七
海水浴は追って実行することにして、運動だけはとりあえずやることにとりきめた。どうも二十世紀の今日運動せんのはいかにも貧民のようで人聞きが悪い。運動をせんと、運動せんのではない、運動ができんのである、運動をする時間がないのである、余裕がないのだと鑑定される。昔は運動した者が
横丁を左へ折れると向こうに高いとよ竹のようなものが
何が奇観だ? 何が奇観だって吾輩はこれを口にするをはばかるほどの奇観だ。このガラス窓の中にうじゃうじゃ、があがあ騒いでいる人間はことごとく裸体である。
衣服はかくのごとく人間にもたいじなものである。人間が衣服か、衣服が人間かというくらい重要な条件である。人間の歴史は肉の歴史にあらず、骨の歴史にあらず、血の歴史にあらず、たんに衣服の歴史であると申したいくらいだ。だから衣服を着けない人間を見ると人間らしい感じがしない。まるで化け物に
しかるに今吾輩が眼下に見おろした人間の一団体は、この脱ぐべからざる猿股も羽織もないし袴もことごとく
なんだかごちゃごちゃしていて何から記述していいかわからない。化け物のやることには規律がないから秩序立った証明をするのに骨が折れる。まず
天水桶はこのくらいにして、白い湯の方を見るとこれはまた非常な大入りで、湯の中に人がはいってるといわんより人の中に湯がはいってるというほうが適当である。しかも彼らはすこぶる
しばらくはじいさんのほうへ気を取られてほかの化け物のことは全く忘れていたのみならず、苦しそうにすくんでいた主人さえ記憶の
いかにばかでも病気でも主人に変わりはない。
帰ってみると天下は太平なもので、主人は湯上がりの顔をテラテラ光らして
「おい、その猫の頭をちょっとぶってみろ」と主人は突然細君に請求した。
「ぶてば、どうするんですか」
「どうしてもいいからちょっとぶってみろ」
こうですかと細君は平手で吾輩の頭をちょっとたたく。痛くもなんともない。
「鳴かんじゃないか」
「ええ」
「もう一ぺんやってみろ」
「なんべんやったって同じことじゃありませんか」と細君また平手でぽかと参る。やはりなんともないから、じっとしていた。しかしそのなんのためたるやは知慮深き吾輩にはとんと了解しがたい。これが了解できれば、どうかこうか方法もあろうがただぶってみろだから、ぶつ細君も困るし、ぶたれる吾輩も困る。主人は三度まで思いどおりにならんので、少々じれぎみで「おい、ちょっと鳴くようにぶってみろ」と言った。
細君はめんどうな顔つきで「鳴かしてなんになさるんですか」と問いながら、またぴしゃりとおいでになった。こう先方の目的がわかればわけはない、鳴いてさえやれば主人を満足させることはできるのだ。主人はかくのごとく
すると主人は細君に向かって「今鳴いた、にゃあという声は間投詞か、副詞かなんだか知ってるか」と聞いた。
細君はあまり突然な問いなので、なんにも言わない。じつをいうと吾輩もこれは銭湯の逆上がまださめないためだろうと思ったくらいだ。元来この主人は近所
「おい」と呼びかけた。
細君はびっくりして「はい」と答えた。
「そのはいは間投詞か副詞か、どっちだ」
「どっちですか、そんなばかげたことはどうでもいいじゃありませんか」
「いいものか、これが現に国語家の頭脳を支配している大間題だ」
「あらまあ猫の鳴き声がですか、いやなことねえ。だって、猫の鳴き声は日本語じゃあないじゃありませんか」
「それだからさ。それがむずかしい問題なんだよ。比較研究というんだ」
「そう」と細君は利口だから、こんなばかな問題には関係しない。「それで、どっちだかわかったんですか」
「重要な問題だからそう急にはわからんさ」と例の
「今夜はなかなかあがるのね。もうだいぶ赤くなっていらっしゃいますよ」
「飲むとも。──お前世界でいちばん長い字を知ってるか」
「ええ、
「それは名前だ。長い字を知ってるか」
「字って横文字ですか」
「うん」
「知らないわ、──お酒はもういいでしょう、これで御飯になさいな、ねえ」
「いや、まだ飲む。いちばん長い字を教えてやろうか」
「ええ。そうしたら御飯ですよ」
「 Archaiomelesidonophrunicherata という字だ」
「でたらめでしょう」
「でたらめなものか、ギリシア語だ」
「なんという字なの、日本語にすれば」
「意味は知らん。ただ
他人なら酒の上で言うべきことを、正気で言っているところがすこぶる奇観である。もっとも今夜に限って酒をむやみに飲む。平生なら
「もうおよしになったら、いいでしょう。苦しいばかりですわ」とにがにがしい顔をする。
「なに苦しくってもこれから少しけいこするんだ。
「桂月ってなんです」さすがの桂月も細君にあっては
「柱月は現今一流の批評家だ。それが飲めと言うのだからいいにきまっているさ」
「ばかをおっしゃい。桂月だって、
「酒ばかりじゃない。交際をして、道楽をして、旅行をしろといった」
「なお悪いじゃありませんか。そんな人が第一流の批評家なの。まああきれた。妻子のある者に道楽をすすめるなんて……」
「道楽もいいさ。桂月がすすめなくっても金さえあればやるかもしれない」
「なくってしあわせだわ。今から道楽なんぞ始められらちゃたいへんですよ」
「たいへんだと言うならよしてやるから、そのかわりもう少し夫をだいじにして、そうして晩に、もっとごちそうを食わせろ」
「これが精いっぱいのところですよ」
「そうかしらん。それじゃ道楽は追って金がはいり次第やることにして、今夜はこれでやめよう」と飯茶わんを出す。なんでも茶づけを三ぜん食ったようだ。吾輩はその夜豚肉三切れと塩焼きの頭を頂戴した。
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