことはない。交際の少ない主人の家にしてはまるでうそのようである。しかし来たに相違ない。しかも珍客が来た。吾輩がこの珍客のことを一ごんでも記述するのはたんに珍客であるがためではない。吾輩は先刻申すとおり大事件の余瀾を描きつつある。しかしてこの珍客はこの余瀾を描くにあたって逸すべからざる材料である。なんという名前か知らん、ただ顔の長い上に、のようなひげをはやしている四十前後の男といえばよかろう。迷亨の美学者たるに対して、吾輩はこの男を哲学者と呼ぶつもりである。なぜ哲学者というと、何も迷亭のように自分で振り散らすからではない、ただ主人と対話する時の様子を拝見しているといかにも哲学者らしく思われるからである。これも昔の同窓とみえて両人ふたりとも応対ぶりはしごく打ち解けたありさまだ。

 「うん迷亭か、あれは池に浮いてるきんぎよのようにふわふわしているね。せんだって友人を連れて一面識もない華族の門前を通行した時、ちょっと寄って茶でも飲んで行こうと言って引っぱり込んだそうだがずいぶんのんきだね」

 「それでどうしたい」

 「どうしたか聞いてもみなかったが、──そうさ、まあてんぴんの奇人だろう、そのかわり考えも何もない全く金魚麩だ。鈴木か、──あれが来るのかい、へえー、あれは理窟はわからんが世間的には利口な男だ。金時計は下げられるたちだ。しかし奥ゆきがないから落ち付きがなくってだめだ。円滑円滑と言うが、円滑の意味も何もわかりはせんよ。迷亭が金魚麩ならあれはわらでつくったこんにゃくだね。ただわるくなめらかでぶるぶるふるえているばかりだ」

 主人はこの奇警なを聞いて、大いに感心したものらしく、久しぶりでハハハと笑った。

 「そんなら君はなんだい」

 「ぼくか、そうさなぼくなんかは──まあねんじよぐらいなところだろう。長くなってどろの中にうまってるさ」

 「君は始終たいぜんとして気楽なようだが、うらやましいな」

 「なに普通の人間と同じようにしているばかりさ。べつにうらやまれるに足るほどのこともない。ただありがたいことに人をうらやむ気も起こらんから、それだけいいね」

 「会計は近ごろ豊かかね」

 「なに向じことさ。足るや足らずさ。しかし食うているから大丈夫。驚かないよ」

 「ぼくは不愉快で、かんしゃくが起こってたまらん。どっち向いても不平ばかりだ」

 「不平もいいさ。不平が起こったら起こしてしまえば当分はいい心持ちになれる。人間はいろいろだから、そう自分のように人にもなれと勧めたって、なれるものではない。はしは人と同じように持たんと飯が食いにくいが、自分のパンは自分のかってに切るのがいちばん都合がいいようだ。じような仕立屋で着物をこしらえれば、着たてから、からだに合ったのを持ってくるが、したにあつらえたら当分は我慢しないとだめさ。しかし世の中はうまくしたもので、着ているうちには洋服のほうで、こちらの骨格に合わしてくれるから。今の世に合うように上等な両親が手ぎわよく生んでくれれば、それが幸福なのさ。しかしできそこなったら世の中に合わないで我慢するか、または世の中で合わせるまでしんぼうするよりほかに道はなかろう」

 「しかしぼくなんか、いつまでたっても合いそうにないぜ、心細いね」

 「あまり合わない背広を無理に着るとほころびる。けんかをしたり、自殺をしたり騒動が起こるんだね。しかし君なんかただおもしろくないと言うだけで自殺はむろんしやせず、けんかだってやったことはあるまい。まあまあいいほうだよ」

 「ところが毎日けんかばかりしているさ。相手が出て来なくってもおこっておればけんかだろう」

 「なるほど一人けんかだ。おもしろいや、いくらでもやるがいい」

 「それがいやになった」

 「そんならよすさ」

 「君の前だが自分の心がそんなに自由になるものじゃない」

 「まあぜんたい何がそんなに不平なんだい」

 主人はここにおいて落雲館事件を初めとして、今戸焼きのたぬきから、ぴん助、きしゃごそのほかにあらゆる不平をあげてとうとうと哲学者の前に述べ立てた。哲学者先生は黙って聞いていたが、ようやく口を開いて、かように主人に説きだした。

 「ぴん助やきしゃごが何を言ったって知らん顔をしておればいいじゃないか。どうせくだらんのだから。中学の生徒なんかかまう価値があるものか。なに妨害になる。だって談判しても、けんかをしてもその妨害はとれんのじゃないか。ぼくはそういう点になると西洋人より昔の日本人のほうがよほどえらいと思う。西洋人のやり方は積極的積極的といって近ごろだいぶはやるが、あれは大なる欠点をもっているよ。第一積極的といったって際限がない話だ。いつまで積極的にやり通したって、満足という域とか完全という境にいけるものじゃない。向こうにひのきがあるだろう。あれが目ざわりになるから取り払う。とその向こうの下宿屋がまた邪魔になる。下宿屋を退去させると、その次の家がしゃくにさわる。どこまで行っても際限のない話さ。西洋人のやり口はみんなこれさ。ナポレオンでも、アレキサンダーでも勝って満足した者は一人もないんだよ。人が気に食わん、けんかをする、先方が閉口しない、法廷へ訴える、法廷で勝つ、それで落着と思うのは間違いさ。心の落着は死ぬまであせったって片づくことがあるものか。じんせいがいかんから、代議政体にする。代議政体がいかんから、また何かをしたくなる。川が生意気だって橋をかける、山が気に食わんといってトンネルを掘る。交通がめんどうだといって鉄道をしく。それで永久満足ができるものじゃない。さればといって人間だものどこまで積極的に我意を通すことができるものか。西洋の文明は積極的、進取的かもしれないがつまり不満足で一生をくらす人の作った文明さ。日本の文明は自分以外の状態を変化させて満足を求めるのじゃない。西洋と大いに違うところは、根本的に周囲の境遇は動かすべからざるものという一大仮定のもとに発達しているのだ。親子の関係がおもしろくないといって欧州人のようにこの関係を改良して落ち付きをとろうとするのではない。親子の関係は在来のままでとうてい動かすことができんものとして、その関係のもとに安心を求むる手段を講ずるにある。夫婦君臣の間がらもそのとおり、武士町人の区別もそのとおり、自然そのものを見るのもそのとおり。──山があって隣国へ行かれなければ、山をくずすという考えを起こすかわりに隣国へ行かんでも困らないというくふうをする。山を越さなくとも満足だという心持ちを養成するのだ。それだから君見たまえ。ぜんでもじゆでもきっと根本的にこの問題をつらまえる。いくら自分がえらくても世の中はとうてい意のごとくなるものではない、落日をめぐらすことも、がわさかに流すこともできない。ただできるものは自分の心だけだからね。心さえ自由にする修業をしたら、落雲館の生徒がいくら騒いでも平気なものではないか、今戸焼きの狸でもかまわんでおられそうなものだ。ぴん助なんか愚なことを言ったらこのばかやろうとすましておれば子細なかろう。なんでも昔の坊主は人に切りつけられた時電光影裏に春風を斬るとか、なんとかしゃれたことを言ったという話だぜ。心の修業がつんで消極の極に達するとこんな霊活な作用ができるのじゃないかしらん。ぼくなんか、そんなむずかしいことはわからないが、とにかく西洋人ふうの積極主義ばかりがいいと思うのは少々誤っているようだ。現に君がいくら積極主義に働いたって、生徒が君をひやかしに来るのをどうすることもできないじゃないか。君の権力であの学校を閉鎖するか、また先方が警察に訴えるだけの悪い事をやれば格別だが、さもない以上は、どんなに積極的に出たったて勝てっこないよ。もし積極的に出るとすれば金の問題になる。多勢に無勢の問題になる。換言すると君が金持ちに頭を下げなければならんということになる。衆をたのむ子供に恐れ入らなければならんということになる。君のような貧乏人でしかもたった一人で積極的にけんかをしようというのがそもそも君の不平の種さ。どうだいわかったかい」

 主人はわかったとも、わからないとも言わずに聞いていた。珍客が帰ったあとで書斎へはいって書物を読まずに何か考えていた。

 鈴木の藤さんは金と衆とに従えと主人に教えたのである。甘木先生は催眠術で神経を沈めろと助言したのである。最後の珍客は消極的の修養で安心を得ろと説法したのである。主人がいずれをえらぶかは主人の随意である。ただこのままでは通されないにきまっている。

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